第十七話 暗殺者
「そこにいるのはわかっているのですよ、えーと、弱虫さん? 怖がらないで出てきたらどうですか?」
裏庭から出て少し森に入ったところで、私は音波の跳ね返る反応を感じる木の陰に向かって言い放った。
「先ほどからうっとうしい殺気を放っておりますね。やはり狙いはマスターですか? この私、水精ホーリーがそうはさせません。大方、あの二人が常に警戒しているから出ていけないのでしょう?」
恩人である二人に手間をかけさせる程でもない。顕現した自分は癒しの力に特化した故、激しい戦闘は苦手だが、そこは工夫次第でどうにでもなる。
例えば刺客の姿を視認した瞬間、頭部を水膜で覆ってやりでもすればもうこちらの勝ちなのだ。振袖の下、左手に巻かれた数珠にいつでも発動できるよう水の力を籠める。
「……貴様は死なない身だから、相対してもいいと?」
答えが返ってきた。……返ってくるとは思わなかった。低い女の声だ。
「私一人と侮ったか、傲慢な精霊め……後悔するぞ」
声の方向へ左腕を振るい、魔力を込めた水のリングを即座に三連放った。体の一部にでも当たれば超音波のショックによりしばらく動けなくなるはずだが、猫の如く俊敏に避けた影が上空に飛び出す。
次弾を放つ間もないそれは、一瞬の出来事だった。
「氷針」
「——っ⁉」
胸と胴体を、複数の氷柱針が弾丸のような速度で貫通する。衝撃に傾いだ体が、傷口から凍り始めて動きが鈍くなる。吐いた息が白い。痛い、寒い、歯の根が合わず鳴るも、すぐに凍り付いて動かなくなる。
「な、にっ⁉ ……あ゛ぁっ」
「溶けぬ氷像になるがいい。貴様には嘸かしお似合いだ」
灰色が混じった黒髪に簪を挿し、黒狐の目の下頬をした女の嘲うように歪む金の目が、凍り付く視界の最後の景色だった。
「やっと終わった……」
「これで全部だな。後はここにまとめて冷やしとけばいいだろ」
「なるほど、冷凍壺……これは便利ですね」
慣れない事をして時間はかかったが、調理台の上に大量の桶が並んでいるのを見ると達成感を感じる。山となっている魚を一瞬で冷凍して、ディランは適当な大きさの壺にいくつか分けどさどさと仕舞い始めた。
表面が勝手に凍り付いていく壺を見ながら、アルジャーノンがふむふむと感心する。
「ディラン様、そういえばこの魚達を獲りに行った時、妙な物を見かけたのですけど」
「なんだ」
「こちらですわ」
ずるりと人魚姫が水瓶の底から引きずり出してきたのは、何やら膜のようなクラゲのようなぶよぶよした手のひらサイズの黄色い何かだった。
「波間に浮かんでいたのです。といっても、海と合流するリバーサイドの河口付近でした。この辺りには潮や風の影響で深海の物が流れ着く事もありますが、このような物体は見た事がなくて」
「……何か魔物の痕跡かもしれないな、巫女に報告しておくよ。わざわざありがとう」
ディランはそう言って微笑むと、それを空になった桶の中に受け取り調理台の上に置いた。未知の物体は桶の中で、重力のままに萎びて滑っていく。
「笑った顔を初めて見たかもしれない」
「思ったんですけど、実は愛想と言う言葉を知らないんじゃないでしょうか」
「少しは声を潜めるくらいの慎みを見せたらどうなんだ?」
「姫様、もう用件は済んだでしょう。そろそろお時間が……」
「あら、そうね。本日はそろそろお暇させて頂きますわ」
従者に急かされぱしゃんと尾で水面をうつと、水瓶の中の姫はひらひらと手を振る。
「では皆様、ごきげんよう。ディラン様、また水の都に遊びに来てくださいね」
「ああ、また今度な」
「姫様から招待を受けたのだぞ! 平服して喜ばんか!」
「お前は招きたいのか止めたいのかどっちなんだよ」
水面が輝き、笑顔で潜っていった人魚姫と、最後までディランの事を睨みつけながら壺の中に消えていった従者を見送った後、ディランは雑に水面を叩いた。
「……オイ、聞いてるだろウンディーネ」
「あの、わかってると思いますけど水鏡越しの会話は私にも聞こえてますからね? 貴方とあの人魚の会話の内容を強制的に聞かされる身ともなると、そろそろどこかに訴えられないかと考えているのですがこれってどこに相談したらいいと思いますか?」
「これを巫女に転送しておけ」
「いやぁ————⁉ なんなんですかこれ気持ち悪い! 妙な物を入れないでください!」
桶をひっくり返し、先ほどの謎の物体をボチャンと水瓶の中に入れると、情けない悲鳴が聞こえてきた。
何度か上がる叫び声と淡い光が消えるのを見届けた後、彼が水瓶に向かって片手で印を結ぶと、排水口から抜けるように水位が下がっていく。
「片付けるのか?」
「この水瓶は、緊急転移先と決めているからな」
「え、でも他にも色々あるでしょう、そこのとかも……」
アルジャーノンが飲み水の水瓶等を指しながら言うと、ディランは空になった水瓶を転がし片付けながら答えた。
「昔、俺が風呂に入っている時、風呂の意味を知らないイリスが大浴場に転移してきた。その後どうなったか、わかるだろ? 転移先には厳重な取り決めがなされている」
間違いなくその後即座に転移してきて、大激怒する従者の様子を想像し、何も言えなかった。
肩を震わせつつコメントを控えてまな板を洗い始めたアルジャーノンを手伝おうと桶を持った時、腹の虫がぐうと鳴る。
「お前らが手伝ってくれたおかげで若干早く終わった。山ほど魚があるんだから適当に焼いて食べればいい」
「王子、焼き加減はお任せください」
「ちなみに塩もないから、素のままの味だぞ」
調理器具の場所の説明を受けながら、アルジャーノンが言われるがままフライパンの上に早速サバの切り身をのせている。みるみる身が縮んでいくのを眺めながら、ようやく和やかな雰囲気が流れたと思った瞬間、二人はふと気づいたように顔を見合わせた。
「……そういや、あいつ遅くないか?」
「もうかなり時間が経っていますよね、何か苦戦しているのでしょうか」
「え、精霊が負ける事ってあるのか? 自信満々に言い出された時は、ついいつもの感覚で任せてしまったが」
「相手も精霊持ちだったり……?」
顔が青ざめていく二人を見て、どうしたんだ、と声をかける。
「い、いえ、なんでもありませんよ王子」
「気にするな」
「なんだか、そればかり言われている気がする」
できましたよ!と誤魔化すように突き出された皿を受け取り、焼く前に比べて半分くらいの大きさになった切り身にフォークを刺した。