『事情を聴いた、その後で』
午前九時——首都キュプリスの東区にある、クレア医療大学の開講時刻となった。
ファイアートは、専攻のスポーツ医学の講義を受講していた。
だが、困ったことに、教授の話が頭に入ってこない。
原因はフローラから聞かされた、名のない力を無力化する方法を知ったからだった。
初めそれを聞いた時、ファイアートは、レンナには難しいんじゃないかと即座に思った。
名のない力を天窓の鍵で媒介し、木の導管のように心を通過させる。
そんなことは誰も経験したことがないのはもちろんだが、特にレンナは抵抗なく受け入れることが、感覚的に掴めないのでは? と疑っていた。
理由は、処女だから。
身体だけでなく、心も理性の臨界を突破したことはないはずだ。
それに、騙し討ちのように生命の樹に預けられた、天窓の鍵の人外の力も影響して、逆に制御することに慣れ過ぎているのだ。
ファイアートが思うに、その感覚が養われていないのは致命的な気がした。
(修行僧じゃあるまいし……)
心を無にして名のない力などという、未曽有の災厄を引き起こし得るものを受け入れる――比重が違い過ぎる。
少なくとも、ファイアートには想像の埒外だった。
男だから、というより、やはり感覚的なものが不可能だと告げていた。
「……」
左の手のひらを外に向けて、親指と人差し指の間を、シャープペンシルで何度も行き来させる動作を繰り返す。
この無意識の動作が、隣に座った同級生のマリーを苛立たせた。
「……ちょっと、ファイアート」
「何?」
うわの空で返事するファイアート。
「さっきから何やってんの?」
「へっ?」
手元を見ると、謎の動作はしっかり思考とつながっていた。
「あ、いや、これはその……」
「イヤらしい!」
感づかれて、ファイアートは慌てて両手を机の下に引っ込めた。
同時刻、やはり首都キュプリスの東区にある生物研究所の研究室では、ラファルガーがレポートを作成しながら思案中だった。
昨夜から今朝のことは、ラファルガーにも影響を与えていた。
間違ってもファイアートのようなことはなかったが、頭の中を堂々巡りする考えで支配されている。
……どうしてレンナが選ばれたのだろう。
生命の樹の選出基準など知る由もなかったが、有り体に言って、他にやってのけそうな候補者はいくらでもいるのだ。
例えば、身近な存在で言えば、フローラならレンナよりも上手くやり遂げそうだった。
女神の斎官という特殊な立場。ましてや降霊界の内宮ではないか。
それに、そんなことを言い出したら、降霊界に属する人物であれば、フローラ以下、全員適応可能なのでは、と思う。
確かに、第五層生命樹界に往けるのはレンナだけだが、降霊界の人物よりはずっとラファルガーに近かった。
レンナでなくてはならない、という理屈が該当するのはそれだけだ。
どんなにレンナが有能なのかは知っているつもりだが――何しろ次元が違うことで、同列には語れない。
そもそも、名のない力とは何なのだろうか?
過去二回のニアミスは、いずれも災厄に過ぎなかった。
それが今回は、レンナと天窓の鍵が揃うことで、回避が可能になる。
——人類にとっては、これ以上ない朗報だ。
昔話なら、レンナの命と引き換えに契約は完了する。
しかし、肝心のレンナにその悲愴感はない。
ということは、名のない力は世界の理の外にあるものではなく、元々、内にあるナニモノかなのだ。
名状すべからず巡っているから、名前がない。
人間と相関的に位置しない、異物。
レンナは世界で初めて、その受け皿になることを定められた――喩えるなら、エネルギー変換機なのだろう。
それを可能にするとしたら、もう魂しか思い浮かばないが。生命の樹はレンナの心と云った。
どちらにしても、ラファルガーの卓越した観察眼を持ってしても、それらばかりは捉えることが不可能だった。




