『恋は大変』
夕方七時、下宿シンパティーア。
キッチンで夕食の準備をする、レンナとフローラ。
今晩のメニューは、アサリと菜の花のボンゴレ、川魚のムニエル、切り干し大根の煮物、イチゴのヨーグルトがけだった。
この頃には、レンナもすっかり気を取り直して、フローラとの会話を楽しんでいた。
「まぁ、今朝そんなことが……?」
サクシードの胸に飛び込んで泣きじゃくったことを、フローラに打ち明けるレンナ。
フローラはその大進歩に驚いた。
「そうなの、あー恥ずかしいっ、サクシードの顔見れないかも」
今さらレンナは顔から火を吹く思いをしている。
「ファイアートには、そっとしておいてほしいですわね……」
「うん……でも、絶対感づかれる――!」
クスクス笑うフローラ。
「笑い事じゃないよぉ」
「ごめんなさい、でもね、今後のレンナさんのためには、とても良い傾向だと思うのよ」
「フローラ……?」
「今まであなたの傍には、そういう対象がいなかった……サクシードがあなたの前に現れたのは、今この時だからなの。わかるでしょう?」
「だって……いいのかなぁ? こんな時に恋愛にうつつを抜かすなんて」
「あら、恋はどんな非常時にもするりと入り込みますわ。心も身体も健康な者同士、ましてや気が合うなら、きっかけさえあれば恋は成立します。だから……心から溢れてくる愛情を見つめてあげて」
「ま、待って! サクシードの単なる同情ということも――」
「——同情でサクシードのような人が、傍にいる約束なんかしません。あなたのために進路を曲げようとしている男性に失礼ですよ」
「……」
サクシードが帰ってきたのは、そんな時だった。
ガラス玉の暖簾を揺らして、顔をのぞかせる。
「ただいま」
「!」
「お帰りなさい、サクシード」
穏やかに迎えるフローラに対し、レンナは硬直してしまった。
しかし、変に思われたくない一心で、真っ赤になってサクシードを見る。
「お、お帰りなさい……」
サクシードはホッとして、にっと笑った。
「ただいま、レンナ、あとで話がある」
「えっ……?」
「レンナさん」
虚を突かれて固まるレンナを、フローラは優しく促した。
「う、うん。じゃああとで書庫室に……」
「わかった」
了承して、サクシードは姿を消した。
その途端、レンナはシンクにもたれかかった。
「ふうっ」
「レンナさん……?」
「……フローラ、恋って大変だね!」
実際、名のない力どころじゃなく、心の深いところまで迫ってこられた気がした。
フローラは大いに満足した。
「そうよ、大変なの。わかってくれて嬉しいわ、レンナさん」
「どうにかなっちゃうのは困るなぁ……天窓の鍵的にどうなんだろう?」
「人の営みを汲んでこその神器でしょう」
はたして、その通りだった。
その後、レンナがどんなに恋の深みにはまっても、天窓の鍵は笑うように歌うだけだったのである。
この夜のファイアートは、賢明だった、と言えるだろう。
微に入り細に入り、サクシードとレンナの様子を観察していたが、いつものようにからかうことはしなかった。
もちろん、二人だけの間で何かあったことは、レンナの様子で一目瞭然だったが、探ろうともしない。
これなら、昼間考えていたことは、サクシードにほのめかせば十分だと思っていた。
レンナが思いきったように「サクシードと話があるから」と言ったのを幕に、緊張は解かれた。
サクシードがドアを開けて待っている傍へ行って、恥ずかしそうに見上げるレンナをしっかり目端に捉えて、ファイアートはズズッとミントティーを飲み干した。
その間、注目は彼に集まっていた。
「えっ、なに?」
「珍しいこともあるもんだ」
ラファルガーの言葉に素っ気なく返す。
「ああ――今日のところは遠慮しておかないと、誰かさんの身の置き場がないと思ってね」
「見直しましたよ、ファイアートさん!」
「そう?」
「ありがとう、ファイアート。レンナさんのために自分を抑えてくれたのね」
「お礼なんて言われるほどのことじゃないよ。それに、早いとこみんなと相談したかったのもあるしね」
珍しくフローラの気持ちを躱して、ファイアートは話を切り出した。
「あの二人を行きつくところまで行かせるべきだと思う……意義のある人?」
「……」
三人とも沈黙を持って答えた。
「そうこなくちゃね。サクシードが戸惑おうが、レンナが恥ずかしさで悶絶しようが、いざ有事に持たせてやれる、最高の切り札だと僕は思う」
いつになく真面目に、ファイアートは述べた。
「サクシードもそのことに気づいてるはずだしね」
お茶のお代わりをフローラにもらいながら、ファイアートが笑わずに言う。
「どちらかというと……レンナさんの心の障壁を、取り除いてあげることの方が重要かしら」
「スペシャルゲートの塊だからね、あの子。カウンセリングはフローラに任せるとして。とりあえず血縁の僕ができることは、レンナの両親を説得することだな」
「サクシードさんをレンナさんのご両親に引き合わせるんですね」
「そう、お嬢様は段取りが必要なのよ。念入りで正式なお膳立てがね。理由を話せば、あの人たちはすぐわかってくれる。何せレンナの親だから」
「説得力がありますわ」
「まぁね……どうせ、サクシードをスカウトしたPOA上層部もみんなグルでしょ?」
フローラは返事の代わりにニッコリ笑った。
「やっぱりね……それならそれで、側にいる僕らに説明してほしかったよ」
「ごめんなさい」
「——出鼻をくじかれて、文句しか出てこないんじゃないのか?」
ラファルガーに突っ込まれて、ファイアートはフン! と鼻を鳴らした。
「誰が出歯亀だよ! ちったぁ信用しなさいよ」
「今までの行いで相殺に決まってる」
「あのね……」
がっくり項垂れるファイアートだった。




