先ずはスマホを投げ捨てた #2
ー先ずはスマホを投げ捨てた #2ー
中学に入り格安スマホを持たされると、皮膚を擦り続けている何かしらの雰囲気が常態化していたそのことを確かめるべくLINEの輪に加わった・・・誰もが辟易する明るい地獄の中で「ハツコ」と呼ばれ、袋叩きにあっていた者が自分だと知ったとき一瞬にして頭皮が固く引きつる感覚を味わった彼女は私も中学受験をするべきだった、といまさら後悔した。
「ハツコ」の意味を知ると、どんなことにも手を挙げなくなり、無言の抗議をするつもりでもなかったのだが口を開くこともなく迷ったまま、誰にも相談せずにLINEを抜けた。翌日、LINEの中の世界が教室の中に持ち込まれてしまった。スマホを持っていない者が誰もいなかったことで、誰からも孤立した彼女は自分の立ち位置を親にも教師にも言えなかった。親は全く知らない風だったが、国語教師の担任は明らかに知らない振りをした。中学一年の夏休みは、休みが始まる前から8月31日の夜のことだけを考えなければならなかった。
二学期が始まっても彼女は生き延びた。彼女は保健室で生き続けたのだ。母親は何度も学校に呼び出された。親子でカウンセリングを受けたし、校長室では、これまですっとぼけていた担任も交えた面談も繰り返した。家庭を顧みないほど仕事の忙しかった父親は寝耳に水を流しこまれる驚きを持って夜中のリビングで熱くなった。
しかし四六時中LIENで互いを監視し拘束し合う、無血の血判状を裏切れない四、五十人からの中学生が相手の懸案事など易々解決できるわけがなく、結局は保健室にすら行けなくなってしまっただけだった。いやむしろ家族や他人の大人たちの介入を許したおかげで中学生の彼女は自分の部屋からすら出てこられなくなった。
彼女は朝から晩まで、スマホの中にある誰だか知らない誰かの悪意や意地悪を見て過ごし、思いあってそこに加わった。人の善意に難癖をつけ、一方的な、しかも明かな作り話でのうのうと正義ぶる誤字脱字だらけのコメント、出自だけで人を差別する明快さ、知識や知性と戦うやさぐれたマンパワー、歴史はつまり史実ではなく現代人の理想と創作物語たれ!!等々、腰を抜かした彼女は笑い止みそちら側から参戦した。自らの闇をおびき出しグリップできるよう、この意識を鍛えるためだったのだ……
自らの闇は想像以上に鋭利で、そのくせ稚拙さもありだからこそ相手の正論を無礼なままに爆破する力があった。また想像してはいなかったのだったが、闇をグリップし始めると相手の罵声や真摯な説得から私のマインドを守る私の闇はディフェス能力にも長けていた。
そしてついに彼女は「ハツコ」というアカウントで再び学校の連中のLIENに殴り込む実力をつけた。彼女はこれまでどこにもなかった新しい音楽のように現れ宣戦布告した。
子供同士で内ゲバなんかしていないで私に立ち向かえ!! 彼女は大人の主戦場で身につけた、あるいは目を覚ました悪意の殺傷力で誰彼となく公立中学に通う子供たちを罵倒してやった。怒れるエネルギーは根深く満ちていた。怖いものなど何もなかったし、誰がどんなにひどい言葉で挑発してきても、過剰に熱くなったり、自分が深く傷つく言葉などはもう存在しなかった。彼女は逆に、私から挑発されて熱くなっている連中を見て恍惚感を得たし、信念と罵声で間違いなく大きな心的ダメージを負わせた手応えに歓喜した。そうやって彼女は自覚のないまま、まだ同じ子供だった自分を深く傷つけていた。
ある日、彼女は部屋の中とはいえ同じ服を着続けていることに気が付いた。しばらく前から身体が重いのは生理のせいだと思っていたのだったが、今月の月はとっくに過ぎていた。
夜中の挑発による勝利に酔いながらスナック菓子を貪っていると体重が増えたので、一生涯、信念と罵声による完全勝利の誓いを自らに立てる、との覚悟で今度は絶食した。
そんなころに、仕事の忙しい父親の不倫がリビングで発覚した夜があった。実は私に余り関心がないんじゃないのか?と感じていた、そんな父親に対してすっかり関心のなかった娘は、小声に抑制された夫婦間のやりとりに関心を持ち部屋の扉を静かに開けて耳を傾けた。
「……でもいいか?俺はお前に言われる覚えなんかないぞ」
父親の最後の言い分は大きな声だった。
母親を問い詰めるまで三日かかった娘は最後に笑った。もちろんそれは冷笑というやつだ。母親が謝りながら一人娘の前で泣き崩れたその夜のエントリーは試験前ということで三十五人とやや少なめだったのだが、夜が明けると稀に見る程の尊厳を踏みにじり合う激戦を制する完璧な勝利だったと確信した。娘は久しぶりにチョコレートバーをむしゃむしゃ食べると、自宅マンションの五階のベランダからチョコレートバーの包み紙を捨てた。肌寒くなっていた朝の冷気のなか銀色の包み紙はヒラヒラ舞って落下していった。それから先ずはスマホを投げ捨てた。
昨夜「男根の生ゴミ」と「メスの汚物」たちをかまう前にこぼした冷笑は、ひょっとして私自身に向けて笑ってしまったのかもしれないな、と思った……