第10話:語られる過去と守れなかった約束
第10話:語られる過去と守れなかった約束
食卓の上に置かれた、銅貨の入った小さな袋。
それは、金貨千枚という途方もない借金の前では、砂粒にも等しい存在だった。だが、そのささやかな存在が、三人の間に流れる空気を、確実に変えていた。
ジンは、あの日以来、華に対して何かを言うことはなかった。しかし、彼女が森へ薬草摘みに出かける時、彼は黙って、手入れの行き届いた護身用のナイフを差し出すようになった。言葉はない。ただ、無言の行動が、彼の最低限の気遣いを示していた。
蛇目もまた、華に対する態度を少しだけ軟化させていた。相変わらず口は悪かったが、その言葉の端々から、あからさまな敵意は消えていた。「そんなひょろい腕じゃ、籠を運ぶのも一苦労だろ」とぼやきながら、薬草を運ぶのを手伝ってくれることもあった。それは、華の覚悟に対する、彼女なりの敬意の表れなのかもしれなかった。
華は、そんな二人の変化に戸惑いながらも、ただ黙々と、自分にできることを続けた。毎日森へ通い、銅貨を一枚、また一枚と、小袋の中に増やしていく。そのチャリン、という小さな音が、彼女の心の支えだった。
その夜、事件は起きた。
深夜、隣の部屋から、獣が呻くような、苦しげな声が聞こえてきた。華は、はっとして身を起こす。ジンの声だ。
何事かと、そっと部屋を覗くと、月明かりの中に、苦悶に顔を歪めるジンの姿があった。彼は寝床の上で、見えない何かと戦うように、荒い息を繰り返している。
「……やめろ……来るな……!」
うわ言だった。その額には、びっしりと脂汗が浮かんでいる。
「華……逃げろ……!」
自分の名を呼ばれ、華の心臓が大きく跳ねた。彼の悪夢の中に、自分もいるのだ。十年前の、あの日の悪夢。
どうすればいいのか分からず、華が立ち尽くしていると、いつの間にか隣に蛇目が立っていた。彼女は、静かに「またか」と呟くと、慣れた手つきで水差しから布を濡らし、ジンの額に乗せた。
「……時々、こうなるのさ。あいつは、十年経っても、まだあの日の地獄から抜け出せないでいる」
蛇目の声は、いつになく静かだった。
華は、蛇目に促されるまま、音を立てないようにジンの部屋を出た。家の外の、冷たい夜風が火照った体を冷ましてくれる。
「ジンさん、は……」
「あたしが、あいつと初めて会ったのは、ここを飛び出してすぐの頃だった」
蛇目は、遠い目をして語り始めた。
「ガキのくせに、目は死んでるし、まるで亡霊みたいだったよ。生きることに、何の執着もしてないくせに、魔物を殺す腕だけは、一流だった。前世がどうとか、訳の分からんことも言ってたな。あたしは、そんなあいつの強さに惹かれて、相棒になったのさ」
彼女は、そこで一度言葉を切り、夜空を見上げた。
「あいつは、何も語らなかった。けど、一緒に旅をすりゃ、分かることもある。夜な夜な、あんたの名を呼んで、悪夢にうなされる。そして、自分を責めるんだ。『守れなかった』ってな」
蛇目の横顔は、月明かりの下で、どこか寂しそうに見えた。
「十年前、この村が魔物に襲われた時、あいつは、あんたや村の連中を守れなかった。自分の無力さに絶望した。そこへ、前世の記憶とやらが蘇って、自分が『人を殺すための力』しか持ってない、穢れた存在だと思い込んだのさ」
だから、逃げた。
大切な華や、平穏な村から。自分がここにいては、いずれ災いを呼ぶと信じて。
「……馬鹿な男だよ、全く。不器用にも、ほどがある」
蛇目は、そう言って、ふっと自嘲するように笑った。その笑みには、彼を想う女としての、やるせない感情が滲んでいた。
「あんたを金で買ったのも、きっと、そうでもしなきゃ、あんたの隣に立つ資格がねえって、あいつ自身が思い込んでるからさ。まっとうな方法で、あんたを救うことなんて、汚れた自分にはできやしないってね」
蛇目の言葉が、ゆっくりと、華の心に染み渡っていく。
彼が抱えてきた、十年分の孤独と、罪悪感。その重さに、胸が張り裂けそうになった。
自分は、彼の何を見ていたのだろう。ただ、変わり果てた姿に戸惑い、その冷たい態度に傷ついていただけではなかったか。その氷のような仮面の下で、彼がどれほど苦しみ、もがいていたのか、考えようともしなかった。
華の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
それは、哀れみや同情の涙ではなかった。
彼の深い傷を知り、その不器用な生き方を理解し、それでもなお、彼のそばにいたいと願う、温かい決意の涙だった。
自分は、ただ守られるだけの存在ではいたくない。彼の借金を返すことは、もはや、自分の矜持のためだけではなかった。
彼の背負う重荷を、ほんの少しでもいい、共に背負いたい。彼の凍てついた心を、この手で温めたい。
そのためなら、自分は、何でもできる。
華は、濡れた頬を乱暴に拭うと、固く、固く決意した。
自分は、もう、この男から逃げない。彼が、自分自身から逃げることを、決して許さない。
夜空には、無数の星が、静かに輝いていた。




