第15話:死のダンジョンへの招待状
第15話:死のダンジョンへの招待状
蛇目が去ってから、廃屋はまた、静けさを取り戻した。
だが、その静けさは、以前の、氷のように冷たい沈黙とは、少しだけ質が違っていた。華とジンの間には、相変わらず言葉は少ない。しかし、そこには、蛇目という共通の知人を介して生まれた、かすかな共犯意識のようなものが漂っていた。
夕餉の時、華が「蛇目さんは、もう次の街に着いたでしょうか」とぽつりと呟くと、ジンは「ああ。あいつなら、どこででもうまくやる」と、短く、しかし確信に満ちた声で答えた。その声には、長年の相棒への、確かな信頼が滲んでいた。
華は、そんなジンの横顔を見ながら、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じていた。彼は、心を閉ざしているわけではない。ただ、その扉の開け方が、ひどく不器用なだけなのだ。
ジンは、蛇目が残した地図を、毎晩のように、ランプの灯りの下で眺めていた。「黒蠍団」と記された紋章、そして、彼らの拠点と思われる場所。それは、いつか必ず訪れるであろう、避けられぬ戦いを予感させていた。
だが、その日は、すぐには来なかった。
まるで、巨大な獣が、息を潜めて獲物を観察しているかのように、不気味なほどの平穏が、村を包み込んでいた。
華は、毎日、薬草を摘み、銅貨を稼いだ。ジンは、魔窟へ潜り、家の修繕をし、そして、華が森へ入る時には、必ず、気づかれないように、少し離れた場所から彼女の気配を見守っていた。華は、そのことに気づいていたが、何も言わなかった。それが、彼の不器用な優しさの形なのだと、もう分かっていたから。
ある日の午後、華がいつものように薬草を摘んで家に帰ると、家の前に、見慣れない男たちが数人、立っているのが見えた。
村人ではない。その誰もが、鍛えられた体つきをしており、腰には、抜けばすぐに血を吸うであろう、鋭い光を放つ剣を差している。その中心に立つ男は、ひときわ体格が良く、その顔には、大きな十字の傷跡が刻まれていた。彼らの纏う黒い装束には、蠍の紋章が刺繍されている。
――黒蠍団。
華の心臓が、氷水に浸されたように冷たくなった。
家の戸口には、ジンが立っていた。彼は、大剣を背負ったまま、まるで、この時が来るのをずっと待っていたかのように、静かに男たちと対峙している。
「お前が、ジンだな」
十字傷の男が、低い声で言った。その声は、蛇善のような下品さはなく、むしろ、理知的な響きさえあった。
「うちの蛇善が、世話になったようだ」
「……何の用だ」
ジンの声も、同じくらいに低く、そして硬かった。
「そう殺気立つな。今日は、戦いに来たわけじゃない。お前に、いい儲け話を持ってきた」
男は、にやりと口の端を吊り上げた。
「俺は、この黒蠍団の頭、バザルという。見ての通り、荒くれ者の集まりだが、俺は、無駄な血が流れるのは好かん。特に、お前のような、価値のある男の血はな」
バザルは、ジンの腕前を正確に見抜いていた。蛇善からの報告か、あるいは、独自の調査か。いずれにせよ、彼は、ジンの力を、ただの暴力ではなく、「利用価値のある資源」として捉えている。
「儲け話、だと?」
「ああ。この地方の魔窟の奥深くに、まだ誰もたどり着いたことのない、伝説の場所がある。『龍の顎』と呼ばれている、最難関のダンジョンだ。そこには、古代文明の遺物が、手つかずのまま眠っているという」
龍の顎。その名を聞いて、ジンの眉が微かに動いた。傭兵の間では、死の代名詞として知られている場所だ。生きて帰ってきた者は、一人もいないとされている。
「その龍の顎を、お前に探索してもらいたい。無論、報酬は弾む。成功すれば、金貨一万。お前が一生遊んで暮らせるだけの額だ」
金貨一万。それは、国家予算にも匹敵するような、天文学的な数字だった。
だが、ジンは、その提案に、冷ややかに鼻を鳴らした。
「……断る。命あっての物種だ。そんな自殺行為に、付き合う気はねえ」
「だろうな」
バザルは、ジンの返事を、最初から予測していたかのように、頷いた。
「だから、お前が断れないように、保険も用意してきた」
彼は、すっと顎で、ジンの背後を指し示した。
ジンの後ろ、家の戸口の影から、華が、息をのんでその光景を見守っていた。
バザルの、冷たい目が、真っ直ぐに華を射抜く。
「……いい女だな。お前にとって、金よりも、命よりも、大事なもののようだ」
その言葉に、ジンの全身から、殺気が溢れ出した。空気が、びりびりと震える。
バザルは、その殺気をものともせず、続けた。
「この話を受けなければ、俺たちは、この村を焼く。女、子供、年寄り、一人残らず、だ。もちろん、そこにいるお前の大事な女も、最初に、念入りに、可愛がってやった後でな」
それは、交渉ではなかった。
選択の余地のない、一方的な脅迫。
彼の「弱点」を的確に突き、逃げ道を完全に塞ぐ、狡猾で、残忍な罠。
ジンは、固く拳を握りしめた。その指の関節が、白くなる。もし、自分一人なら、今この場で、こいつらを皆殺しにして、どこへでも逃げられただろう。だが、今の彼には、守るべきものができてしまった。華が、そして、この不器用な彼を受け入れ始めた、この村が。
それは、彼に生きる意味を与え、同時に、致命的な枷となっていた。
「……分かった」
ジンは、歯ぎしりをしながら、絞り出すように言った。
「その話、受けよう」
バザルは、満足そうに頷いた。
「話が早くて助かる。準備の時間は三日やろう。三日後、俺の部下がお前を『龍の顎』の入り口まで案内する」
彼は、それだけを言うと、部下たちを引き連れて、悠々と去っていった。
後に残されたのは、絶望的な沈黙と、そして、死のダンジョンへの、片道切符だけだった。




