第十三話 ウシュ・マ湖
そんなに時間はかからないから最低限でいいと言われ、一度部屋に戻って軽い旅の荷物を準備した後、庭にある簡易な鳥小屋に移動した。
急かすように呼んでは嘴を鳴らす鴉の足に筒の中へ丸めた手紙を括り付け、餌箱を一心不乱につついてはその場を動こうとしない丸々太った白鳩が背負う鞄へ半分に折った封筒を入れると、ディランは二羽のために鳥用の小窓を開ける。鴉の方はすぐさま飛び去って行ったが、鳩の方は悠然と水を飲み始めたのでそのままにし、馬小屋へと向かう。
ディランが短く口笛を吹くと、鳴き声と共に黒白の毛玉が茂みから飛び出してこちらに駆けてくるうちに姿が銀色の靄に包まれ、ここに来た時と同じ青鹿毛の馬に変化した。
しかし、馬の姿のまま勢いよく突進してくるので三人で慌てて進路から避ける。
「な、何度見ても凄いな……」
「便利だろこいつ」
「魔物を使役と言っても、戦闘ではなくこうして乗り回している人間は初耳かもしれません」
「戦闘でも役立つんだぞ」
ふふんと少し得意気に笑うと、ディランは馬小屋の壁に掛けてあった馬具を外し、栗毛の馬に取り付けた。
柵を開けて馬を連れ出すと手綱をこちらに渡してくる。
「アルジャーノンはお前の後ろに乗せていけ。馬の脚なら神殿へはすぐに着く」
「乗れるか?」
「平気です」
昇降台が必要かと思ったが、アルジャーノンは軽々と跳躍して後ろに座った。やはり獣人は人間とは桁違いの身体能力だ。
「場所は道なりに少し登った先だ。水源地の滝がある方じゃなく、カルデラ湖だからな」
「なるほど……禁足地ウシュ・マ湖か」
「湖への侵入方法がちょっと面倒だが、そこまでは教えてやるから安心しろ」
ディランが先導し、館の裏門から出た後駈歩で山道を登る。
早朝特有の少し湿ったような森の香りが抜けていく。まだ日が差して霧が晴れていく途中で、視界が悪い。
「これで、指輪の封印が解ければいいのですが……」
背後で、アルジャーノンが不安げに言った。
「そうだな……」
「俺としても是非そうなってほしいよ。四六時中お前らと一緒なんざ願い下げだ。第一守護精霊は表層の人格を使うから比較的扱いやすい。今後はそいつに守ってもらえ」
「さっきから詳しいが、巫女側にもこの儀式は伝わっているのか」
「俺も各地で儀式を受ける必要があったからな」
「なんと、すでに攻略済みでしたか。ではなぜ守護精霊が傍にいないのです」
「まあ発現したらわかる事だが……自分の別人格だからな。厄介なんだよあいつらは」
しばらく走った後、ここで馬を置いておくと言って速度を落とし、ディランは馬から降りた。
「魔物が出るから手綱を木に繋ぐな。なにかあったとしてもバレットが守る」
「わかった」
後ろについて急勾配を登ると視界が開け、一面の湖が見える。深い青に染まった巨大なカルデラ湖だ。中心にいくほど青が濃くなり、さざめく水面になんだか空恐ろしささえ感じる。
湖の周辺は崖に囲まれており、遠くには国が設置した水質調査の拠点も含む展望台が見えた。
「その指輪をこれに使え」
指さす先を辿ると、木の根元に一見苔むした岩と見落としそうな、小さな石でできた祠があった。
「この祠に儀式の挑戦者が祈ると位相空間に飛ばされる。そこで試練を受けて、達成したら帰れる」
「我々も追従することは可能ですか?」
「知らんが、そんなに心配ならそいつの背にでもしがみついてたらいいんじゃないか?」
「何他人事の顔してるんですか。貴方も来るんですよ」
睨み合っている二人に喧嘩しないでくれと宥めつつ、魔法が使えなくなっている事を思い出す。
「魔法が使えなくても問題ないのか?」
「まあなんとかなるだろ。水の精霊側が自分の領域に呼び込むんだしな」
「何か試練の手掛かりを教えてください。貴方は知っているんでしょう?」
何と言うかネタバレにならないのかそれ、と渋ったが教えてくれと私からも再度乞うと、わかったと言って説明を始めた。
「水の試練は一番評価が分かれる試練だ。最も簡単だったという奴もいれば、最難関だという奴もいる。試練の内容としては、異界に飛ばされた後湖の底に設置された神殿に向かって鳥居を潜ればいいだけなんだが、湖の深さは挑戦者によって変わるし、潜っている最中に恐ろしい幻聴や幻覚が見える。まだ水面付近なら何度でも挑戦し直していいが、躊躇して時間をかけすぎると水面にも幻覚が及んでいよいよ手が付けられなくなる」
「なるほど、精神に対する試練なのですね……何かコツはありますか?」
「鉄則は、一度覚悟を決めて潜ったら何が何でも途中でやめるな。早いうちに潜った方がいいのは当然だが、鳥居の位置は必ず自分の息に対して引き返せない距離にある」
「そ、それは……帰りはどうなるんだ?」
「加護を授かればわかることだ」
「貴方の時はどうだったんですか」
一瞬考え込む素振りを見せたが、彼は淡々と言った。
「俺は……試練の中では苦手な方だったな。戦闘系なら楽だが、精神系の中でもここは特に性質が悪い。正直二度とやりたくないね」
では突入するぞと声をかけ、首から外した鎖を手に持ち、指輪を握る。
アルジャーノンが必死にぎゅうぎゅうと背にしがみつき、ディランが迷った後軽く肩に手を置いてきた。
魔力を込める時のように指輪から祠に向かってとりあえず念じてみると、祠の石灯篭に火が灯ったように揺らめいて光り、鈴の音のような音が一度聞こえ、あっと思った矢先には視界がぐにゃりと歪んで暗転した。
気を失ったのか、と気づく前に視界は元に戻り、青い篝火が燃える石灯篭を確認した後、湖の方を振り返ると先ほどまで何もなかったのに湖の中心に赤い鳥居が見える。目の前にはしめ縄で封鎖された階段があり、その先には屋根付きの桟橋といくつかの小舟があった。指輪の鎖を首にかけ直しながら、二人の姿を確認する。
「せ、成功か?」
「良かった……一緒に来ることはできましたね」
「問題なさそうだな。そこの桟橋に向かって、船に乗るといい」
縄を跨いで階段の先を進み、その後に続こうとしたアルジャーノンが何かに頭をぶつけて悲鳴を上げた。
「なっ、なんですかこれは……障壁⁉」
「まあそうだろうな。試練の内容はさっき言った通りだ。頑張れよ」
驚いて振り返ると、しめ縄の境目で、まるで壁があるかのように掌を這わせるアルジャーノンと、転送位置から進んでおらず平然と立つディランがいた。
「わかった……二人共、そこで待っていてくれ」
「どうかご無事で……! 私、ここでいつまでも帰りをお待ちしておりますレオフリック王子!」
「今生の別れかよ……」
おいおいと泣くアルジャーノンに呆れているディランに背を向け、覚悟を決めて木製の階段を降りる。湖に向かう程霧が濃くなり、屋根付きの桟橋に近づくと、笠を被り面布の様に何やら文字が書かれた紙を顔に張り付けた、袈裟姿の人の姿が見えた。
「あ、あの……?」
「湖の中心へ案内します。乗りなさい」
話しかけようとしたところ、その謎の人物は小舟に乗り、櫂を持つ。
恐る恐る小舟に乗り、腰を下ろすとゆっくりと船が鳥居に向かって進みだした。ふと崖の方を振り返ると、一生懸命に何事か叫びながら手を振るアルジャーノンと、こちらも見ずに森の方の周囲を警戒しているディランが見える。
生物の気配がしない神秘的な湖の上で、不安が足元から波のように押し寄せてきて、胸元の指輪を握りこんだ。鳥居の朱色が、白い景色の中で不気味に浮かび上がっている。