第十話 第一王子
「お風呂が沸いたよ。タオルも用意してあるからそのまま向かいなさい」
「ありがとうございます」
いつの間にか机に突っ伏して寝ていたようだ。優しい声に慌てて上体を起こし、身支度を整える。
「お疲れのようだね」
「慣れない事ばかりで……」
「明日は好きなだけ寝るといいよ。我輩は昼間活動できないから、棺で寝てるけどね。用があればディラン君が聞いてくれるし」
「彼には世話になりっぱなしだ。それに貴方にも。なんと礼を言えばいいか」
「気にしなくていいんだよ。本当に、大変だったねぇ」
ぽつりぽつりと話しながら階段を降りる。先ほど初めて会ったばかりだというのに、ブラム卿とはなぜかとりとめのない会話が出来た。彼は優しく話を聞いてくれたし、決して余計な事も言わなかった。
脱衣所前で別れた後、湯浴みの支度をする。
髪を洗って体を流し、湯が張られた大浴場に体を沈めて一息ついたところで、何やら外が騒がしい事に気づいた。
「ほらここが浴場だ。さっさと入れ。服はすぐ洗ってやるから」
「なんなんですかちょっと押さないでください自分でできます」
「……誰かいるのか?」
「ひえーっレオフリック王子⁉」
甲高い悲鳴が聞こえたと思ったらドタンバタンと大きな音がする。
己が腰布一枚なのもあって、さていったいどうしたものかと脱衣所の方を眺めていると、恐る恐る飛び出す入口の端から白くて大きな丸い耳だけが見えた。動物の耳?と驚いていると、ディランの声だけが聞こえてくる。
「こいつが、お前の探してた本当の城の使いの者だ。さっき外で会ってな。試練の事は全部こいつに聞け」
「あああああのそのわわわ私はアルジャーノンと申します親愛なるレオフリック王子殿下、このような私めが礼服をもまとわず王子の前にお目通りする事大変申し訳ございませ」
「いいから早く入れって」
よろよろとしっぽを片側に巻き付けた細い足が覗いた。腰布をまとった少年、ネズミの獣人族は、視線をさ迷わせひたすら平服しきりだ。
「ディランは?」
「俺は後でゆっくり入るからお構いなく」
その声と共に静かな足音が遠ざかっていく。アルジャーノンと二人浴場に取り残され、微妙な沈黙が流れたのでとりあえず洗ったらどうだと蛇口の方向を指し示すとはい!と緊張した声が飛んできた。
ギ、ギ、とぎこちなく桶に水を溜めては体に湯をかける後ろ姿に、声をかける。
「……その、貴方が本当の城の使いだったのか」
「は、はい。本来はしきたり通り、王子の前に姿を見せるべきではないのですが……やむを得ぬ事情により制約を違えたこと、どうかお許しください」
「それはいいが……いや、まず尋ねたいことが山ほどある。精霊の儀の目的は何なのだ。信頼できる臣下を集めるとは、お前の事か? 頼むどうか教えてくれ」
問い詰めるとアルジャーノンは小さく身震いしたが、覚悟を決めたように話し始めた。
「まず、精霊の儀とはその地の精霊と契約する儀式。すなわち、雨、火、風、木、氷、砂、雷それぞれの国に祀られた神殿を巡り、己の守護精霊を発現させ従えさせるための旅路です」
「守護精霊……使い魔のようなものか?」
「使い魔は所詮魔物。よほどの上位種でないと扱いづらく思考も単純なしもべのような存在ですが、守護精霊とは精霊が己の要素に近い宿主の人格を元にして生成するもの。つまり異なる自分の一側面を無理やり発現させるのです。魔力の外付け装置と思っていただいても構いません。祝福を授かった後はその属性の魔法を使うと飛躍的に威力が向上します」
「誰でも授けられるのか? アルジャーノンは?」
「私では魔力量が足りず発現させる事は不可能です。それに、祝福は素質がある者しか授けられません。普段ヒトの潜在意識として溶け込んでいる複数の人格を無理やり表面化させて常時扱う事になりますから、これを制御できるのは秘伝を代々受け継いでいる王族や、精霊を完全制御下におけるほど桁違いに魔力量が多い者などです。例えば、そんな方法は現存しませんが私に無理やり祝福を与えたとしたら、即座に自我崩壊してしまうでしょう」
なら精霊の儀を終えた後にその秘伝を聞くことになるのかと問うと、それが成人の証となるからですと返ってきた。
彼が頭から湯を被ると、丸い耳が泡と水滴を弾いてピンと揺れる。
「そして……恐れながら申し上げますが、信頼できる臣下とは、城の内部の人間を指す言葉ではありません。今、城の内部は混乱しております。下手に関係者だからと言って信用するのはいかがなものかと」
「何? 城で何かあったのか⁉」
「城もですが、ここでも。王子、転送された先はどこでしたか?」
「リバーサイド駅の構内だった。場所について不思議には思ったが、何か訳があるのか?」
「いいえ。開始地点が違う場所に変更されていたのです。私は本来の転送先でお待ちしていましたが、一向に王子の姿が見えなかったため町中を探し回りました。それにより助けが遅れてしまった事、誠に申し訳ございません」
「は⁉ 変更だと? ……まさか」
「ええ、何者かが故意に、魔法陣の座標記述を書き換えたのです」
衝撃の事実だ。底冷えするような戦慄が走った。
「それに本来、最初の試練までの供は転送後から即座に水の精霊が受け持ち、儀式の内容を説明する予定でした。我々は保険、つまり陰から不測の事態がないかを見守る役目。その精霊に最初から封印が施されているなど異常事態です。何度かその件で城に返答を求めましたが、応答もなく……」
「わ、私は最初の試練まで力が使えないと説明されたぞ。では私の水霊は」
「あの者が言っていた通りです。その指輪に宿っていますが、神殿にて祈りを捧げ、試練を突破するまで解放されません。精霊は正式な契約後人型を取り、主のために生涯付き従う良き従者となる存在です。一刻も早く解呪しなければ……」
いったい、城の内部で何が起こっているのだ。
眩暈すら覚える。恐らく、父上は転送されるまで知らなかったはずだ。そうだと思いたい。城内で、何者かの思惑が動いている。
私の命が目的か、となると……心当たりがある。
体を洗った後、立ち上がった彼が風呂の隅から動かないので入ったらどうだと声をかけると目を見開いた。
「と、とんでもございません、従者が王子と共に湯に浸かるなどと……ここで見張っておりますので」
「私がいいと言っているのだ。ここでは気にする者もいないだろう」
「そ、そんな」
「いいんだ。それに冷えてしまうぞ」
それでも抵抗するのでなんとか説き伏せ、ようやく浸からせる事に成功した。アルジャーノンは恐縮しきりだったが。
「今は知らぬ事、不安な事が多くあると思います。巫女の使いの件は想定外でしたが……神殿に行き、水の精霊を解放すれば王子は最も信頼できる臣下を確実に従えることができます。この状況ですので、まずはそちらを優先されたほうがよろしいかと。……そうだ、王子。今魔法を使用することはできませんよね?」
試しに右手を水面に翳してみると、魔力を集める事すらできなかった。
「……使えない」
「やはり、魔法陣に何か仕掛けられていたに違いありません。これから先もより危険な旅になるでしょう。私はこれから命を賭して王子をお守りし、旅のお供につきます」
「ありがとうアルジャーノン。よろしく頼むよ」
「はい。お任せください」
今までずっと硬い面持ちだった彼は、その言葉を聞いてようやく微笑んでくれた。
——雨の国の城内、薄暗い部屋の中で、黒い蛇が捕らえたネズミをゆっくりと飲み込んでいる。
椅子に腰かけている人影と、どこか落ち着かない様子の人影が、蝋燭の明かりに照らされ揺れていた。
「印付きはちゃんと回収したのか?」
机上の書類に視線を向けたまま頬杖を突き、足を組んでいる人影は、傍に控える臣下にそう問いかける。
「はっ、そ、それが……遺体を運ぶ途中で邪魔が入り、巫女に回収され……」
「じゃあばれたな。印の存在も時間の問題だ」
「も、申し訳—」
「いいんだよ。お前が責任取ってくれれば」
ひっ、と声を上げ後退る僧侶を、突如影から現れたかのようにもう一人の男が背後から抑えた。人外の力で羽交い絞めにされ、臣下は手足をばたつかせて藻掻くがとても拘束から抜け出すことはできない。
下卑た笑いを浮かべて、その男はとがった歯を口の端から覗かせる。
「巫女に勘付かれたんじゃねぇの?」
「だとしても何もできないさ。巫女ごときが、第一王子を投獄でもするのかい?」
そんな権限はない。とその人影—第一王子、リチャードはまるで惑う民を安心させるかのように微笑んだ。椅子から立ち上がり優雅に差し出したその手には、悍ましく蠢く百足を掴んでいる。
「や、やめっ、それを近づけるな! 話が違うっ!」
「それを言いたいのはこちらの方だよ。お前がうまくやれるというから仕事を任せたのに」
「はい頭固定しまーす」
「口か鼻か耳か、結局どこが一番効率いいんだろうね」
「あ、ああっ! 嫌だ放せ! 私はまだ、」
「俺は手が汚れない分耳が一番マシだと思ってるんだけど、お前はどう思う? せっかくだから選ばせてあげようか?」
ねぇ、どこがいいかな。そう囁く紅い瞳が、獲物を舐るように細められた。
どれほど悲鳴をあげても外に届かない部屋の中、蛇の口からネズミの尾が飛び出している。