第三話 旅をするならホエル亭へ
ここは雨の国。雄大なケートス大陸から少し離れた小さな島国ミラを統治する、水源に恵まれ、年中雨が降る日の方が多い国だ。今から真っ先に向かう必要があるのは、この国を守護する精霊が宿るという水の神殿。しかし、詳しい場所は王族のみに伝承されるため、城下町の人々に詳しい場所を尋ねる事はできない。
一先ず、恩人である彼の忠告通り裏路地を急いで抜けた後、活気溢れる表通りになんとか辿り着き、いい匂いのするパン屋の壁際に陣取る。
「場所は山の奥の湖だったな……今から向かえば、日が暮れぬうちに着くだろうか? いやしかし……」
昼過ぎとはいえ、今から山奥へ自らの足で向かうのか。せめて馬か馬車を借りたい。何か役立つ物はないかと渡された鞄を探ると、冊子状の世界地図があった。引っ張り出して島国ミラの貢を開き、リバーサイドから水源地への道のりを調べるが、やはり人の足では数時間程かかりそうだ。しばらく唸っていると、マントの裾を引かれた。
「兄ちゃん、旅の人? どっか行きたいの?」
オーバーオールにそばかすと赤い巻き毛が目立つ、茶色のキャスケットを被った少年がいた。まさか、この少年も城の使い……いや、そんなはずはないか。
「や、山に……」
「……なんで山? 観光地どころか何もないよ。死体でも埋めんの?」
「そんなはずないだろう!」
慌てて首を横に振ると、少年はショルダーバッグを背負い直しながら冗談だよ冗談と、笑いもせずに言う。
「山奥はそもそも国が管理する土地。水源地だよ? 後は……廃墟があるって聞いた事あるけど」
「そこに向かうとして、今から出てどれぐらいの時間で着くだろうか」
「えぇ、兄ちゃんこんな時に吸血鬼の館に行きたいの? まあ、迷わなかったら日が落ちるまでには着くんじゃね?」
「……? そ、そうか、ありがとう」
ならば、早く準備を済ませて向かった方がよさそうだ。地図を矯めつ眇めつしながらこの後の行動を算段しているとふと視線を感じ、顔を上げれば目の前に立った少年が鞄の中から新聞を突き出した。
「じゃ、教えたから買ってよ。夕刊」
「えっ」
「行方不明者がまた出たんだ、今度はコータス家のお嬢さん。みんな馬鹿みたいに騒いでるよ。吸血鬼だーって。んなわけないのにさ」
「行方不明者?」
「二ペンス」
流石にこの少年が金貨の釣りを持っているとは思えない。慌てて小銭を探しだし、新聞を受け取る。
「毎度~。あ、調達に向かうならホエル亭がおすすめだよ。あそこは特に荷物小分けにしてくれるんだ」
そう言うと、用は済んだと言わんばかりに少年はさっさと離れてしまったので、その背を見送った後ホエル亭の位置を地図で確認した。
「一週……いや、二週間……いや、三週間分の食料と水を……」
言葉を重ねる度にカウンターへどんどん上乗せされていく小分けの荷物を恐々と眺めていると、ホエル亭の女将が腰に手を当てて告げる。
「水は三週間分無いのかなんて言うつもりじゃないだろうね。重いんだから水は渡せても一日分。後は道中で調達していくんだよ」
「あ、ああ、そうなのか」
「そうなのかって……冗談よねアンタ。どこの商店から来たの。それともお役所仕事? お使いでもするのかい」
「ええと」
王族の子供は成人するまで城から出る事はなく、民に顔を見せる事はない。成人の儀を執り行う際に初めて王子は顔を見せる。だから民はこちらの事を一切知らないのだ。ましてや、町で買い物なんて生まれてこの方した事が無い。幼少の頃から城の外へ一切出ない生活に疑問を覚えていたが、恐らく全てはこの精霊の儀の為だったのだろう。父上……何が遊覧気分なのでしょう、買い物一つさえ戦々恐々だというのに。こんな唐突に試練を課すなら、よくわからないダンスの作法よりも買い物の仕方を教えるべきではないのですか。
とりあえず代金を支払おうとしてもたもたと皮袋を取り出すと、女将が目を丸くして声を潜めた。
「アンタ全財産を一つの袋に入れるのはやめておきな! 誰が見てるかわかんないよ!」
「実は先ほどスリにあって……」
「やっぱり! 気を付けなよ。運良く兵士に助けてもらったのかい? 戻ってきて良かったねぇ……」
「そうだ! フードを被った、黒い髪に翡翠の目の男性を知らないか? すぐ取り返してくれたんだ。礼を言いたい。槍か杖の様な武器を携えていた」
「そいつぁディランだろ? ——よっこいしょと」
女将が口を開きかけたと同時に背後から声をかけられ振り返ると、肉屋が使う様な防水性のある黒い前掛けをした体格のいい男性が、丁度隣のカウンターへ抱えていた木箱をドスンと置くところだった。男から荷を受け取った店員が帳簿を捲りながらテキパキと中身を確認していく。
「マルコ様、こちらの品についてですが——」
「そう。日輪鳥の肉だがね、まだ火の国の流通が遅れてるんだ。悪いがもう少し待ってくれ」
「承知しました」
一礼して中の小包を奥へ運んでいく店員を見送る体格のいい男——マルコはポケットから取り出した納品書を女将にほいと渡す。その逞しい腕越しに叫んだ。
「彼を知っているのか⁉」
「うちのギルドで契約してるからな」
「会わせてくれ!」
「あー、その様子だと、どうせすぐ立ち去ったんだろ? そういう奴なんだよ」
「頼む!」
ますます怪しい。街のギルドに契約しているというのなら、個人によっては城の兵士以上の実力とも聞く。大型魔物程度は軽々退治できるはずだ。ならば、城から護衛任務として内密に依頼されていてもおかしくない。これはかなり重要な手がかりだ。必死に訴えると、マルコは顔を顰めて顎髭を撫でた。
「まあ、そんなに会いたいなら……ギルド登録者の査定評価の一つに町の治安維持がある。だから、あいつの報酬上乗せと、アンタからの直談判があって~だのなんだの言えば口実はできるな」
「ありがとう! そうだ、申し遅れてすまない、私の名はレオンだ。よろしく頼むマルコさん」
「あ、ああ……別に本当に会わせるとまでは言ってねぇんだけどな」
「いいじゃないか、言う事聞いてやりなよ」
じゃないと、たぶん雛鳥みたいにアンタにずっと付いて回るよと呆れた顔で女将が言うのを、マルコは見りゃあわかると渋々頷いた。