半透明で中が見えないバインダー
ー半透明で中が見えないバインダーー
三人は崖の頂上にある掘っ建て小屋で輪郭のはっきりする二人の男に出迎えられてから石の階段を下り「トマリギ」の待合室に通され、そこで二人の言い合いは再開しました。二人は互いを罵り合いました。群発地震のような間隔を空けて再びの睨み合いもしました。赤ちゃんはスヤスヤ寝ていました。女の子はずっと黙っていました。でも女の子はこう思っていました。結局どちらも迷っているように見える。言葉は厳しく激しい罵倒合戦であり、女同士尊厳などあったもんじゃないけれど、彼女たちの「気」は確かに逸れているようだ。おそらく母親は自分が選ぶことになるだろう夫の人生の選択肢に、一方老婆はいずれにしろ何が自分にとって一番大切なのか?ということを……
二人の男たちは、二人の女が汚い言葉で喚き合う姿を黙って見守りました。老婆が有する正当な権利は誰であれ、どんな言葉でさえ侵すことは出来ず、若い女の嘆願や主張には感情移入せざるを得ません。しかし老婆がもっとも吠えるときに主張する死ぬに死ねない理由にはこちらが叫びたくなるほど愕然とし、若い女が泣き叫ぶときの後悔には殴ってやりたいほどの虚しさを禁じ得ませんでした。
そしてそのうち赤いプラネッツが部屋にやってきましたが、今は外に連れ出されてしまいまた……
待合室に充満していた、かなりデリケートだった気化燃料の概要を聞かされた小さな彼は、平たい岩場で「ヒカリエ」の表面を見下ろしながら、いまさら思えば恥ずかしいくらいの過信と失言に気落ちしました。それでも不思議な気持ちも抱いていました。そんな小さな彼が、初めに鳥を見つけました。
もこもこした雲海のような景色の一か所が黒い点によって破られるのが遠くに見えたのです。
「ねぇ、あそこっ」小さな彼は隣に座る背の低い男の顔を見上げました。
男は上着のポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を確認すると、遠くへ目を細めました。
「そうだね、あれだ。鳥が戻ってきた。還る人はあいつに乗るんだ。だから君も乗るんだよ」
隣に座る男は立ち上がりました。
「戻ってきたことをみんなに知らせなくっちゃね」
「なんであのおばあさんは赤ちゃんに当り札をあげないんだろう?」
「まぁな……」
「このまま死んじゃうと地獄に落ちちゃうからかな?」
「勝手に地獄へ落としたらダメだよ」
男はクスクス笑いながら、札を持っているのが今の自分だったらどうするだろうか?と考えました。そして待合室の扉を開ける前に出した答えは、しかしいくらか懐疑的な気がします。答えというよりも自らへの願望だったからかもしれません……
「戻ってきました。さぁ還る用意をしましょう」背の高い男は扉が開いただけで察しました。
部屋の中の静けさはこれまでとは桁の違う厚みを増しました。無用な願いでしたが部屋に入ってきた背の低い男はこの膨張した静寂さに赤ん坊が目を覚まさなければいいのだが、とつい思ってしまいました。誰も立ち上がらず、誰もが互いに目を合わせません。
背の高い男は半透明で中が見えないバインダーに挟んである書類を手にしました。「鳥使い」に渡す書類です。還る者たちの名前も歳も簡単な経歴もそこには記されていましたが、彼らは目を通してはなりません。それは戻る時間と場所を計算する「ヒカリエ」の専門職員と「鳥使い」にだけ許されていたからです。
突然、これまで一言も発していなかった少女が「はい」と手を挙げました。濃密な静寂に亀裂が走った部屋の中の者たちは全員驚きました。背の高い男はバインダーを落としてしまうほどでした。
少女はバインダーを拾う、背をかがめた背の高い男の背中に微笑みました。
「あの世」でも「この世」でも少女ってやつの微笑みはいつだって一輪挿しの花だな、と背の低い男は思いました。
老婆は眉間に皺を寄せました。若い母親は他人の少女の微笑みよりも我が子の寝顔の方がどれだけ愛しかったことでしょう……
「私の代わりに赤ちゃんと戻ってください」
少女は小学校の放課後の教室に灯っていた蛍光灯の白さを思い出し、中学校の保健室にあった日中の明るさと静けさと、休み時間になると校内が騒がしくなりどこか焦燥感を持ったことを思い出しました。自分の部屋のベッドの寝心地や復讐へ向けて鍛錬する目的で参加した大人同士の凶暴で稚拙な罵り合いや、全戦全勝した子供同士の罵り合いは一切思い出しませんでした。そして父親の捨て台詞と母親の告解も思い出しませんでした。
「……」老婆は目を閉じました。
「……」若い母親は寝ている赤ちゃんの頭にキスをしました。
背の高い男は手が震えてバインダーを上手く拾えませんでした。
背の低い男は「あの世」で握りしめた少女の首の細さを思い出してしまい、泣き崩れてしまいました……
「ねぇ、あんた幾つだい?」老婆は目を開けると下から見上げました。
「13です」
「そうかい」老婆は再び目を閉じました。
「ありがとう。でも平気よ。この優しいおばあさんが残ってくれるから」若い母親は少女に微笑みました。
「私は自分で来たから、戻らなくていいんです。もっと早く言い出せばよかったのに間際になってしまってごめんなさい」
「鳥が来たよっ!!」小さな彼は平たい岩場から大きな声を出しましたが、誰にも聞こえませんでした。
黒光りする鳥はミニバンくらいの大きさで、音もなく滑空する翼は片翼がバスほどありました。鳥が目の前まで来ると小さな彼は地面に伏せ、岩場にしがみ付きました。平たい岩場の手前で二度三度羽ばたいた三本足の黒い鳥は着地しました。
羽よりも黒くはないくちばしはスクーターくらいでしょうか?そんな鳥は金属バットくらいの十二本の趾で、二畳ほどの籐の籠を掴んでいて黄色く丸い目には確かな感情と他者の感情を読み取れる理解力が備わっているようでした。小さな彼に一瞥した鳥は自身が運んできた籠からぴょん、と飛び降ります。首に跨り口を開けたまま凝視する、カーキ色の汚い飛行服を着る頭の禿げた小人の年寄が「鳥使い」でした。禿げ頭に古いゴーグルを持ち上げて鳥の尾から降りてきた小人は、なんだお前は?と言いました。
「ぼくは太陽の妖精、サンソンだよ」小さな彼は鳥の身体に触れてみました。それはとても滑らかで、光の角度によっては青黒く見えました。