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サンソンくん  river 編  作者: ハクノチチ
27/27

あっか

 ーあっかー


 スーパーの歩道レーン上でバギーを止めていた若い母親はいつまでも風船を、いや空を見上げていたくはなかったので歩きはじめました。すると庇の脇からずっと空を、いや風船を見上げている息子は小さくて短い足をばたつかせ動き出すことに抗議しました。バギーごと揺れるなかなか激しいものでした。そこで若い母親はさすがに腹を立てました。

 「あんた自分で手を離しちゃったんでしょ」

 二歩進んだだけの若い母親はバギーの横にしゃがみました。

 「こっちを見なさい」何やら息切れまでしていた息子の紅潮した柔らかな頬を両手で挟みました。言葉を覚え始めていた息子は、しかし無言のまま相変わらず上を見上げていました。

 「……なら降りて、ここで待ってて」若い母親は、水平なつばの黒い野球帽を軽く被り直して溜息をすると息子に絞めていたバギーの腰ベルトのバックルをカチッ、と外しました。

 解放され、ずり落ちるようにして降りた息子は母親の手を握り空を見上げ続けました。それにしても子供の爪は本当に健気なものでした。

 「……帰りにもう一度もらってあげるから、もう行こうよ。パパの焼き鳥が焦げちゃうよ」

 腹が立っても最愛である我が子にスルーされると、なんてつまらない冗談を言ってしまったんだろう、と母親は恥ずかしくなりました。

 そして一呼吸おいて息子を抱き上げたとき彼は微笑みました。若い母親は色の抜け始めた柔らかい頬にキスしました。息子は手を叩いて喜んだので母親も微笑みました。単に甘えていただけだったのに、腹を立ててごめんね、と心の中で謝りました。

 「あっか」

 息子は右手の可愛い小さな人差指を空に向け、いや風船に向けて指しました。

 母親は怪訝な顔をして夕焼けの西の空を見上げました。

 空に昇った小さな白い点はどうしてか赤い点になっていて更に上昇し、やがて見えなくなりました。

 夕焼けの反射だろうか? そう思い、もう一度「赤い風船」が見えなくなった空を見やると、今度はいつか友達と見た、キラキラ光る細長い線が流れていました。若い母親は、銃声を聞くくらいの驚きに息を止めました。


 私の全ての幸運をあなたたちへ……


 湾岸の冷凍庫で働いている夫と自分の腕の中ですでに満足している息子と、そして歳を止めて久しい友達へ心の底から願いました。



 スマホで調べてみたところ緊急事態が宣言されたのは3月13日で、解除されたのは5月25日だった。ぼくは宣言期間中の約二カ月はもとより、それ以前からいわゆる不要不急の外出は控えていて通勤も自転車なので電車、バスの利用は全くなく過ごしていた。

テレビに映る統計グラフが第一波の山を下り切り束の間、するすると再び上り始めたことで外出するチャンスは今土俵際にあるのかもしれないと思い、花粉症以外ではほぼほぼ「マスクのない世界」だったときに、ちょくちょく会っていた友人へ連絡して久しぶりの再会を約束した。もちろんぼくはマスクをして電車に乗った。それが7月4日だった。

過度な人込みを気にして普段会っていたのとは違う街で駅を降り、お茶をする店も何軒か決めかね(二人連れという理由で断られた店もあった)最終的にはまた駅前へ戻り、某チェーン店の空いていた外の席に腰を下ろすこととなった。久しぶりの友人とマスク越しにモゴモゴと聞き取りにくいままお互い勝手に喋っていると、目の前を知っているはずの誰かが通りかかりぼくは相手のモゴモゴになんて全く集中できなくなってしまった。

今、娘みたいな女の人に身体を支えられながら杖まで突いていたおばあさんは誰だ?


Mrsシマはコラージュ作品を主とする作家さんだ。以前していた配達の仕事で知り合った彼女とはもう十年ほど会ってはいなかった。ぼくがその仕事を辞めるとき彼女は「書き続けないさ」と言ってくれた。「私だってこの歳になってもまだ続けているんだから」彼女は真っ直ぐな腰に手を当てて誇らしげだった。実際に創作を続けている(母親ほど)年上の人からのその言葉はまるっきりの実弾だった。


信号を渡る直前の彼女たちへ、ぼくは声を掛けた。彼女たちもぼくのことを覚えていてくれた。

二年前に大病を患らったらしく、でも創作活動は続けていて「今度個展でも開こうと、そこのギャラリーへ予約しにきたの」と言った。「・・・半年ぶりの電車に乗ってね」マスク越しだったけれどモゴモゴとは聞こえなかった。シンクロニシティからの、二発目の実弾だったわけだ。

「ぼくも一応はまだ書いています」それは本当のことだったからそう伝えた。


息子も高校生となり、その分歳を取ったぼくはもう二度と投稿する気はなかったのだけれど(空から拾ってきて胸の内で仕上げた)自分の作品は<部屋>から外へ持ち出すことをしごく当たり前じゃない?と問いかけたMrsシマに感化され、この度の投稿とあいなりました。


ポツリポツリと痕跡を残してくれている誰かがいる、そんな読者レス街道を歩き終わるとどこか脱稿時に似た清々しさがあります。


この物語をMrsシマに捧げます。


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