花ひらく妃たち
たった一夜の出来事が、田舎の娘である春蘭の人生を大きく変えてしまった。
「春蘭か」
「は、はい……」
「朕の傍へ来なさい。まずは話をしよう」
顔をあげることさえおそれ多かった。春蘭の名を呼ぶのは、広大な亮国を統べる皇帝。春蘭は今宵、皇帝の寝所で夜伽を命じられたのだ。
(ああ、なぜこのようなことになってしまったの──?)
春蘭は自らの運命を受け入れることができぬまま、皇帝の命に従うことしかできなかった。
***
「ねぇ、知ってる? 昨夜、輿が迎えに来た宮女がいるそうよ」
亮国の後宮の片隅では、今日も宮女たちが噂話をしている。
「それ、本当?」
「本当よ。陛下に見初められたんですって。今朝には才人(妃の位のひとつ)に封じるよう命じられたそうよ」
「私も聞いたわ。しかもその宮女、後宮に入って三月も経ってないんですって」
「どんな手を使って陛下を籠絡したのかしら?」
「ちょっと、誰かに聞かれたら大変よ」
「ここだけの話よ。身分の低い宮女が、どうやって陛下のお目にとまったのか気になるわ」
「うらやましい。一夜にして運命が変わったのね」
「これからは皇帝の妃として優雅に暮らせるのね」
「ああ、うらやましい……」
皇帝陛下の目に止まり、一夜を共にする。
それは後宮で働く宮女たちの憧れであった。
たった一晩のことであったが、夜が明ければ皇帝の妃のひとりとして認められるからだ。妃となれば働く必要はなくなり、華やかな生活が待っている。
ゆえに亮国の宮女たちは皇帝に見初めらた宮女を、羨望と嫉妬の眼差しで見つめるのだ。
***
「春蘭様、早く準備をなさいませんと。きっと今夜も陛下のお召しがございますよ」
春蘭に仕えることとなった侍女は、戸惑ってばかりの春蘭をよく支えてくれた。
「宮女たちが噂しておりますよ。後宮に入ってまもなく陛下に召されるとはなんと幸運な女性と。わたくしも春蘭様にお仕えできて嬉しいです」
(幸運な女……本当かしら)
一夜にして宮女から妃となった春蘭であったが、その心は深く沈んでいた。
「あ、あの。少しの間ひとりにしてくれますか? 考えたいことがあるのです」
「春蘭様、侍女に敬語は不要です。どうか命じてくださいませ」
「そうでした……。では少しの間、外にいておくれ」
「はい、春蘭様」
春蘭は侍女におずおずと指示を出すと、ようやくひとりになることができた。
誰もいなくなったことを確認すると、衣に隠していたお護りを取り出した。それは故郷にいる想い人から贈られたものだった。
「武松、もう会うことは許されないのね……」
春蘭はお護りを握り、故郷と恋人を想い、秘かに涙した。
後宮勤めの年季が開けたら故郷に戻り、想い人の武松と結婚するつもりだった。春蘭にとって後宮はあくまで働く場であり、妃になることなど考えていなかったのだ。
故郷では美人と評判だった春蘭だが、美女がひしめき合う後宮ではさして珍しくもない容姿だった。ゆえに自分が皇帝に見初められるとは想像もしていなかった。
それは華やかな後宮で働くことにようやく慣れ始めたある夜のことだった。宦官のひとりが春蘭を迎えにやって来た。
「春蘭様、輿にお乗りください。陛下がお待ちです」
春蘭の目の前は真っ暗になった。
宦官たちが担いでいる赤い輿は、皇帝陛下の寝所に連れていく女を乗せる特別な乗り物だ。
「私は身分の低い卑しい宮女でございます。陛下の御相手などとても……」
「春蘭様、これは陛下の命でございます。よもや逆らうおつもりですか?」
春蘭の背筋が凍りつく。皇帝陛下の命令には誰も逆らうことはできない。逆らえば春蘭も含め、一族郎党に反逆の意思ありとして罰せられるからだ。
春蘭には幼い弟が二人いた。父の命令ではあったが、可愛い弟たちのために後宮に働きに来た春蘭にとって、一族が罰せられることは絶対に阻止しなくてはいけなかった。
(拒否すれば家族まで巻き込まれてしまう。ああ、これで私はもう二度と故郷には帰れないのだわ……)
春蘭はあふれ出る涙を袖で隠しながら、黙って輿に乗ることしかできなかった。
皇帝の妃となった女は、後宮から出ることは許されない。その生涯を皇帝陛下にのみ捧げるのだ。
陛下に見初められた春蘭も、妃となった瞬間に故郷へ帰ることも、想い人に会うことも許されない身となったのである。
春蘭は後宮で生きていく。それしか道はない。
***
「春蘭様、また御部屋の前に動物の亡骸が……」
「そう……。これで何度目かしら」
一夜にして妃のひとりとなった春蘭であったが、その未来は前途洋々なものではなかった。
まず始まったのが、誰が犯人かもわからない数々の嫌がらせだった。
朝になると部屋の前に動物の死体が置かれていることは日常茶飯事で、その確認と片付けがお付きの宦官の朝一番の仕事となった。
食事は宮女だった頃よりずっと豊かになったが、異物が入っていることがよくあった。紛れ込んでいた食器の破片で口の中を切ったり、食べたものでお腹を下してしまい、皇帝陛下のお召しに応えられないこともあった。
犯人探しをしようにも、相手が自分より上位の妃嬪であった場合は何もできないため、黙って耐えるのが得策だとお付きの侍女に教わった。
「陛下の寵愛を受け続ければ、いずれ位はあがっていきます。そうすれば誰も春蘭様に嫌がらせはできなくなります」
幸い、皇帝陛下は素朴な春蘭を気に入ったようで、度々彼女を寝所に呼んだ。それがさらなる妬みに繋がることもあるが、寵愛が増せば嫌がらせの数も変わる。陛下の愛だけが後宮の妃のすべてだと思い知らされる春蘭だった。
「春蘭様、そろそろ皇后様に御挨拶に伺いましょう」
「ええ。急いで支度しましょう」
亮国の後宮には、百人以上の妃がいた。皇后をはじめ、位の高い妃たちの多くは名門一族の出身であり、強力な後ろ盾と共に華々しく後宮入りした。
一族に力のない者や皇帝陛下に見初められ妃になった者は、妃としての身分は低いところから始まる。
幸運な娘と囁かれる春蘭であったが、妃としての位はまだ低かった。身分の序列は厳しく、上位の妃たちには礼を尽くさなくてはならない。
後ろ盾が一切ない春蘭にとって、後宮内に味方を増やすことが後宮で生きていく術だと侍女に教わった。春蘭が頼りにしているのは、後宮の頂点の存在である璃皇后だ。
質素倹約を心がけ、穏やかで品の良い皇后は春蘭の憧れでもあった。
「皇后様、才人春蘭が御挨拶申し上げます」
春蘭は腰を落として叩頭し、丁重に挨拶をした。
璃皇后は穏やかに微笑み、春蘭の訪問を歓迎してくれた。
「立ってちょうだい、春蘭。さぁ、今日もお話しましょう」
「はい、皇后様」
璃皇后は皇帝がまだ皇太子だった頃に嫁ぎ、以来陛下をずっと支えてている。夫が皇帝となってからは後宮を束ねる皇后として敬われ、皇帝からも大切にされている。穏やかで優しい女性であったが、皇后には実子となる子どもがいなかった。身籠ったことはあるのだが、流産してしまったという。その後子どもは授かっていない。
「春蘭、うかない顔をしているわね。気に病むことでもある?」
毎日欠かさず挨拶に来ているためか、皇后は春蘭の変化に敏感だった。
「申し訳ございません。愚鈍なわたくしめをお許しください」
「嫌がらせは今でも続いているの? わたくしのところに毎日来るようになってからは、少し減ったのではなくて?」
「皇后様、ご存知だったのですか?」
「後宮内のことですもの。把握してるわ。わたくしが罰すると、かえって嫌がらせが増してしまうと思って、あえて黙っていたけれど」
皇后は春蘭が後宮でどんな扱いを受けているのか知っていた。後宮を束ねる者として他の妃嬪たちのことは常に気に留めている。
皇后の次に尊い身分である四夫人の淑妃、徳妃はすでに皇子を産んでおり、皇后は実子がいないことから肩身の狭い思いをすることもあった。立太子を期待される第一皇子を産んだ徳妃は、高飛車になることも多く、皇后を見下したような発言をする。第一皇子の母だけに、皇后も周囲の者も何も言えなかった。
皇后は徳妃らに敵対せぬよう気を付けながら、話し相手という名目で春蘭を呼び、彼女をさりげなくかばっていたのである。
「皇后様、ありがとうございます」
「春蘭の顔色が冴えないのは、他に気に病むことがあるのね。ここだけの話として、わたくしに本当のことを教えて」
賢后と名高い皇后は、人の気持ちを察する術に長たけていた。人払いを命じると、春蘭の手をとり話すよう促した。
「皇后様、私は幸運な娘と言われております。けれど野山を走り回って育った田舎娘の私に、皇帝の妃なんて畏れ多いことでございます。卑しい娘は田舎に帰ったほうがいいかと……」
「故郷に会いたい人がいるのね?」
皇后の指摘に、ほんのり頬を赤らめることで答えててしまった春蘭であった。皇后は優しく微笑み、春蘭の手を軽く擦った。
「皇后様、なぜ女は何も選べぬのでしょう? 与えられた人生を生きることしかできません。宮女になったことも父からの命令でした……」
父親からの命令がなければ、春蘭はすぐにでも武松の妻になるつもりだったのだ。
春蘭の父は、娘の美貌と気立ての良さから、陛下の目に止まることを期待していたと後から知った。
目を伏せ涙ぐむ春蘭の肩に、皇后はそっと手でふれた。
「春蘭、よくお聞きなさい。わたくしたち女はね、置かれた場所で咲くしかないの。咲けない女は枯れ落ちるだけよ」
「皇后様、女は未来永劫、生きたい人生を選べぬということですか?」
「おもしろいことを言うわね、春蘭。遠い未来には私たち女も、自ら人生を選択して切り開いていけるのかもしれない。けれど人生を選べたとしても、どのように生きていくかはその人次第じゃなくて?」
「その人次第……」
「女は艶やかに咲いてこそ花よ。咲けない女はその存在すら認めてもらえず、朽ちていくだけ。枯れ落ちるのを待つだけの人生でいいの?」
穏やかに微笑む皇后だったが、その目の奥底には力強い光があった。
「春蘭、貴女にだけ教えるわ。皇帝陛下の皇后となるのは、わたくしの姉であったはずなの。姉は未来の皇后として大切に育てられ、わたくしは自由に育てられたわ。けれど姉が急病で他界してしまって……。わたくしは姉の身代わりとして陛下に嫁ぐことになった。まさか自分が皇后になるだんて、昔は考えもしなかった……」
皇帝に大切にされている皇后ではあったが、彼女もまた過去を抱えていたのだ。
「わたくしも最初は困惑して泣いたものよ。皇太子の妻となり、いずれは皇后になるなんて無理だって。でも陛下のことを知るうちに、少しずつ気持ちも変わっていったの。春蘭、知っていて? 陛下の御兄弟の男児は十八人もいたのよ。けれど成人できたのは陛下を含め、たった五人。これが何を意味するか理解できて?」
春蘭はしばし考えた。病弱な子であったとしても、亮国の名医が集まる後宮なら、庶民よりずっと環境は恵まれているはずだ。にもかかわらず、多くの男児が成人になる前に亡くなったということは……。
「それは秘やかに……ということでございますか?」
春蘭は周囲に気をつけながら、皇后に耳打ちするように囁いた。皇后は何も言わず、黙って頷いた。
「昨日まで仲良く遊んでいた兄弟たちがひとりひとり消えていき、後で『病で亡くなった』と教えられるのだと陛下は寂しそうに仰っていたわ……」
今や最高権力者である陛下でさえ哀しき過去があり、生き延びるためには皇帝になるしか道はなかったのだ。
「わたくしは陛下を支えると決めたの。でもわたくしは嫡子(正妻が産む子)を産めなかった……。陛下の願いだったのに」
全てに恵まれた存在と思う皇帝も皇后も、自ら望んだ人生ではなかった。他の人生を選べぬなら、自ら道を切り開いていくしかない。道を見いだせなければ、朽ちていくのを待つのみだ。
(女として、いいえ、人間として花咲けるかどうかは私次第。泣いていても何も変わらないのだわ)
光明を見出した気がした春蘭は、その場に跪き頭を垂れる。
「皇后様、私が愚かでした。どうかお導きくださいませ。私はどう生き、何を成していくべきなのか」
皇后は満足そうに微笑み、春蘭に顔を上げるように命じた。
「やはり貴女は賢い。さすがは陛下が見初めた女子です。春蘭、いいこと? わたくしは全てを教えません。自ら考えながら学び、自分が何を成すべきか悟りなさい」
「はい……!」
この時より、春蘭の本当の戦いが始まった。
春蘭はまず書を読み、学ぶことから始めた。読み書きはできたが、知識も知恵も足らないと悟った春蘭は貪るように本を読み、様々なことを学んだ。他の妃が皇帝から美しい装飾品や金銀や玉、毛皮を下賜される中で、春蘭はより多くの書物を望んだ。
「美しく装い、陛下の御心をお慰めするのが後宮の妃の手本だというのに、春蘭は変わり者だこと」
せせら笑う妃もいたが、春蘭は学ぶことに力を注いだ。一方で璃皇后の手助けをしながら、礼儀作法や後宮の妃嬪としての在り方や付き合い方などを身につけていった。
多くの知識を学んだ春蘭は皇帝との会話にも臆さず話せるようになり、聡明な美しさを好む皇帝は春蘭を寵愛していくこととなる。やがて才人より上の嬈妤の位を陛下より賜った。
寵愛を受ける中で、他の妃からの妨害と思われる出来事も多々あったが、春蘭は身に付けた知恵と機転の良さで乗り越えていくのだった。
やがて懐妊した春蘭に皇帝は充容という四夫人に次ぐ立場である九嬪の位を与え、無事に皇子を産んだことで昭媛となった。
後宮の妃嬪として皇子を産むことは最も大切な御役目であったため、春蘭に嫌がらせをするものもいなくなった。
しかし春蘭にはひとつの懸念があった。
(私にも、私の実家にも息子を守るだけの力はない。どうすればこの子を立派に育てられるの?)
後ろ盾となる有力な一族や役人がいなければ、いかに陛下に寵愛されたとしても陰謀によって幼子の未来はなくなってしまう可能性があった。
考え抜いた末に、春蘭は後宮内で最も信頼する璃皇后に頭を下げた。
「皇后様、お願いがございます。私の息子を皇后様の子として育てていただけませんか?」
常に穏やかな璃皇后の表情が、輝くように明るくなったのを見た春蘭は心から安堵した。
(やはり皇后様は、私の子を養子としてもらい受けることを最初から望んでらしたのだわ。これでいい。私の息子は皇后様の養子として将来を約束されたもの)
力なき妃は子どもの安泰を願い、より力のある妃に自らの子を託すことが後宮内ではあった。少しでも幸せに、何より生き延びてほしいと願い、お腹を痛めて産んだ子を泣く泣く他の妃に差し出すのだ。
春蘭も初めて産んだ子を養子に出すことは、身を切られるより辛いことであったが、息子の幸せを願って璃皇后に託したのである。
「ありがとう、春蘭。この子は必ず立派に育ててみせるわ。春蘭、貴女はわたくしの妹も同然。二人きりの時は、『お姉様』と呼んでちょうだい」
「ありがとうございます、皇后様、いえ、お姉様」
璃皇后と義姉妹としての絆を得た春蘭は、後宮内での力を確実に身につけていった。
春蘭が息子を璃皇后に託したことで、璃皇后は笑顔が多くなり、皇帝陛下もたいそう喜んだ。
「春蘭、そなたのおかげで皇后が笑顔になった。これからも義妹として皇后を支えてくれ。そなたを昭儀に封じよう」
「陛下、ありがとうございます」
皇帝からも皇后からも信頼されていく春蘭を、「実子を出世のために利用した」と囁くものがいたが、春蘭は唇を噛みしめて耐えた。
(息子が無事に大きくなれるのなら、どんなことでも耐えてみせるわ)
陛下の寵愛が続いた春蘭は次々と子どもを授かり、二人の公主と二人の皇子を産んだ。子だくさんな春蘭を皇帝は褒めたたえ、ついに四夫人のひとつである『貴妃』の位に封じた。それは璃皇后の力添えもあってのことだった。
璃皇后は養子となった第三皇子(春蘭の子)をこよなく愛し、教育にも力を入れた。皇帝も利発で健康な第三皇子を愛し、皇太子として期待するようになっていった。
ところが万事順調だった日々に、思いもしない事態が春蘭を襲うこととなった。
「皇后様、どうか第三皇子のためにお元気になってくださいませ!」
璃皇后が病に倒れてしまったのだ。第三皇子はまだ成人になっていない。
春蘭は必死に看病をしたが、皇后の命の灯火は潰えようとしていた。
「春蘭、あなたのおかげでわたくしは母になるという夢を叶えることができた。ありがとう。天から見守っているわ……第三皇子をお願いね……」
璃皇后は春蘭の手を取り、涙ながらに懇願した。それが最後の言葉となってしまった。
「皇后様……!」
「皇后、目を開けよ。朕を置いていくな!」
皇帝の妻として、そして後宮を束ねる皇后として陛下をよく支えた璃皇后は天へと旅立った。
本当の姉のように慕った皇后がいなくなってしまった。春蘭は絶望の淵へと追いやられた気がしたが、泣いてばかりはいられなかった。
(第三皇子と子どもたちを守らなくては……!)
璃皇后が身罷られたことで、空位となった皇后の座に誰がつくか議論され始めていた。
聡明で優しく、陛下の寵愛を受けている蘭貴妃(春蘭)か、朝廷内で大きな力をもつ一族出身の徳妃か。皇帝も次の皇后を決めかねているようだった。
春蘭もまた皇后になるべきか否か迷っていた。権力に興味はないが、皇后となれば子供たちを守りやすくなるのは確かだからだ。
(第三皇子をお守りし、私の子どもたちを守るにはどうすればいい?)
春蘭にとって最後の決断が迫ろうとしていた。
***
「陛下、お願いがございます」
春蘭は陛下の元へ参じ、願い出た。
「蘭貴妃か。何が願いだ、申してみよ」
璃皇后を亡くして以降、皇帝の顔色はあまり良くなかった。それだけ璃皇后を大切に思っていたのだろう。
「陛下、畏れ多くもわたくしを次の皇后にという話もあるようですが、謹んで辞退させていただきとうございます」
「何ゆえだ? 徳妃は朕のところへ来ては『陛下の隣に立てる女になりたい』と申しておるのに」
徳妃は以前から皇后の座を欲していた。名門一族の自分こそ皇后にふさわしいと思っているようだ。
「陛下、わたくしにとって皇后は、璃皇后ただおひとりでございます。たとえ天に召されてもそれは変わりません。わたくしは今の立場のまま、陛下をお支えしたいと思っております」
春蘭は最後の賭けに出た。
今は貴妃とはいえ、身分の低い家の出身である春蘭が皇后となれば反発するものも当然多い。徳妃も黙っておらず、何かしらの企てをする可能性が高い。陰謀によって廃位となれば、春蘭は子どもたちを守ることができなくなってしまう。郷里の家族も巻き込まれてしまうだろう。
そこであえて皇后の座を望まず、あくまで璃皇后を敬うことにしたのだ。
「よくぞ申してくれた、春蘭。それでこそ朕の妃だ! よかろう、そなたの願い通り、皇后は璃皇后ただひとりとしよう」
春蘭は皇后への道を自ら閉ざすことで、敵対関係にあった徳妃をけん制したのである。これにより徳妃が皇后になることを熱望すれば、皇帝陛下の不興を買うことになる。徳妃は自分の立場を守るため、口をつぐむしかない。
璃皇后を愛していた皇帝は春蘭の申し出を心から喜び、皇后ではなくとも後宮を束ねるのは春蘭しかいないと宣言した。
「皆の者、よく聞くがいい。控えめで心優しく賢い蘭貴妃は、全ての妃嬪の手本である。璃皇后に代わって後宮を束ねていくので、皆よく従うように!」
春蘭は蘭貴妃として皇帝をよく支え、徳妃らにも気を配り、全ての妃嬪をしっかりと束ねていった。第三皇子は皇太子となり、春蘭の立場はより強固なものとなる。
***
晩年の春蘭は女子の教育や地方への支援にも力をいれていき、女も自らの力で生きていけるよう尽力した。
蘭貴妃の生涯は、後の妃の憧れとなり、やがて伝説となった。
後世では春蘭は皇帝と皇后に愛された、最も幸運な女性と思われている。
その功績の裏で数多の涙を流し、努力を重ねていたことはあまり知られていない。
「どんな世になろうと、ひとりの人間として開花できるかどうかは、そなたたち次第。しかと学び、力強く生きていきなさい」
後宮の花としてあざやかに生きた女の、最後の言葉である。
了




