第六話 毛玉の心が開くまで
ちょっと遡って、ミーヤと陛下の最初の遭遇から、少し距離が縮まりはじめた頃のお話です。
木漏れ日の射す深い森の獣道を、注意深く横切る。目的の餌場へと続くこの道を、ミーヤは目印にはするが使うことはない。大きな生きものに遭ってしまう確率がとても高いからだ。
肉食の生物はもちろんとして、ミーヤを食べようとしない草食の生きものでも、踏み潰されたり蹴られたりする危険がある。大きな動物は、足元には意外に無神経だったりするのだ。
『危険な場所には極力近づかない』
『何はなくとも一目散に逃げる』
ほんの子毛玉の頃から、ミーヤはそれを絶対的な生存戦略として生きてきた。月にほんの二、三日ではあるが、洗濯下女として城に上がるようになった今も、基本的な方針は変わっていない。
だからこそ、ミーヤが皇帝陛下に慣れるまでにはそれなりの時間と、ミーヤなりの葛藤が伴った。何しろ陛下は眼光鋭く、放つ強者のオーラも半端ないのだ。洗濯下女としても、毛玉としても、関わり合いになりたくない存在の筆頭のように見えた。
そもそも初めて森で遭った時は、遊びで握り潰されると思ったのだ。陛下は戦場で人を切り捨てる時にだけ笑うと、洗濯場で噂になっていた。
人間の姿で遠くから眺めた時は『なんてカッコイイ人なんだろう!』と眼福さで手を合わせたくなったミーヤだが、毛玉で会ってみると強者のオーラが嵐のように吹き荒れる、災害のような存在だった。
(逃げたらきっと、もっと面白がられてしまう!)
オモチャのように弄ばれて、甚振られて死ぬのは嫌だった。それに陛下があの恐ろしく美しい顔で、残忍な笑みを浮かべて追いかけて来るのを想像したら、ミーヤはちょっとチビってしまった。
陛下は大変整ったその不機嫌そうな顔のまま、ミーヤの目の前にそっと大きな手を差し出した。ミーヤは心臓が跳ね上がるほど驚いて、そのままコロンと気絶してしまった。
気がつくと、ミーヤは木の根の間に寝かされていた。身体の上にはツルツルした絹のハンカチが掛けてあり、その上から葉っぱがミーヤを隠すように被せられていた。そして頭の脇には、綺麗な色紙に包まれた小さなチョコレートが置いてあった。
初めて食べたチョコレートは、ほっぺたがキュウッと痛くなるほど甘くて素敵な味だった。ミーヤはまん丸い自分の身体のどこが頬なのか、その時初めて自覚した。
その晩ミーヤは、甘くて優しい味を何度も反芻しながら眠った。毒が仕込まれている可能性も少しだけ心配だったけれど、朝になっても苦しくなったり、お腹が痛くなったりしなかった。
陛下は次の日も森に来た。ミーヤが咄嗟に隠れた茂みに、なぜか迷わずに真っ直ぐ歩いて来て、また『ち、ち、ち……』と舌を鳴らした。
ミーヤは息を詰めて最大限に気配を殺した。森には甘い匂いで生きものを誘き寄せる恐ろしい植物も多い。昨日のあの素敵な食べ物も、ミーヤを捕まえるための罠かも知れないと思ったのだ。
しばらくして、動いたのは陛下の方だった。
昨日とは違う色の、綺麗な色紙の上に何かを置いてその場を離れる。どうやら、ローストしたナッツ類のようだ。香ばしい匂いがミーヤの鼻をくすぐった。
(いい匂い! きっとアレも、昨日のアレと同じくらい素敵な食べ物だ!)
茂みからフラフラと出てしまいそうになるのを、必死に耐える。陛下は少し離れた木の下に腰を下ろした。
ジリジリとした時間が流れる。陛下とのナッツの距離は、ミーヤとナッツの距離のおよそ三倍程度。ミーヤは急いで頭の中で計算をした。
『見つからないように転がって行って、色紙ごとアレを咥えて全速力で跳ねて逃げる』
可能だろうか? 陛下の速度が未知数だ。馬に乗っているのと、歩いているところしか見たことがない。
(でもきっと、灰色狼よりは速くない。だって足が二本しかないし)
ミーヤはまん丸い毛玉なので、縦横無尽に跳ねる方向を変えることが出来る。気づかれても、陛下の予測を裏切った方向に逃げれば良い。
あの足は長過ぎるから、きっとバランスが悪いに違いない。
(イケる!)
この時が、ミーヤの生存戦略が食欲に負けた瞬間だった。
ミーヤは陛下が下を向いたタイミングで、そろそろと茂みを出た。気配を消してコロコロと転がる。静かに移動したい時は、跳ねるより転がる方が都合が良いのだ。
ちなみに、この転がった体勢からも、ミーヤは全速力で跳ねる動作へと繋げられる。『逃げる』へと躊躇いなくリソースを全振りしたようなミーヤ。もちろん攻撃力はゼロだ。
コロコロと転がりながら、陛下の様子を盗み見る。陛下は目を閉じて寝ているっぽいのに、なぜか肩が小刻みに震えていた。
(もしかして、具合が悪いのかな?)
ミーヤは少し心配になった。陛下は毛玉にとっては危険な大型動物だけれど、洗濯下女たちにとっては大事な雇用主なのだ。陛下に何かあって洗濯の仕事がなくなってしまったら、困るのはミーヤだけではない。
実際には、陛下は笑いを必死で堪えていただけだ。人前では、決して弱みを見せないと決めているこの男が、小さな毛玉が餌に釣られて、コロコロ転がって来るのを見て、たまらずに肩を震わせている。
なぜか昨日から、この毛玉が気になって仕方なかった。チョンチョンと跳ねる姿が面白い。どちらが裏か表かわからないのも興味深い。コロリと転がった時は、死んでしまったかと思い、大慌てで抱き上げた。
小さな丸い身体に耳をつけると、トットットッと信じられないくらい速いリズムで心臓の音がした。暖かく微妙に弾力のある身体、ふわふわと手触りの良い斑らの毛並み。手の中に収まる命は、怖いほどにいたいけだった。
どうやら自分の動作に驚いたために意識を失ってしまったらしいので、連れ帰ることは憚られた。仕方なく他の動物に見つからないように隠して帰ったが、城に着いてからもそわそわと落ち着かない。全く見たことのない生物だったことも気になった。
書斎で図鑑を開いたり、森の生物の生態に詳しい学者を呼んで質問したりしたが、毛玉のことは何ひとつわからなかった。新種の生きものだろうか?
『意識を失うほどに驚いて、大丈夫だっただろうか?』
『どんな食べ物が好きなのだろう』
『どうやって接すれば、驚かせないですむだろう』
そんなことを考えているうちに夜が明けた。そうしてポケットに寝酒のつまみのナッツを放り込み、朝陽が昇りきる前に再び森へと向かったのだった。
* * *
ミーヤは目的の場所までコロコロと移動して、色紙ごと『素敵な食べ物』をパクリと口に咥えると、瞬時に最速モードへと切り替えて、一目散に巣穴へと逃げ帰った。
思った通り、香ばしい匂いのするナッツはとても素敵な食べ物だった。油分が多く、噛んでいると甘みが増して、もりもり力が湧いて来る。ミーヤは三粒のナッツを三回に分けて、大事に大事に味わった。
それからミーヤは一日一回、陛下と初めて会った泉へと行くようになった。陛下と会うこともあるし、色紙の上に食べ物が置いてあることもあるし、何もないこともあった。
ミーヤのお城の壁よりも高い警戒心は、甘いものと塩っぱいもののコンボで、徐々に緩んでいった。
陛下のオーラは身体が動かなくなるほどに恐ろしい。一度飛んでいる鳥が落ちて来たことがあるほどだ。
けれど、そのオーラが時折りふっと緩んで、春の日差しのようにポヤポヤと暖かくなったりする。そんな時にはミーヤも、逃げ出さずにその場でお土産を食べた。
ミーヤはだんだんと、陛下を怖いと感じなくなっていった。そして春の日差しのオーラを、もっと近くで感じたいと少しだけ思うようになった。
でもいったいなぜ、陛下は食べ物をくれるのだろう? ミーヤは不思議ではあった。
(太らせてから食べるつもりなのかな?)
ミーヤは自分で言うのもなんだけれど、あまり美味しそうなタイプの生き物ではない。
それに、お城にはたくさんの美味しいものが溢れていることをミーヤは知っている。多少可食部分が増えたとしても、厨房の料理長が作るご馳走に勝てるとはとても思えない。
じゃあ、なんで?
それはきっと仲良くなりたいからだよと、元小学生女子の美弥が答える。
この国で一番偉い人が、なぜ森の毛玉と仲良くなりたいの?
それはきっとミーヤが、取るに足りない生きものだから。弱くて小さいくせに、生き抜くことに貪欲で、生きることに疑問を持たないから。
五年もの間戦場で、同族を屠って、屠って、屠り続けた。やがて屠ることに心が動かなくなってしまった陛下には、毛玉のミーヤが命の塊に見えたのだ。
皇帝陛下は、ひたすらに命を愛することを渇望していた。




