第四十四話 黄泉の川の管理者
鏡を潜り抜ける時、予想していた衝撃は来なかった。まるで薄い水の膜を通り抜けた様なぶよんとした感触がしたと思ったら、その先の上空には星一つ見えない一面の闇が広がっており、植物の気配も見えない銀色の砂粒と岩石が転がる月面の様な地面にすわ叩きつけられるかと思ったが、丸太程もあろうかという触手の主はぬるりと滑る様に着地して触手を上げた為、なんとか衝突は逃れる事はできた。
「ディラン、無事か⁉」
微妙に足がつかない高度で吸盤に片腕を吊り下げられ、状況もわからず必死に藻掻いているとさざ波の様にうねる斑模様の体表からぎろりと、人の頭よりも大きい山羊の様な黄色い瞳が覗いて思わず息を呑む。
ぶくぶくと獣の唸り声の様な、水中で人がぶつぶつぼやいている様な、なんとも言い難い不安になる低音のあぶく音を発して、その大蛸は今頃私の存在に気づいたのかぺっと腕を無造作に振り払った。当然、吸盤の力だけで吊るされていた私は悲鳴を上げながら地に落ち尻餅をつく。
「い、痛い……あ」
腰を摩りながら瞼を開いたその視線の先で、蛸足に簀巻きにされたまま口を塞がれている大層不機嫌な様子のディランと目が合った。
「……」
「……もしかして、その状態だと話せないのか」
ジト目のまま、肯定の頷きが返ってきた。無理矢理振り解こうとしたのか、彼が己の身体に力を込めた瞬間、それを咎めるようにギチリと複数の触手が圧迫する。元々弱っていた彼はくぐもった呻き声を上げた後、諦めたのか動かなくなってしまった。なんだか罠にかかった動物を見ている様な気分だ。
余りにも哀れな様子に、なんとかこの触手を引き剥がせないかとその内の一本を抱え込もうとした時、獲物を拘束する様に彼を丸め込んだまま地面に擬態した銀色と青色の斑模様を持つ大蛸は無常にも動き出した。
「——うわ、待て! せめて彼を解放してやってくれ! 弱っている様なん——いや、なら運ばれているままの方がいいのか?」
首を傾げつつ、体格差によりぐんぐんと差を付けられるので必死で走る。見渡す限り砂の色の違う砂漠としか言い様のない景色だったが、大蛸と共になだらかな砂丘を越えた先に小屋が見えた。どうやら、この生物はそこに一心不乱に向かっているようなのだ。
「いったいなんなんだここは……人工物があるなら人がいるのか?」
小屋の側には空の色と同じ、夜の海の様な色をした巨大な川が流れていた。反対側の岸が見えない程の広さだが、流れは穏やかで水面には波一つ見えない。砂原とは違い、川辺にはすでに枯れて真っ黒になった木々がたくさん生えていた。オアシスとは程遠いが、この風景ならここがそう呼称されるだろう。近づくにつれ、小屋の全貌が見えてきた。
三階建てだった博士の屋敷よりは手狭だが、まるで増築の際に部屋をつぎはぎに作ったように歪で、所々が傾いた小屋だ。釘代わりの木片で無理矢理打ち付けられた板がついた扉を開いて、折り曲げた長身を外の空間に広げる様にして出てきた人影に、思わず私は叫びそうになった。
なぜなら、触覚を生やしたその三角形の頭部には表情、いや顔面そのものがない。真っ白な仮面に見えるのっぺりとしたその顔?らしき部分から折れそうな首が刺さっており、肩と節足動物の様な関節肢で繋がっている。蜘蛛の様に大きく張り出し肘を折り曲げた多腕は合計四本。細い鎧の様な上半身と違って元は白衣だったであろうボロ布を纏った銀色の下半身は太く地面に這う様に伸びて、赤子の足が付いた短い腹脚が六本程見えていた。
薄汚れたボロ布の裾を引きずりながら外に出て大きく四本の腕で伸びをしていたその不気味な怪物は、こちらに向かう大蛸に気づいたのかあれっと呑気な声を上げる。
「もしかして、また彼を捕獲してきたの? そろそろ怒られるんじゃない? 脚をもがれないよう気を付けなよ」
せめて人間が住んでいてくれと願っていた私は引き攣った表情のまま、走る勢いで胸元で跳ねる指輪を握りしめていた。必死に彼女の名を呼ぶものの、当然精霊からの返答はない。試練の前と同じように、魔力回路が切れているか、空振りしている感覚だけが残った。
大蛸からはすでにその巨大な体程の距離を離されていたため、その怪物からは丁度体に隠れて見えなかったのだろう。その怪物は何事か蛸に声をかけながら小屋の扉を開き、室内へと招いて扉を閉めようとしている。意を決して私は叫んだ。
「——っ、待ってくれ!」
「え? 見た事ない子がいる。迷い込んじゃったの?」
近づくにつれ恐ろしい怪物の全貌が見えてきて、果たして声をかけて良かったものなのか、今更になって若干の後悔が襲ってきたがそれどころではない。全力で砂原を走った事による息切れで肩を揺らしながら私は伝えた。
「私はレオンだ、ディランを助けようとしたら、まとめてここへ連れてこられてしまった……貴方が、レーテという者か」
「そうだけど」
考え込むように二対の腕を組み合わせると、彼の指は昆虫の様に棘を纏っており、四本しかない指先には鋭い爪が付いている。人の肌など引っ掛けようものなら装備ごと簡単に引き裂いてしまえそうな鋭さに慄いた。
「君、見たところ人間だね。魔物以外がここに来ると悪影響しかないよ。まず何も口に入れてないよね?」
「何も……いや、それより、ディランを解放してやってくれないか?」
今までにも何度か名前の出ていた、レーテというらしき彼はその言葉を受けて振り返ると、警戒するように斑を点滅させていた大蛸に指示を出す。
「クラーケン、彼を放してやってよ」
「……は、やっと、喋れる」
ようやく解放され、ぐったりとした様子で蛸の足元から這い出したディランは、青ざめた顔のままレーテとやらに告げた。
「そいつ、元の所に返してやってくれ」
「僕に言われても……鏡の権限は巫女の眷属が持ってるんでしょ?」
「クラーケン」
ぶくぶくと溺れた様なあぶく音がしばらく聞こえた後、ディランは舌打ちをした。
「……脱走防止に、俺が回復するまで鏡を開けないって」
「わぁ。信用ないんだなぁ君って」
それはつまり、私は帰れないという事かと反芻していると、突然ディランがふらつき膝を付いた。慌ててそれを支えるクラーケンと、一瞬腕を伸ばそうとしたがすぐに引っ込めたレーテは、大変だと呟く。
「でも髪の色が変わるなんて、相当な魔力切れだね。僕の家に入りなよ。ほら、レオンって子もさ」
「すまない……」
視界が回る、と額を押さえたまま不穏に呻くディランの背を押すようにしてクラーケンが小屋の中に滑り込み、私もレーテの後に続く。灰色になったボロ布で隠れてよくわからなかったが、彼の下半身はまるで蟷螂の腹に酷似していた。長大な羽は布の下に仕舞われ、ぶくぶくと節がある腹に赤子が這う様にして動く短い人間の足が腹脚の様に六本付いているのだ。あまり直視したい光景ではなかった。
「レーテ、さん……?」
「別に敬称はつけなくていいよ」
「貴方は、巫女と同じ悪魔なんですか?」
「そりゃあこの見た目通り悪魔だと思うけど」
こちらも見ないまま、そっけなく彼はカウンターの向こうへと移動する。
枯れ木と岩を組み合わせて作られた小屋の中は、よくわからない機器やたくさんの鍋にガラス瓶、吊り下げられた調理器具と共に棚で並ぶ瓶詰にされた不気味な魚の死体や、床には平積みにされた本や書類がたくさん見えた。まるで調理場と研究所が無理矢理併設された様な感じだ。
「僕はここの管理者の代理なんだ。本当のレーテーは僕にここを任せて随分前に旅へ出ちゃった」
「えっそれは、初めて聞いたな」
「初めて言ったからね」
奇怪で雑多な室内でクラーケンに支えられ、広めのカウンターに備え付けられた丸椅子に額を押さえて腰かけたディランは、彼の言葉を受け珍しく驚いていた。
「そこで待ってて、すぐ用意するよ。今朝面白い魚が釣れてね。あ、君もそこに座って」
「そんなに要らない……」
「いや、その状態じゃ相当食べないとまずいよ」
「嫌だ」
「嫌とかじゃなくて」
言われるがままディランの隣に腰かけた後、巨体を捩じる様に押し込んだ厨房で何やらごそごそと調理の用意をしているレーテの発言を受けて、私は思わず隣を見た。
「食べられないって言っていなかったか?」
「ええと、例外なんだ。俺はここの食材……レーテの調理する物だけ食べる事が出来る。何か言いたそうだが、見たらわかるよ」
私の発言を制して疲れた様子のディランが言うと、すぐに鼻歌と共に何かを炒めている音が厨房の方から聞こえてくる。
「例えば……彼がすごく料理上手とか?」
「違う。あれはむしろ下手だ。あの腕じゃ調理器具を上手く扱えないからな」
失礼だな日々努力してるんだよ、としっかり聞こえていたのか苦言が飛んでくる。背もたれがない丸椅子で、彼の背後を覆う様に触手を伸ばしたクラーケンに遠慮なく凭れたディランは、退屈そうに左手の爪を見ていた。圧迫した爪が白い。あれは重度の貧血だ。まあ彼は屍なのだが。
「あ、間違ってもお前は何も食べるなよ」
「先程も同じ事を言われたが、食べるとどうなるんだ」
「人間がここの川の魚を食べるとよくて記憶喪失、悪くて自我崩壊だな。恐らく二度と……いや、戻す方法は一つだけあるが……まずその場所自体をここの誰も知らないしな」
「……」
「はいとりあえずお通し」
絶句しているこちらの眼前を横切るように長い腕が伸びてきて、水を入れたコップとピッチャー、そして何やら海藻の様な物を乗せた皿をディランの前に置いた。
何がお通しだとぼやきながらディランが出されたそれに箸をつける。渋々一口、二口含んで咀嚼してから、嫌そうに箸を止めた。
「食う事自体が面倒だ……例えば必要摂取量を全部粉砕して液状に混ぜて一気に飲むとかさ、なんかそういう事できないかな」
「本当に最低だよ君って奴は人の気持ちを知らないでさ」
「悪かったって怒るなよ」
仮に君の言う方法を実現するとしてもだよ、と四本の腕で四苦八苦しながら大きな鍋の様な調理器具から皿に移し替え、表情がないレーテは静かに圧を発しながら近づいてくる。
ドン、とカウンターに複数の皿を置きながらディランに鋭利な爪を突き付け、彼は唸る様に言い放った。
「今の君の必要栄養分を集めたスープなんて、寸胴満杯でも足りるもんか」
「……出された物を食べます」
「よろしい」
レーテの有無を言わせぬ気迫に呑まれていたが、ふと皿の中身に視線を落として私は驚愕した。
そこには姿丸ごと調理された焼き魚、しかし頭が三又に分かれた奇形魚が、すっかり火が通っているにも関わらず未だぎょろぎょろと目を動かしていたからだ。
「なっ、なんだこの魚は⁉」
「この川に生息する奇形魚、三去鮎だよ。他にもいろんな種類がいる。僕はここの生態系を研究してるんだ。いつからここにいるのか、なんで研究してたかはもう忘れたけど」
箸で身を綺麗に分解し骨を剥がしているディランは、骨だけになってもぱくぱくと口を動かす三又の頭を嫌そうに皿の端に避けた。そのまま無言で小さく身を齧り取っている彼に、これとこれとあれと等と言いながらレーテは小皿や小鍋を並べていく。
「藻の和え物、電流魚のお造りと肝吸い、白肌単眼鮫のフカヒレスープ、膿イカの刺身、目玉抱え蟹と岩鯛の鍋、骨魚の煎餅」
「フルコース……?」
ちなみに、皿の上の魚類は全て調理済みにも関わらず——つまり、内臓を抜かれていようが丸揚げされていようがまだ生きている。恐ろしい食卓に背筋が凍るが、ディランは慣れた様子で、いや、あれはもう諦めているのかもしれないが、淡々と箸を勧められるがままに運んでいた。
「まだあるからね! それと必要な分を計算して調理してるんだからクラーケンにあげないで!」
催促するようにディランの背をつついた触手へ、別の皿へ刺身などを適当に盛り付けて後ろ手に渡していたディランにレーテが怒る。
「それ、味は、美味しいのか……?」
「……生きている味がするよ」
黙々と食べ進めている横顔に恐る恐る尋ねてみると、肩を竦めて返答を寄こされた。よく見るとなんだか今も増殖して容量が増えている和え物。電流を放っては切れ身も痙攣しているお造り、黄金色のスープの中で泳ぐ様に伸縮を繰り返すフカヒレに、肌色に近い刺身からは膿がいつまでも零れ出る。鍋からお玉で掬えばカエルの卵の様な目玉が汁と共に剥がれ出てくるし、ぱりぱりの煎餅は噛み千切ると耐えがたい悲鳴を上げた。
隣に座っているだけで生きた心地がしない食事風景だ。気分が悪くなるどころの騒ぎではない。ここは地獄か。
疲れ切った様子で食べ続けていたディランが、あ、と声を上げてふと自分の左手を見つめた。
「効果覿面だ。少し魔力が戻った」
「まだ全然だからね!」
「ああそう。クラーケン、完全補給にはまだ時間がかかる。こいつだけでも戻してやれよ。ひたすら待ちぼうけで可哀そうだろう」
そう言ってディランは丁度肘置きの様な位置にいた触手を軽く叩く。感情を読み取れない山羊の様な瞳と目が合った。よくわからないのだが、なんとなく不服そうだ。
「このままだと、アルジャーノンが心労で倒れちまう」
容易に想像できる、今頃現場で泣き腫らしているであろう従者の想像上の姿に私は胸が痛くなった。
「先に戻るのはいいが、ディランはいつ戻るんだ」
「うーん。……結構、しばらく、後だな。なんなら夜明けになるかも」
彼の視線は、厨房に戻って忙しく動くレーテの様子に向けられている。ぶつぶつとまた、溺れているようなあぶく音が背後で響いた。
「さっき俺の分食っただろ。言う事聞けよ。この状況で逃げやしねぇって」
疑わし気に腰に巻き付く触手を払って、いいから鏡を出してやれとディランが続ける。
「ああそれと」
確かに少し顔色が良くなった彼と、目が合った。たぶん、ここに着いた時からずっと、彼は少し機嫌が悪い。
「お前、俺を助けようとして咄嗟に手を伸ばしたな」
ギクリとした。
「二度とそんな愚かな真似をするなよ。今回は身内だから良かったが、旅先じゃあ極論、俺は死んでもなんとかなるんだ。でもお前の代わりはいない。この先で同じ事をされたら困る」
彼の言い分もわかるのだが、彼の身を案じて手を伸ばしたのがそもそもの原因でありはいそうですかとも頷けない。正直、言われっぱなしで黙ってはいられなかった。
「それならディランこそ無茶をするな。誰だって目の前で倒れそうな人がいたら心配になるものだ。私に限った話じゃない」
「言っただろ、元々魔力は枯渇しかけてたんだ。本来はこの後療養する予定だったがな、お前もよくご存じの緊急任務で台無しだよ。まあここで補給出来たから次はないさ——顕現を許す」
悍ましい叫び声を上げる骨煎餅を鋭い歯で噛み砕きながら、彼は自身の右側で床に向かって手を翳すと、えっという間の抜けた声と共に巨大な黒狼がお座りの姿勢で現れた。