不本意な事件は給湯室で起きてるんだ。
「澤村さんてさ」
「うんうん。婿養子に入ったんでしょ」
「そうそう。マスオさん状態ってやつね」
「何だかちょっと最近やつれてない?」
「ププププッ。精神的に?」
「アハハハハ。うける」
「何か今日もね、会議でね」
「うんうん」
「これこれしかじか」
「プーーッ、うけるぅ」
給湯室にあるカプセル式のコーヒーメーカー、そこでコーヒーを煎れようとここに来ただけなのだ。
たまたまカプセルが切れていて、キッチン台の下から補充をしようと屈んだだけなのだ。
そこへ四人組の女子社員が給湯室にやって来て世間話を始め、俺は動けなくなっていた。
この位置が低めのパーテーションによって周囲から死角にあるということは知っていたが、出ていきづらくて身体を縮めたのがまずかった。
何と俺の噂話が始まった。しかも若干悪口寄りの。
俺、別にやつれてないし。
マスオさん、婿養子じゃないし。
うけないし。
「でも…モエ、だいじょうぶ?」
「澤村さんとは…」
何だ何だ。
『モエ』というのは前年の4月に入社してきた佐藤萌のことだな。
俺は昨年この佐藤萌の指導係だったのだが、特に何かの因縁はないぞ。
「澤村さん、つきあってたモエを捨てて婿に入るなんてね」
「結構酷いヒトだったのね。ねえ」
ええええ。何だそれ。いつ俺が新入社員の女の子に手を出したというのだ。
酷い目にあったのは俺だ。
『萌キュンは~、パソキョンって超苦手でぇ』
奴の第一声が蘇って頭痛がしてきた。
萌キュンとかパソキョンとかこの野郎、舐めてんのか。
この砂糖…いや、佐藤萌はまったく仕事が出来なかった。
というか、やる気がなかった。世間と社会を甘く見てる代表のような女子だったのだ。砂糖だけに…ってうまいこと言ってる場合じゃない。
とんでもないデマが生まれている。
「モエは澤村さんにどんなふうに迫られたの」
「ウフフフ、聞きたい、聞きたい」
「ええ~、恥ずかしいなあ」
背筋が凍る会話とはこのことだ。
「タロちんは~」
「うんうん」
タロちんが俺のことだと理解出来るまで3秒半ほどかかった。
脚と頭の芯が同時に痺れてきた。変な格好で固まって、馬鹿な話を聞いてるからだな。
「最初の日から私の手に触れたの♡」
「ええっ、ダイタン」
「あのヒト結構やるわねぇ」
やらないよ。何の話だ。
「そう、こうやって後ろから」
「うぇえええ」
「マジ?」
「私の湿ったマウスを~」
「キャハハハハ」「うける~っ」
…『私の湿ったマウス』とか言い方に気をつけろ。誤解されるじゃないか。
PCの扱いがあんまり酷いから、俺が業を煮やしてマウスを取り上げたことをいっているらしい。
とんでもない濡れ衣だ。周りの女達も変だと思わんのか。
「それからもね」
「うふふ」「何なに?」
「私の言うことにムキになったり、じっと見つめてきたり」
「アハハハ」「それは熱いわ」
ムカついたり睨んだりしただけだ。
「熱い吐息みたいのを浴びせられて~」
「うわあ」「何かすごい」
あれはあんまり物覚えが悪いんで出てしまったため息だ。
「あとね、私のスカートから覗く膝小僧をチラチラ見てたことも」
「へえ」「うける」「アハハハ」
それは…ちょっとだけあったかも。
いかん。脚が痺れた。手も震える。おまけにこの陰口のダメージで胸が痛い。
それまで中腰で耐えていた俺は力尽きてドタリと前へつんのめった。
「ぐっ、痛っ」
さらに手が痺れていたので顔を床に打ちつけ、舌も噛んだ。
「何っ?」「誰っ?」
「盗み聞きなんて!」
物音に気づいた女子社員達がパーテーションをどける。
「ええっ?澤村さん?」
「噂をすれば…」
「ひ、ひひゃうんら」(ち、違うんだ)
俺は弁解をしようとしたが、舌を噛んだせいで上手く喋れない。
一人の女子社員が眼を瞬かせる。
「あらまあ…そんなに反省してるの?」
何の話だ。
「会社で土下座だなんて…」
あっ、そうか。
中腰で前に倒れた俺は手に力が入らなくて上体を持ち上げられず、土下座状態になっているのだった。
これまたとんでもない誤解だ。
これではまるで。
「モエに謝罪をしてるのね、澤村さん」
違ーーうっ!
「モエ、許してあげなよ。澤村さんはあなたを捨てたこと、こんなに反省してるのよ」
「そうね。謝れば済むことじゃないけれど、ここまで誠意を持って頭を下げている人はなかなか見ないわ」
「ちょっと情けなさすぎるけど」
「アハハハハ」
もはや何をどう説明して、どう取り繕えばいいのか、わからない。
砂糖萌キュンの甘ったるい声が頭上からトロリキュンと垂れてきた。
「あのね♡ タロちん、もうタロちんのこと恨んでなんかいないわ。モエは大丈夫」
「よかったわね、澤村さん」「いい話だわ」「うんうん」
ぐおう。
読んでいただきありがとうございました。
今回も主人公が酷い目にあう話でした。
次回はもっと酷い目に合います。
その次は眼を覆うほどの酷い目に…
大丈夫かな、これ。
よろしければおつきあいくださいませキュン。