第38話 月の天使と、俺と
俺の高校には、『月の天使』がいる。
……いや、もちろん天使っていうのは比喩で、ホンモノじゃないんだけど。
「なあ。月乃先輩、何読んでるんだろうなぁ」
「んー……やっぱ、純文学、とか?」
放課後の、生徒会室。書記の席で集会が始まるのを待っていると、そんな後輩二人組の会話が聞こえた。
後輩たちが見つめる先にいるのは、一人の少女。
小夜月乃――俺の幼馴染、だった。
「………………」
月乃は一人、静かに文庫本に目を落としていた。
その表情には感情なんて一切なく、神秘的な瞳が見つめるのは紙の本だけ。時折風にカーテンがふわりと舞って、夕陽が月乃の綺麗な髪をきらきらと輝かせた。
なるほど。まるで海外の名画のような、幻想的な光景だった。
「確かに月乃先輩ってそういう難しい本とか読んでそうだもんなぁ。ドストエフスキーとか、そういう高尚なやつ。いや待てよ、もしかして詩集って可能性も……?」
「そんなに気になるなら本人に聞いてみればいいじゃん」
「バカ野郎! なんて畏れ多いこと言うんだよ。月乃先輩はな、俺みたいな俗物が話しかけていいお人じゃないんだよ」
いつから月乃はそんなお嬢様みたいな立場に……?
けど、後輩の言いたいことも分かる。月乃は無表情で無口だから、近寄りがたい印象を与えてしまうんだろう。小さい頃から一緒にいたから、よく知ってる。
「俺は月乃先輩と仲良くなれなくてもいーの。こうして素晴らしい光景を眺めさせてもらえるだけで、俺にはもったいないくらいの幸せなんだから」
「まるで信者みたいなこと言い出したな……」
「そりゃそうだろ。なんてたって、相手は天使様なんだから。あー今日も可愛いなー……」
まるで別世界の存在と思えるくらい、神秘的な少女。
それが月乃という少女であり、『月の天使』、だった。
◇
その月乃が、だ。
たった今、風呂上がりのパジャマ姿で、髪の手入れをされながら読書をしていた。
ちなみに、手入れをしているのは、俺だ。
「嫌だったら正直に言ってくれよ。女の子のヘアケアなんて、よく分かんないんだから」
「別に良いよ? 悠人がしてくれるなら、ちょっとくらい変になっても気にしないから」
何故俺が月乃の髪にブラシを通しているのか、発端はほんの数分前。
いつものように月乃の夕飯を用意し終えた時、読書をしている月乃の髪が微かに濡れていることに気づいた。
もちろん、言った。せめてドライヤーくらいした方が良いって。
けれど、月乃は本を閉じようとしなかった。髪を乾かす時間が惜しいくらい、本の続きが読みたいらしい。
そして甘えるような表情で俺に言った。
――ね、悠人。お願いがあるんだけど……わたしの髪の手入れ、して欲しいの。
そして今に至る、だ。
「髪の手入れなんてすぐに終わるんだから、その後に本でも読めばいいのに。宿題を急かされてる小学生じゃないんだから」
「だって、続きが気になるから。それとも悠人、わたしの髪のお手入れ、迷惑だった?」
「いや、全然。月乃の髪が痛む方がよっぽど嫌だな」
それに、誰でもない月乃のお願いだ。俺にはきっと叶える義務があるんだろうな。
月乃のどんなお願いでも叶える。そう、約束したんだから。
ドライヤーを当てながらブラシを髪に通すと、さらさらと綺麗に流れる。風呂上がりだからか、仄かな良い香りがした。
きっと、生徒会のみんなは知らないだろうな。ミステリアスな月の天使様が、実は幼馴染に髪の手入れをされるくらい生活能力がない、だなんて。
「けど、月乃がこんなに熱中するなんてな。何を読んでるんだ?」
「サン=テグジュペリの『星の王子さま』。おもしろいよ?」
後輩よ、月乃が読んでるのは純文学でも詩集でもなく、児童文学だったぞ。
って、待てよ。『星の王子さま』?
「それって、中学生の頃に読んだとか言ってなかったっけ? 何度も読み直してるのか?」
「今は別の出版社の本で読んでる。出版社が違うと翻訳も違うから、読んだ時の印象が全然違うの。だからすごく楽しいよ?」
「はー。すごいこだわりだな」
「わたしって、一度好きになるとずっと夢中になっちゃう性格なんだよ? だって――」
そして、月乃は天使のような微笑みを浮かべた。
「悠人のことだって、ずっと前から好きだったんだもん。もちろん、今でも、だよ?」
「…………そ、そっか」
ずるい、と思う。いきなり、好き、なんて単語を口にするなんて。
月乃の一途さなら、俺だって十分に理解してる。
だって、一ヶ月前。
俺は、一〇年以上も一緒にいた幼馴染の月乃から、告白されたんだから。
けれど、そこは色々と複雑な事情があって。今はまだ、幼馴染以上恋人未満、みたいな距離感になっていた。
思えば、俺と月乃の関係も少しだけ変わったな。
こうして何の緊張感もなく月乃の髪を梳かすのは、幼馴染だからこそだ。今更、羞恥や照れなんてない。
だけど、たった今。好きと言われて恥ずかしさを覚えてしまったのは――月乃を、一人の少女として見てるから、なんだろうな。
「……ああ、そうだ」
そこで、ふと思い出す。俺は、月乃とある約束をしているんだった。
今まで俺と月乃はお隣さんで、幼馴染って関係だった。
だけど、月乃が俺を好きだって言うのなら。
きっと俺も、湊悠人として、月乃の気持ちに向き合わなきゃいけないから。
「……? 悠人、どうしたの?」
「あのさ、月乃。今度の日曜日だけど、俺と――」
そして、俺はある提案を口にして。月乃は驚いたように、目をぱっちりと開けるのだった。
2章の投稿を始めました
ただ、1章の時は全文書いてから投稿してたのですが、今回は区切りがついたところまで投稿してるので投稿頻度は落ちますのでよろしくお願いしますm(_ _)m