第1話:荒野のジンと過去からの手紙
第1話:荒野のジンと過去からの手紙
血の匂いと、臓物の生温かい匂いが混じり合い、洞窟の淀んだ空気を満たしていた。
ジンは、大剣の切っ先にこびりついた脂肪を、死んだ大猪の硬い毛皮で無造作にこすりつけた。ズシリ、と腕に響く手応え。切っ先は鈍っていない。まだ戦える。鎧の脇腹を抉った牙の一撃が、呼吸のたびに鈍い熱を持って疼いた。痛みにはとうに慣れた。痛みを感じているうちは、まだ生きている証拠だ。死ねば、痛みすら感じられなくなる。ただそれだけのこと。
彼は骸を一瞥すると、目当ての鉱石が埋まる岩壁へと向かった。つるはしを岩盤の亀裂に打ち込むたび、衝撃が傷口に響く。構わず、無心で腕を振るい続けた。ガツン、という鈍い音と共に、鈍色に光る鉱石の塊が剥がれ落ちる。それを拾い上げ、背嚢に押し込んだ。ずしりとした重み。これが今日の稼ぎであり、数日分の命の値段だった。それ以上でも、それ以下でもない。
洞窟の外へ出ると、鉛色の空がどこまでも広がっていた。乾いた風が土埃を巻き上げ、ジンの傷だらけの頬を、まるで乾いた砂を擦り付けるかのように撫でていく。仲間も、家族も、帰る場所もない。この荒れ果てた世界こそが、今の自分にはお似合いだと、本気でそう思っていた。
麓の街にある傭兵ギルドは、いつも通りエールの酸っぱい匂いと、汗と鉄の匂いでむせ返っていた。ジンがカウンターに鉱石の入った袋を投げ出すと、値踏みするようなギルド職員の視線が突き刺さる。値切られる前に、魔物を屠る時と同じ、殺気にも似た視線を叩き返した。男は諦めたように肩をすくめると、無言で革袋に金貨を詰め、カウンターの上を滑らせてよこした。
その金貨袋を受け取ろうとした、その時だった。
「おい、ジン。珍しいもんが届いてるぜ」
男がカウンターの下から取り出したのは、一枚の古びた羊皮紙の封筒だった。
「お前の故郷の村からだとよ。届け賃ももらっちまってる。ほらよ」
ひらり、と投げられたそれを、ジンは反射で掴んでしまう。指先に触れた羊皮紙の、乾いてざらついた感触が、なぜかひどく忌々しい。
「……いらん」
吐き捨て、背を向ける。十年前に捨てた名、捨てた思い出、捨てた場所。今さら何の用があるというのだ。
しかし、足が動かなかった。背中に突き刺さるギルド職員の視線が、やけに重い。ジンは深い舌打ちを一つすると、掴んだ封筒を乱暴に懐にねじ込んだ。
宛名に書かれた、インクが滲んだ拙い文字。『蒼汰様』。
その三文字が、まるで呪いのように、胸の奥の古い傷を抉った。
その夜、安宿の薄汚いベッドの上で、ジンは震える指で封蝋を剥がしていた。酒場で燃やしてしまえばよかったのだ。中身も見ずに、灰にしてしまえば。そうすれば、心の平穏は保たれたはずだった。なのに、できなかった。心のどこかで、この手紙がもたらす厄災を予感しながらも、知ることから逃げられなかった。
便箋を広げる。見覚えのある、少し癖のある文字は、村の長老の孫娘のものだろう。
『蒼汰様、お元気でしょうか。突然の手紙、お許しください』
儀礼的な挨拶が、ひどく白々しく目に映る。そんなものを書いている暇があるなら、本題を言え。ジンは焦れるように文字を追った。そして、視線が文の半ばで釘付けになった。
『……卯月家の華様が、借金のカタに、人買いの蛇善に売られようとしています』
――華。
その一文字を見た瞬間、呼吸が止まった。
胃の腑から、冷たいものがせり上がってくるのを感じた。指先が氷のように冷えていく。耳の奥で、キーンという高い音が鳴り響いていた。
脳裏に、土と花の匂いがした。陽光の下で、屈託なく笑う少女の顔が蘇る。許嫁。守ると、約束した。その細い指を握りしめ、必ず幸せにすると誓った。
嘘つきめ。
心の中で、誰かが嘲笑う。
十年前、魔物の群れが村を襲った。俺は、彼女の目の前で、血反吐を吐いて倒れた。守るどころか、恐怖に歪む彼女の顔を、ただ見ていることしかできなかった。そして、生死の境で蘇った前世の記憶――人を殺すための技術と、それを是としなかった平和な世界の記憶――が、俺の魂を、精神を、バラバラに引き裂いた。
俺は逃げたのだ。無力な自分から。人を殺すことしかできない、穢れた力を持ってしまった自分から。そして、何よりも、彼女の前から。
「……クソが」
便箋が、手の中で音を立てて砕けた。
関係ない。捨てた過去だ。俺は傭兵のジンで、蒼汰はもう死んだ。
そう何度も頭の中で繰り返すのに、脇腹の古傷が、十年前の無力な痛みと重なって、疼きだす。あの時と同じだ。結局、俺は何もできないのか。
ジンは、ほとんど衝動的にベッドから起き上がると、稼いだばかりの金貨袋を鷲掴みにし、扉を蹴破るようにして宿を飛び出した。
これは義理だ。いや、違う。
これは、十年前に果たせなかった約束を、今度こそ終わらせるための、ただの自己満足だ。彼女のためじゃない。俺が、俺自身の罪悪感から解放されるための、ひどく利己的な儀式に過ぎない。
そう心の中で悪態をつきながら、ジンは東へと向かう街道を、闇雲に走り出していた。