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第13話:初めての感謝と昔の面影

第13話:初めての感謝と昔の面影

 井戸の水が元に戻ってから、村には奇妙な平穏が訪れた。

 村人たちは、何が起きたのか真相を知らないまま、ただ日常を取り戻したことに安堵していた。彼らは、もうジンを追い出そうとはしなかったが、同時に、彼に近づこうともしなかった。得体の知れない、関わってはいけない存在として、遠巻きに眺めているだけ。ジンと村との間には、見えない壁が、より一層、厚くそびえ立ってしまったようだった。

 ジン自身は、そんな村の空気を気にする素振りも見せず、いつも通り、魔窟へ潜り、家の修繕をする日々を送っていた。だが、華には分かった。彼の纏う孤独の匂いが、以前よりも、少しだけ深くなっていることに。


 その夜、華は意を決した。

 夕餉の後、ジンがいつものように大剣の手入れを始めた時、彼女はそっと彼の隣に座った。そして、小さな器に入れた薬湯と、清潔な布を、彼の前に差し出した。

 ジンが、訝しげな視線を彼女に向ける。

「……何だ」

「手当てを、させてください」

 華の声は、少し震えていた。だが、その瞳は、まっすぐに彼を見つめていた。

「あなたの体にある、新しい傷のです。昨日の夜、つけてこられたのでしょう?」

 ジンの肩が、微かにこわばった。彼は、自分の体のことなど、誰にも気づかれていないと思っていたのだろう。特に、返り血を浴びた鎧の下、服で隠れた場所にある、生々しい切り傷のことは。

「……いらん。放っておけば、治る」

 彼は、そう言って、再び剣に目を落とした。明確な拒絶だった。

 だが、華は引かなかった。

「お願いします」

 もう一度、彼女は言った。今度は、より強い意志を込めて。

「あなたは、この村を、そして、私を守ってくれました。そのお礼がしたいんです。……いいえ、これは、お礼ではありません。私の、我儘です。あなたのことを、もっと知りたい。だから、触れさせてください」

 その言葉は、ほとんど告白に近かった。

 ジンは、動きを止めた。砥石を握る手が、固くこわばっている。彼の心の壁を、華が、真正面から叩いている。その必死な響きに、彼はどう応えればいいのか分からないでいた。

 沈黙を破ったのは、意外にも、部屋の隅でその様子を見ていた蛇目だった。

「……いい加減にしたらどうだい、ジン。女が、そこまで言ってやってるんだ。素直に手当てくらい、されたらどうだ」

 その声には、からかいと、そしてほんの少しの諦めが混じっていた。

 ジンは、苦虫を噛み潰したような顔で、一度、蛇目を睨みつけ、そして、深く、深いため息をついた。

「……好きにしろ」

 それは、許可というより、降伏の言葉に近かった。


 華は、震える手で、ジンの汚れた服の袖をまくり上げた。

 現れた腕には、筋肉が鋼のように張りつめ、そして、幾筋もの古い傷跡が、まるで地図のように刻まれている。その中に一つ、ひときわ生々しい、赤黒い切り傷があった。

 華は、息をのんだ。これが、彼の生きてきた証。

 彼女は、薬湯に浸した布を、そっとその傷口に当てた。

 びくり、とジンの体が跳ねる。薬が、傷に染みたのだろう。

「……っ!」

 彼は、痛みに顔を歪めたが、声を上げることはなかった。ただ、固く拳を握りしめ、耐えている。

 華は、できるだけ優しく、丁寧に、傷の周りの汚れを拭っていく。彼の肌は、日に焼け、硬かった。だが、その下には、確かな熱が脈打っている。彼が、自分と同じ、血の通った人間なのだという、当たり前の事実が、じわりと胸に広がった。

「ありがとうございます……私の、ために」

 ぽつり、と華は呟いた。

 ジンは、何も答えなかった。

 華は、手当てを続けながら、彼の傷だらけの手に、自分の手をそっと重ねた。その無骨で、大きな手に触れた時、ジンが、初めて彼女の方を向いた。

 そして、彼の口から、十年ぶりに、昔の響きを持つ言葉が、こぼれ落ちた。

「……昔から、お前の手は、小さかったな」

 その声は、ひどく掠れていた。

 ハッとして、ジンはすぐに口を閉ざし、気まずそうに顔をそむける。まるで、言ってはいけないことを口走ってしまったかのように。

 だが、その一言は、どんな言葉よりも深く、華の心に突き刺さった。

 この人は、覚えている。忘れてなど、いなかったのだ。

 昔の、優しかった蒼汰さんが、この傷だらけの男の、心の奥底に、まだちゃんと生きている。

 華の瞳から、一筋の涙が、音もなくこぼれ落ちた。それは、悲しみの涙ではなかった。

 その温かい涙は、薬湯と共に、ジンの傷口へと、静かに染み込んでいった。

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