第一話 始まりを告げるメール
八重咲の桜も零れ始め、入れ替わりに歩道脇の花水木が芽吹いた四月の終わり。
強い東風に吹かれて靡いた白銀の長い髪を押さえると、少女の青い瞳がふと隣家の窓の中に向いた。老婆が手招きをしている。
「ユリアちゃん、ユリアちゃん」
そう小声で言いながら、右手の方を指差した。それから両の人差し指を上に向け、こめかみの横に当ててひょこひょこと突き上げている。それを見て、少女――ユリアは、深く溜息を吐いた。
(また来たのね……)
セーラー服のスカートのポケットに手を入れると、キーホルダー横のボタンをカチリと押す。情報をくれた隣人に軽く頭を下げてから、我が家の門の前へと進んだ。
「ご近所様に迷惑だから帰って」
両手を腰に当て、冷たい視線を向けながら言ってのける。勝手に敷地に入り玄関先に座り込んでいたのは、眼鏡をかけた少々インテリっぽい風貌の男。
「そう思うのなら、さっさとこの家を手放してはどうですかね?」
「所有者は母だから、勝手に売ることはできないって何度も言ったわよね?」
「なあに、ちょいと貸してくれればそれでいいだけですよ。友達を泊めてあげて謝礼をもらっても、別に何も問題ないでしょう?」
どうもやり方を変えてきたようだった。脅してもすかしても頑として応じないユリアに対して、大人の持つ別の優位性を利用するつもりの様子。脱法的な賃貸で稼ぎ、それで金を返せと要求してきている。
「親の借金は親の借金。私の借金じゃない」
頭の中で、かつて姉と一緒に暗記した条文を思い浮かべた。
「貸金業法第二十一条、取立て行為の規制。第一項の七号で『債務者等以外の者に対し、債務者等に代わって債務を弁済することを要求すること』を禁止してる。債務者ではない私から取り立てることはできない」
予想済みだったのか、インテリヤクザらしき男は、眼鏡の縁を持ち上げながら即座に返した。
「君に弁済を求めているわけじゃありません。ただ、君には困窮する母親を支援してあげる義務があるんじゃないかと思いましてね。民法第八七七条にこうあります。『直系血族及び兄弟姉妹は、互いに扶養をする義務がある』。直系血族というのは――」
ユリアの方も、シミュレーション済みのやり取り。相手の言葉を遮って主張する。
「知ってるからいい。扶養義務とは、余力の範囲内で行うものと定義されてる。私の収入は生活保護費だけ。見ての通りまだ中学生。アルバイトもできない。だから余力はない」
黒地のセーラー服を見せつけるように、袖をつまみつつ両手を横に広げる。
「父親から養育費とか受け取っているのではないのかね?」
「そんなのない。顔も見たことないし、どこの誰かも知らない。私、非嫡出子ってやつだから。初めから父親なんていないの。認知されてたら、生活保護なんて受けられないでしょ?」
ヤクザはパチパチと瞬きしながらわずかに間を空けた後、新たな論法を持ち出した。
「君の家ではないのなら、友達を泊めて得られる謝礼も君の金ではありませんね。つまり、返すのは君ではなく、あくまでも債務者である君の母親ということです」
想定外の論法。法的にどうなるのか、ユリアには判断できなかった。しかし、別の理由で拒否可能。
「仮にそうだとして、協力するよう命じる権利はあなたにはない。貸金業法第二十一条、第一項八号で禁止されてる」
「ふむ……『債務者等以外の者が債務者等の居所又は連絡先を知らせることその他の債権の取立てに協力することを拒否している場合において、更に債権の取立てに協力することを要求すること』ですか」
「そもそも母の居所は私も知らない。これ以上付きまとうようなら通報する」
ユリアは相手の足元を指差した。男は先程からずっと玄関前にいる。
「そこ、うちの敷地なの。それ住居侵入罪。仮に成立しなくても、帰れと命じたのにまだ出ていない以上、不退去罪なら成立する。言っとくけど、所有者じゃなく居住者に権利がある」
ニワカ知識のインテリもどきヤクザだったのか、明らかに挙動不審になって視線を彷徨わせ始めた。それがユリアの後方に固定されると、ニヤリと笑いつつ嬉し気に語り始める。
「娘にまでこんな教育をして、借金を踏み倒そうとする。初めから計画済みだったんでしょうね。いやはや、最近の詐欺師は手が込んだもので……。どう思います、皆さん?」
振り向いてみると、様子を見に来た近所の人々に釣られて、通りすがりの野次馬まで集まってきていた。妙な噂が流れても困る。ただでさえ目立つ容貌のユリア。SNSなどで拡散されたら、すぐに特定されてしまう。
「続きは中で聞く。そこどいて」
すっと避けたヤクザと入れ替わるようにして、玄関の鍵を開けた。衆目を背に浴びつつ二人で中へと消える。扉が閉まると、ユリアは振り返ってヤクザを見上げた。
「前から言ってるとおり、あと四年経過して失踪宣告をしてもらえば、家を相続することができる。そうしたら、借金の形に持ってけばいい」
眼鏡を外して胸ポケットにしまったヤクザは、打って変わって好色そうな目付きになり、唇を歪めつつささやいた。
「それじゃこっちはおまんま食えないのよ。金がねえなら別の形で支払ってもらう方法もある。お前の顔で処女だったら、一度で半分返せちまうかもしれねえなあ?」
発達途上の胸に向かって手が伸ばされる。ユリアは素早く掴むと、手首を捻って逆らえないようにしつつ、くるりと背を向けてしゃがんだ。
バターンと派手な音が響く。ユリアの背を支点につんのめるようにして男は一回転した。上がり框の角にしたたかに背骨を打ち付けたのか、情けない悲鳴が漏れる。
隅に置いてあった傘を手にすると、ユリアは男の眼前に持ち上げた。視線が集中したのを確認してから、勢いよく振り下ろす。ガツンと高い音を響かせ、金属製の石突きが耳を掠めるようにしてタイルを打った。
ピクピクと瞼を痙攣させる男に向かって、桜色の唇を歪めて妖しく嗤いつつ、瞳は氷のような青を保ったままユリアはささやいた。
「それいいわね。内臓とか高く売れそう。今ここであなたから抜き出せば、少しは借金減るかしら? 心臓っていくらで売れるか教えて? 抜き取った後じゃ訊けないから」
「優しくしてやってりゃ、つけあがりやがっ――ちょっ、待て、イテっ、イテぇって……」
ジャケットの内側から武器を取り出そうとしたらしき腕を捻り上げながら、ユリアは男の胸板の上に腰を下ろした。そのまま身体を背後に逸らして、極めた肘と手首の関節を捩じっていく。
「これ、折れたとしても正当防衛よね?」
やってしまおうか迷うユリアの耳に、パトカーらしきサイレンの音が飛び込んできた。段々と音程が上がっていくことから、近付いてきていると判断できる。中で何が起こるか予想し、近所の人が呼んでくれたのだろう。
「このまま押さえておいたら、あなたどうなるかしらね? たしか、それだと懲役確定よね?」
臀部に触れる硬い物の形状から、男が取り出そうとしたのは拳銃だと判断した。
「ク、クソっ、放しやがれ!」
空いた左手でユリアの長い髪を引っ張って抵抗するも、どちらが有利かは明白。
「次は正論でねじ伏せる用意してからやってくることね。無理だとは思うけど」
流石に帰るだろうと判断して、ユリアは腕を放して家の奥へと駆け込んだ。ヤクザは追ってはこず、玄関のドアが乱暴に閉められる音がした。
その先の方がユリアにとってはむしろ面倒だった。母の個人的な知人だと言い張り帰ってもらった。詳しい事情を話しても、警察は役に立たないのは経験済み。たらい回しにされ、さんざん手間と時間をかけた挙句、弁護士に相談しろという結論になる。
暴行や脅迫の証拠を用意したこともあったが、取り立てにきた個人が処罰されて終わりだった。やってくるのは、鉄砲玉のような捨て駒。裏にいるだろう闇金や暴力団には何の影響もない。
下手に恨みを買い過ぎると、お礼参りが怖い。姉はきっと、ヤクザの報復で――
(お姉ちゃん、今日も守れたよ……)
気が抜けたように、リビングのソファに身体を沈み込ませた。姉だったらもっとうまくいなしていただろうか。今日は少々やりすぎてしまったかもしれない。
ふと思い出して、キーホルダーを模した超小型ボイスレコーダーをポケットから取り出した。むしろこちらの方が脅迫してしまった。後で不利にならないよう、消去しておく必要がある。
ケーブルでスマートフォンに繋ごうとして、いつの間にかメールが来ているのに気付いた。
(まさか――)
件名を見て目を見開いた。『ユリア・ユーフェミア・新原様へ』。ごく親しい人にしか教えていないミドルネームが含まれている。慌てて中身を開いた。
――が、次の瞬間項垂れていた。失踪中の母からのものではなかった。もちろん、名前すら知らない父からのものでもない。どこで調べたのか知らないが、中を見させるための細工に過ぎなかったようだ。
映画の公開オーディションを受けないかとの誘いのメール。差出人名はなく、知らないアドレスからのもの。『あなたの美貌なら、それだけで一発合格』などと書かれていて、胡散臭いことこの上ない。ご丁寧に、どこかで隠し撮りしたらしきユリアの写真まで付いている。
(引っかかると思ってるのかしら……)
姉の時のような悪質な勧誘と判断した。先程追い返したインテリもどきヤクザの仕業かもしれない。削除ボタンを押そうとして、視線がその直上で止まる。
(塚本奏主演……?)
天使のようなゆるふわ笑顔の少女が映っていた。薄茶色の円らな瞳に、艶の良い濡烏の長い髪。
画面を切り替えて、メールにある映画のタイトルでネット検索をかけてみた。かなりの数がヒットした。信頼できそうな大手新聞社の記事を開いてみる。
映画の公開オーディションがあること自体は本当のようだった。未経験者歓迎。奏ちゃんと一緒に映画に出てみませんか? そんな文句で募集している。
複数の情報源を当たり、本物だと確信してから公式サイトへと繋いだ。締め切りは今月末。あと何日もない。書類選考の後、六月に全国七か所で一次面接。かなりの規模で募集するようだ。予定では三十一名。主演の塚本奏他三名を除き、出演者のほとんどをオーディションで採用。
応募資格は、十三歳から二十歳までの女性であることのみ。女子高生たちがセーラー服姿で殺し合う異能バトルロイヤルというキワモノ映画のようだ。
メールに目を戻し、画面をスクロールしてみた。『素人でも心配ありません。映画の筋書き上、演技力は要らない端役も多数あります』と書いてある。確かにそういう映画と思えた。
『オーディションでは「塚本奏を凌ぐ美貌の自分が、使い捨てのようにあっさりと冒頭で殺されたら、強烈なインパクトがある」と主張すれば、きっと興味を持ってもらえるでしょう』との助言も記載されている。
一理ある。設定的にビジュアル重視のはず。出番の少ない端役なら、演技経験など必要なく、容姿だけで選ばれそうな気がする。
(塚本……奏……)
ユリアの冷たい瞳がわずかな狂気をはらんで、演劇界に舞い降りた天使ともてはやされる人気女優の写真に釘付けになった。これは、殺し、殺される映画。主演である以上、彼女は生き残るのだろう。だから彼女を殺す役はない。しかし、殺される役ならあるかもしれない。
素人であるユリアにあてがわれるような役では、大したギャラは支払われないだろう。それでも、掛けている予算規模を想定すると、まとまった金が入るに違いない。弁護士への相談費用くらいにはなるかもしれない。
そして何より、この映画に出て注目を浴びれば、それだけで解決するかもしれない。必ずマスコミが嗅ぎ付ける。別に女優になりたいわけじゃない。スキャンダル大歓迎。
きっと誰かが勝手に調べてくれる。いざとなったら、自分でSNSに噂を流してもいい。母親が違法に背負わされた借金で、ヤクザに追われていると。
その先、ユリアは大手を振って外を歩けなくなるかもしれない。でもそれでいい。この件さえ片付けば、あとはどうとでも生きていける。母だって帰ってきてくれるかもしれない。
(なるべく目立とう。公開前のCMにも、私の出番が使われるくらいに)
母がどこかで生きているのなら、きっと目にするはず。この家に帰ってきてくれるはず。
怪しいメールでの誘導は無視して、公式サイトの記述を読み込んだ。保護者の同意書は偽造するしかない。面接や契約の時に同伴の必要があると厄介だが、そうなったらその時。ヤクザを相手に立ち回るよりはマシ。そう考えて、申し込みの手続きを進めた。