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第三十七話 沼男

 凄まじい臭いと共にあぶくを吹いては火傷の跡を再生していく肉塊を、幾多も薄紫の雷撃が貫く。耳を塞ぎたくなるような悲鳴を上げて、その怪物の巨体はついに再生が間に合わず徐々に融解を始めた。体重を支えようとする猛禽類のような鉤爪の一対が、ぼろりと根元から外れて廊下に落ち、どろどろと形を失くしていく。

「ええ、嘘? もう終わりなの? そんな事言わないでよ」

 片足を組み、退屈そうに宙に浮かんでいた雷精霊はまるで絵画のように美麗な笑みを浮かべたまま、飛び降りるようにしてその肉塊の背中を赤熱化した素足で踏みつけた。着地した箇所から、肉の焼ける音がする。

「ねぇ君、弱点がないなんて本当? 脳は? 心臓は? 生物なんだから急所がないはずないよね? それとも体の節に脳の代わりがあるとか? まるで昆虫みたいだね!」

「……おい、無駄口叩く暇があるならお前の魔力を寄こせ。そいつは一撃で葬る必要があるんだ。属性耐性が付く前に雷弓で焼き払う」

「嫌だ。本当に久しぶりの敵なんだ、もっと遊ばせてよ。まずはこれの仕組みがどうなっているのか解剖してみないと」

「聞けよ」

 天井の穴から呆れたようなディランの声が聞こえたが、雷精霊はあっさりと命令を拒否した。つい先日、人に向かって精霊が言う事を聞かないのは主の内面に問題があるとかなんとか言っていなかっただろうか?

 リュックを背負い直したロバート船長が、怨嗟の声を上げる醜い怪物とその背を踏みつけたまま嘲笑する美麗な精霊という、まるで中世の彫刻のような光景を指さして問いかけた。

「なぁ、あれってやっぱり、ディランの雷精霊なんだよな?」

「恐らくそうだろう」

「……なんか、変だぞ。雷精霊は荒神に近くて、戦闘に特化してる分気性が激しく手が付けられないって聞くんだが、あいつの精霊は妙に大人しくないか? いやまあ、違う意味で危険そうなのはわかるが」

 大人しい?と思わず首を傾げそうになったが、彼が言うならそうなのだろう。

「いや、言ってる場合ですか、ここが危険な事には変わりありませんよ。窓からどうにかして外に出ましょう」

「アルジャーノンの言うとおりだ。一度外に……ん?」

 切羽詰まった様子でアルジャーノンが再び袖を引いた。実際、逃げ道を塞がれているのは事実なので頷き、窓の方を振り返る。すると、廊下で巨体が暴れていた衝撃のせいか、本棚の本が大量に床に落ちていたのが視界に入った。その中で、左右に空白があるにも関わらず収納されたままの、明らかに妙な一冊が見える。違和感を覚えて近づき、手に取ろうとするとまるで固定されたように動かない。

「何だこの本は……いや、本じゃないのか?」

「おい何して……」

 もう一度手に力を籠めると、今度はカチッという何かが作動した音と共に、本が押し込まれた。見た目には何も変わらないが、音がしたのは本棚の中の小さな棚だ。

「その棚の辺りから聞こえましたよ」

 アルジャーノンが指さした、本棚に備え付けられた小さな棚を引き出してみると、最初は十五㎝四方の何もないスペースかと思ったが、カクンとした感触があった後更に奥に引き出しが伸びて、隠されたスペースに丁寧な装飾とニス塗りが施された木箱が入っているのが見えた。

「仕掛け棚だ。こういうのは、取っ手を規定回数回したり、装飾の仕掛けに鍵があったりして、隠されたスペースに収納できるんだぜ」

「この中には何が……鍵?」

 あっさりと開いた木箱の中には、メモのような紙と、鍵が入っていた。

 メモには乱れた筆跡で、『地下室へ』とだけ書かれている。何か知らないかと船長に尋ねたが、さあなと首を傾げられた。

「地下室? あ、外にあったあの扉かもしれません。温室の近くにありました」

 窓を開けて、地面との高さを確認していたアルジャーノンが言った。彼はカーテンを手早く取り払い、ロープ上に結んでいく。

「二階とはいえ、幸いそこまで高さはないです。ある程度伝って降りてから、飛び降りても問題ないでしょう」

「そんな工作してる時間が……ありそうだな」

 不安げに廊下の方を振り返ったロバート船長が、すぐにこちらを向き直り顔を顰めながら言った。怪物の悍ましい叫び声が聞こえ続けているからだ。シーツを破いてロープにしてくださいと言われ、リュックからナイフを取り出した船長と共に手伝う。ベッドにカーテンを括り付け足をかけて引っ張り、強度を確認しながらアルジャーノンは憂い顔で呟いた。

「消えた魔道具、隠された謎の鍵、意味深な筆跡……地下室に何か手がかりがあるといいんですけど、もしそこがすでに怪物の巣窟だった場合、わざわざ自分達の脚で危険に向かった上に、袋の鼠になってしまいますね」

「あれが解決するまで外で待つか?」

「その前に、私達が外に向かう事を二人に知らせた方がいいんじゃないか?」

 そう提案した私を見上げて、足元で小首を傾げるバレットと目が合った。

「ディランに言いたいことがあるなら、そいつに伝えればいいんじゃないか? 言葉が完全にわかるかは知らんが」

 半信半疑と言った様子で船長がバレットを見つめる背後で、できました、とアルジャーノンが手早く結び合わせたロープを窓の外へ垂らす。

「様子見も兼ねて私が先に降ります。問題なければ次にレオン王子、そして最後にロバート船長が降下してください」

「俺の時は先にリュックを結んで降ろすから受け取ってくれ。これ結構重いし割れ物も入ってるからよ……」

 船長の言葉をはいはいと聞きながら獣人ゆえに軽々とロープを伝い、一瞬で地面に降りてしまったアルジャーノンは、問題ありません、続いてくださいとこちらに手を振る。

「バレットは大丈夫か?」

 地面とロープを交互に指さして本犬、いや本魔?に尋ねてみると問題ないと言わんばかりに鼻を鳴らした。そのまま、先に行けと言わんばかりに鼻先でふくらはぎを押してくるので、恐る恐る垂らされたロープを掴む。

「……あの名前の無い怪物が、博士の姿をしてなくてよかったよ」

 ロバート船長が、背後で呟く声が聞こえたので思わず顔を上げる。

 目が合い、複雑そうな顔をした船長は荒れた私室を見渡して自嘲気味に言った。

「今も、あの悍ましい悲鳴が聞こえてるけどよ。化け物の声と姿だからいいが、模倣した姿のままあいつらが同じ事をしていたら、俺は耐えられなかったかもしれねぇ。状況も考えず、咄嗟に間に割って入ってたかもな」

 ロープに作られた瘤に足をかけながら、私はどうしても沸き上がる本能的恐怖から気を逸らすためにも、なんとなく頭に浮かんだ言葉を続けた。

「……それなら貴方の場合、水の試練は苦手そうだな」

「ああ、噂に聞いた事はあるよ。精神を試すんだってな。身近な人の死を見せたり、悍ましい幻覚が見えるとか。俺は魔力が無いからそもそも試練に挑む資格はないが」

 ナイフと鍵の入った木箱、それから一瞬迷ったが飾られていたポストカードを一枚コルクボードから抜き取って、リュックの中に収めた博士は言葉を続けた。

「こういう仕事してると、ある日突然の別れなんてしょっちゅうだ。昨日知り合ったまだ若くて夢を語ってた奴が、急な事故で亡くなったりするんだよ。乗ってた船が墜落したりして、死体どころか遺品も見つからないなんてのがザラだ。だからいつもどこか、誰かの死を信じきれないところがあるんだよ。要は信じたくないってだけなんだが、もしかしたら、実はまだどこかで生きてるんじゃないかって……」

 きっと彼は情が厚いのだ。所々その一面が散見された場面がいくつかある。もしも名前の無い怪物が博士の姿のままであったら、彼の友人の姿をしているままであったら、確かに彼はディラン達を止めただろう。そして、ふと思い出した。ディランは水の試練を苦手だと言っていた。そしてロバート船長が言うには身近な人の死を見せる幻覚が多いという。私の場合、なぜ家族や城内の人物ではなく、二人の死体しか見えなかったのだろう。

 ——なぜ私は、あの二人が忌避するほどの試練の内容に、特にショックを受けなかったのだろう。

 私は、もしも名前の無い怪物が身近な人物に擬態していた事をすでに知っていたとしても、目の前で行われる雷精霊の残虐な行為を止めただろうか。

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