第八話 名なしの毛玉
少し短いですが、キリの良いところなので投稿します。
そういえば陛下こそ名なしでしたね。ヒューゴさんです。よろしくお願いします٩(^‿^)۶
ミーヤは泉を目指して、コロコロと転がった。もう跳ねる元気も羽ばたく力も残されていなかったからだ。
だんだんと意識が遠のいて、泉までは保たないかも知れない。せめて、茂みに身を隠さなくては……!
ミーヤが最後の力を振り絞って、泉を見渡せる背の低い茂みへと身を寄せる頃、皇帝陛下……ヒューゴは馬上の人であった。
ポクポクと蹄の音が、夕暮れの気配が満ちる森の小道に響く。その小道には、夏の終わりを惜しむようにひぐらしの声がカナカナカナと降り注いでいる。
濃い緑色の影を落とした森は、盛りを過ぎた夏の心地よい疲れを漂わせていた。蝉時雨というのは、なぜか静寂とよく似ている。
ヒューゴは馬の手綱から片手を離して、ポケットから小さな飴玉をひとつ取り出し口に放り込む。南方の島国への視察団が持ち帰った、現地で人気の菓子らしい。子供の頃からの癖でバリバリと噛み砕いてしまう。幼い頃からの側仕えには何度も『歯が悪くなります』と注意されたが、とうとう治らなかった癖だ。
噛み砕いた小さなカケラが溶けると、柑橘系の果物の香りが鼻に抜けて酸味の効いた甘味が口に広がる。
ふと、そういえばあの毛玉には歯があっただろうかと考える。丸い斑らの毛並には、金色の小さな目しか見て取れない。
視察団の報告を聞きながら、色とりどりの綺麗な飴玉を手に取った。頭に浮かんだのは、この大きさならば毛玉でも口に入るだろうかということだった。
「ふ……」
自然に口から息が漏れた。それは自分で思っていたよりも、笑いに近いものになった。
最近ようやく毛玉は、逃げずに近くで食べるようになった。コロコロと用心深く転がって来て、急いで食べて、なぜか身体を一度前に傾げる。その様子が、まるで礼を言っているようでとても可愛らしい。
傾げると、頭の花がゆらゆら揺れる。
「ぷっ……!」
今度は、はっきりと口角が上がった。
あの花は、自分を飾っているつもりなのだろうか。それとも、偶然刺さってしまったものなのか。
「その割には安定しているし、枯れる様子もない……。あっ……!」
動物に寄生する植物や、植物に擬態した寄生昆虫の可能性に思いあたる。そんなものが頭に寄生していては、良くないことになる。
急に心配になり、ヒューゴは馬の腹を蹴って駆け足を促した。
泉へと到着し辺りを見回し毛玉を探す。夕方にこの泉に来ると、会えることが多い。最初は偶然かと思ったが、そうではない。毛玉はヒューゴを待っている。
いや……。ヒューゴの持ってくる食べ物を待っているのだろうが、それでも嬉しかった。打算という点では、ヒューゴの周りにいる人間と変わらない。なのに、毛玉が待っていてくれることで、なぜかヒューゴの胸に温かいものが湧いて来る。
いつも毛玉が潜んでいる茂みをかき分ける。大きな木の根元や岩の後ろを探す。まだ来ていないのだろうか?
「っ、…………」
ヒューゴは毛玉を呼ぼうとして、そういえばまだ名前を考えていなかったことに気づく。そんな、失敗とも後悔とも呼べないほどの小さなわだかまりが、不安となってヒューゴを急かす。
「おーい、おーい」
仕方なしで適当に呼びかけてみるが反応はない。ヒューッと指笛を鳴らしてみる。普段なら居れば何となく気配を感じるのだが、今日はそれがない。
嫌な予感がする。泉を中心にして捜索の範囲を拡げた。
毛玉は泉から少し離れた茂みに居た。普段はふくふくと丸いのに、へにょりと潰れて見える。驚かさないようにそっと手の上に乗せると、小刻みに震えていてヒューヒューと息の音がする。
「おい……! どうした? どこか痛いのか!」
腹が減っているのか、何かの病気なのか、それとも頭の花がヤバイのか。まるでわからない。
「顔色……毛だな……」
「脈を……速すぎて判断がつかん」
動物は具合が悪いと鼻が乾く筈だと思い出し、毛を掻き分けてみたが鼻が見つからない。目を閉じているせいで、裏も表もわからない。
そっとひっくり返してみたり、こわごわとさすったりしているうちに、指に赤いものが付いた。その部分が腫れ上がって熱を持っている。
ヒューゴは馬の物入れから、上等の手拭い布を出してそっと毛玉を包んだ。シャツのボタンをいくつか外し、胸元へと滑り込ませる。夏だが、震えているなら温めた方が良いだろう。
急いで馬に飛び乗り走り出す。服の上から手を添えて温もりを確認する。小さい生き物は少しの出血ですぐに死んでしまう。
城で馬などを診てくれている、獣医師の家を目指す。森の生き物の研究家とどちらを頼るか悩んだが、いくら正体不明の毛玉でも具合が悪いならば獣医師が正解だ。
獣医師が森から比較的近い街の外れに診察所を構えていることも今は都合が良い。
(咬み傷から感染する伝染病があった筈だ。城へは連れて行かない方が良いだろう)
ヒューゴははやる気持ちを抑えて、獣医師の診療所のドアを叩いた。