本当に彼女には分からなかったし、今でも分からない
若い母親は空を見上げることが好きではなかった。いや嫌いだったと言える。
自分もまだ、たとえば友達と下校するときに手を叩いて笑っていた中学生のころ、一番仲の良かった友達と二人、緑豊かな山並みを背景にした夕方の西の空に髪の毛くらいの細さでキラキラ光る長い一本の筋を見たことがあった。当時暮らしていた、最寄りの駅前が再開発され出来た商業施設の二階テラスで、座り心地のいい木製ベンチに二人で座っていた友達は紙コップのジュースをひっくり返して立ち上がると、十代らしい黄色く大きな声を出したものだ。
「おい、マジかっ!!蜘蛛の糸だぞっ!!」
周りにいた沢山の人たちは一斉に空を見上げたのだった。何人かは陽に染まり始めた山並の一角に人差指を向け、自分の連れや近くで騒ぐ子供やらに示した。それでも西の空を揺れながら流れる細長い光の反射を見つけられた者は限られていた。思わず友達の手を握り、食い入るように見ていた彼女には、あれほどはっきり見えていたモノを見つけられないその理由は分からなかった。
そしてまた、半年後に恐ろしく動揺した学校の教師や、一晩二晩の間に魂まで枯れ果てた友達の母親から、親友として当然尋ねられたのだったが、本当に彼女には分からなかったし、今でも分からない。
以来若い母親は、制服姿で笑う女の子はもとより、そもそも蜘蛛は(おそらく生まれた瞬間から)嫌いだったが、空を見上げることをしなくなってしまった。雨が降ろうが上がろうが、月が出ていようがいまいが昼夜分け隔てなく空を見上げることはなかった。彼女は美しい山並みに囲まれる地元が好きではなくなってしまい、空が嫌いになった。言うまでもなく夕暮れ時の西の空は一番嫌いだった。
テラスのベンチで友達は言ったものだ。
「あの蜘蛛の糸に幸運があったらさ、全部私にくれる?」
彼女は冗談だと思ったので断ってしまった。
「そんな自分勝手なこと言ってたら、あんたの取り分も私にきちゃうわよ。そういう人の運って、たぶん返せないはずなんだから」
立ったままの二人は西の空を見ながら、互いに嫌われ口を言い合い繋いでいた手を離すと相手の肩や自分の手を叩いて笑っていた・・・