第56話 日向と、月乃と/二つの道/迷い
「日向さんは、悠人が好きなんだよ。家族じゃなくて、一人の女の子として」
まるで、世界が静止したみたいだった。
けれど、永遠に続くと思われた沈黙は本当は一瞬で。月乃の静かな声音が静寂を破る。
「悠人は覚えてる? わたしが日向さんに、悠人に告白した、って話した夜のこと」
忘れるはずがない。あれは俺が日向をデートに誘った日のことだ。
月乃が俺のことを好きと知って、日向は明らかに狼狽していた。
「もしかして、って思ったのはあの時から。疑念は少しずつ大きくなってたんだけど、確信したのはついさっき。わたしが『聖夜の告白』に参加しなくてほっとした日向さんを見て確信したの。あ、日向さんにとって悠人は家族以上の存在なんだ、って」
月乃の言葉を、俺は否定しない。否定することが出来ない。
「だから、今はまだ悠人と付き合えない、って思ったの。悠人に恋人が出来れば、きっと日向さんはとても悲しむはずだから。そんなの、絶対にいやだから」
「……日向が、俺を?」
「悠人は日向さんの気持ち、ちっとも分からなかった?」
それは――気づいていない、なんて言えば、これ以上の嘘はない。
ただ、俺も日向も傷つかないように、気づかないふりをしていただけだ。
きっかけは、最初で最後と約束した日向とのデートだ。日向は、俺が小さな頃に一度だけ出会った少女、ユキちゃんだった――そう確信した時から俺の中で、もしかして、という疑念が浮かぶようになった。
もしかして日向は、ずっと俺のことを覚えてくれていたんじゃないか。
今までより日向のことを意識するようになったのは、それからだ。
たとえば、朝食の時に偶然手が重なったり。
たとえば、一緒に映画を見ようと誘われたり。
たとえば、恋人みたいに手を繋いだり。
そんな瞬間、俺は日向にとって家族以上の存在なのかもしれない、なんて考えが頭をよぎった。
だからこそ、俺と一緒に暮らすために他人同士ではなくて、家族として生きる道を選んだのでは――なのに、必死で気づかないふりをしただけだ。
もし気づいてしまえば、俺と日向は今までみたいな家族でいられないから。
「悠人は、今の関係を変えたいって言った。でも、そのためには日向さんの気持ちから目を逸らしちゃいけないから。だから、悠人には知ってて欲しかったの」
「…………………」
大馬鹿野郎だ、俺は。
今の関係を変えたいなんて言って、現実から目を逸らしてたのは、俺じゃないか。
「だから、わたしは悠人と付き合えない。もし悠人に恋人が出来たら、日向さんは家族として暮らせなくなるくらい、傷つくと思うから」
「……どうして、月乃に言いきれるんだよ」
「分かるよ、日向さんの気持ちくらい。だって、わたしも同じだから――日向さんみたいに、悠人に叶わない恋をしてたから」
星屑のような神秘的な瞳が、今にも何かが零れそうなくらい揺れている。
「悠人のことが好きで仕方なかったけど、悠人は日向さんに初恋をしてて。二人が付き合ったらって想像して、何度も眠れない夜を過ごしてた。もし悠人と日向さんが恋人同士になってたら、わたしは悠人と今までみたいな幼馴染じゃいられなかったと思う」
それは、俺にずっと片思いをしていた月乃だからこそ、重い言葉だった。
多分、日向の感情を誰よりも理解しているのは、月乃だ。
「きっと、悠人は正しいんだと思う。今のままだと、わたしも日向さんも少しずつ傷ついていくだけだから、いつか変えなきゃいけない。だけど、わたしはこのままが一番良いって思ってたの。そうすれば、誰も悠人を奪わずに済むから」
吐息がかかりそうなくらいの距離で、月乃が俺を見つめる。
「悠人が選ぶ道は、二つに一つだけ――悠人に選べる?」
「――俺、は」
俺は、どちらの少女を選ぶべきなんだろう。
日向のことは――好きだ。
だって、初恋だったから。日向に片思いをした気持ちは今でも色褪せてなくて、その感情を偽ることは俺には出来ない。それでも、恋人になることは諦めて家族として隣にいようって決めた。
でも、日向が俺を好きだと言ってくれるなら――決意が揺らぐのが、自分でも分かる。
じゃあ、日向のために月乃と付き合うことを諦めるか。
今までみたいな幼馴染同士なら、それでも良かったかもしれない。だけど、俺は知ってしまった。
月乃が、ずっと俺に片思いをしていたということを。
月乃が、初恋を忘れられない俺をそれでも想ってくれるくらい、一途だということを。
ああ、そうだ。今さら月乃と付き合わないなんて、そんなの無理に決まってる。
だって俺は、日向と同じくらい月乃のことが――好きになっているんだから。
「……ごめんね。悠人には、残酷な選択だよね」
そっと、月乃が俺の身体を押す。ほんの小さな力で後ずさってしまうくらい、俺の頭は真っ白になっていた。
「わたしは悠人と付き合いたい、だけど日向さんを傷つけたくもない。だから、どちらかを選んで欲しい、なんてわたしには言えない。……だから、ね?」
月乃の部屋を出た俺に、月乃はどこか悲しそうな目で告げた。
「今はまだ、幼馴染のままでいよう? わたしのために、日向さんのために。それに何よりも、悠人のために」
「っ、月乃……っ!」
月乃が俺を拒絶するように扉を閉め、差し伸ばした手は空を切る。俺はただ一人、痛いくらいの静寂の中に取り残された。
二つしかない選択肢を、選ぶことが出来るか――そう月乃に問われて、俺は答えることが出来なかった。
俺には、誰かを傷つける道を選ぶことなんて出来ないから。
それは、俺の理想と矛盾する行為だ。母さんみたいに全ての人を笑顔に出来る人になりたい。それだけを目指していた俺に、どうして日向か月乃を苦しめる道を選ぶことが出来る?
こんなに俺は、弱い人間だったのか。
俺は、どうすればいいんだ――いや、違う。そうじゃない。
「……どうしたいんだよ、俺は」
自分のモノとは思えないほど、小さく力の無い声。
俺は、日向と月乃の隣にいる資格なんてないのかもしれない。




