『トラウマ』
医務室でサクシードはすぐに目を覚ました。
訓練に戻ろうと、ガバッと跳ね起きたところを、ベッド脇の椅子に座っていたジャンティに押さえられた。
「落ち着け! もう昼休みだぞ」
「……!」
タオルケットを掴んでまんじりともしないサクシードを、ジャンティとイーリアスが気遣う。
「一体、何があったんだよ。俺たちに話せるか?」
「昨夜——」
サクシードをは額に手をやりながら、事情をかいつまんで説明した。
「下宿に遅く電話が入ったんです。俺を呼び出す電話で――ヤヌアリウス長官からでした」
「長官から――?」
「因果界の指定された場所に来るよう指示があって、往ってみると、長官自ら手合わせを申し込まれたんです」
「長官自ら――!」
直接会ったことはないが、ジャンティたちも噂くらいは耳にしたことがある。
武芸では右に出る者がいない、戦闘技術の持ち主だと。
その結果がどうだったかは、サクシードの様子でわかる。
「俺は――まったく手が出せずに叩きのめされました。数秒、だったと思います」
サクシードを瞬殺……噂にたがわぬ戦闘力である。
青ざめるジャンティとイーリアス。
「正直、何が起こったのかわかりませんでした。……目を覚ましたら、長官が手当てをしながら「君は最高峰を知らない。ここまで登ってごらん。今とは違う境地に立てるよ」と」
「……!!」
「最後に「私ならいつでも相手になる」と言い置いて、下宿に帰されました。俺は……!! 浮かれてとんでもない思い違いを」
「おいおい……」
「君が何をしたって言うんだ」
「それは言えません」
「……」
「長官は何も仰らなかったし、物腰も柔らかなままだった。けど、あの目——!」
「目……?」
「俺を憐れむあの目――! あれはあの時遭遇したテロリストと同じ……!!」
虫けらを踏み潰すような……取るに足らない存在と見限った、軽蔑の――。
左腕の古傷がズキズキ痛む。それは心因性のものだったが、サクシードを過去に引き戻すには十分だった。
「俺には何も残ってない! 俺は――!!」
「サクシード!」
パーン。
ジャンティがサクシードの頬を張った。それしか方法がなかったのだ。
「もういい、今日はここで休んでろ。そんな顔で下宿に帰ったら、みんな心配するぜ。なりふり構ってないで、平常心を取り戻すまで泣くなり考えるなりしてみろ。今のおまえにゃ、それも必要だぜ」
「すみません」
「うん、じゃあ俺たちはここで。この借りはきっちり後で返してもらうからよ」
「……はい」
ジャンティが椅子から立ち上がり、イーリアスが仕切りのカーテンを引いた。
そして静かに立ち去ったのである。
二人は医務室から廊下に出て、食堂に向かいながら意見を交わした。
「どう思う……?」
ジャンティがイーリアスに意見を求める。
「長官との圧倒的な実力差を思い知らされて、昔のトラウマを思い出したらしいな」
「ああ、絶対わざとだぞ」
「わざと……? それに何の意味があるんだ」
「さぁな……万武・六色に関係してることは確かだが。俺ら凡人は手心も加えてもらえるが、サクシードには完膚なきまでに容赦なしだ。あんたも言ってたが、そこは取らされる責任の違いだろ」
「まったくだな。しかし――サクシードに浮かれるようなお膳立てをしたのは自分たちなのに。少しでも見咎められるようなことがあると、トラウマ引っ張り出すとは。ちょっと大人げないんじゃないか?」
ブッとジャンティが吹き出した。
「あんたに言われちゃおしまいだよ」
「大丈夫かな……?」
「大丈夫、大丈夫。あいつにゃ補って余りあるほどの若さがあるさ」
「そうだが……」
大人の二人は、サクシードが取り乱してもビクともしなかった。
トラウマの一つや二つ抱えて当然の世界に生きる者の、暗黙の了解だった。
サクシードは黙って泣いていた。
ジャンティに勧められたのがきっかけになって、あとからあとから涙が溢れてきて止まらなかった。
下宿仲間が心配するだろうとジャンティは言ったが、すでにレンナたちには心配をかけている。
特にレンナには、昨夜、素晴らしい時間を過ごした後だったため、今朝の豹変ぶりに呆れているだろう。
泣いて感情が解放されたのか、サクシードの頭は冴えてきていた。
ヤヌアリウス長官は、別にレンナとのことを諫めたわけではない。
ただ、原点に還ってみては? と諭したのであって、恋愛とは別件である。
トラウマはサクシード自身の問題だった。
そこから彼の人生は始まったと言っていい。
何もない、というのは錯覚にすぎなかった。
すべてをかけて守るとはどういうことなのか、ヤヌアリウス長官は手本を示してくれたのだ。
甘えず、怖気ず、上を目指すにはどうしたらいい――?
サクシードはそのことばかり考えていた。
同じ頃、レンナもまた涙していた。
昨夜、サクシードに何があったのか、過去を透視して原因を探り、今また彼の涙を見て泣いていた。
よりによって、あんなに大切な時間を過ごした後で――。
レンナはよっぽどヤヌアリウスに抗議しようかと思った。
しかし、サクシードの涙を見てそれは思い留まった。
これは私に知られたくないことなのだ。
サクシードの裁量で解決しなくてはならない問題。
何もかも共有したいというのはわがままである。
人間には犯してはならない心の領域がある。
喩えレンナにその一面を見せてくれることがなくても、構わないではないか?
彼の半端じゃないところも、私の前では強く雄々しくありたいという自尊心も大好きだった。
逆に弱いところを見せてくれた時は、両手を広げて受け止めたいけれど……それを言ったら彼の立つ瀬がない。
実は、サクシードがあまりにも完全無欠なので、ひそかに心配していたのだ。
内でも外でもあの調子では、全然気が抜けないではないか。
そういう意味で、頑固で強情だ。
(私にもあなたを守らせてくれる……?)
そっとビジョンの向こうのサクシードの涙を拭う仕草をして、レンナはそこで透視を打ち切った。
あなたが私を守る盾なら、私はあなたの心を癒す泉でありたい!
一大決心をして、顔を洗うため洗面所に向かった。
彼女もまた凛々しい女の子であった。




