異様に軽いメルセデスを蹴とばして
ー異様に軽いメルセデスを蹴とばしてー
某高級寿司店のケータリングと燕尾服を着る四重奏団も用意した三階建てのチャーター船で、自身の米寿を祝う忌々しい祝賀会に出向いていた、筋金入りの生涯孤独な老婆は寝間着のジャージと色違いのプーマの黒いジャージ上下で乗船し、一合の大吟醸酒とマグロの赤身だけをむしゃむしゃ十貫食べ、軍歌以外の曲を知らない、という理由からそれらを強要した四重奏団の困惑に、困惑している周りのバカ共へ毒づいた。
今夜正装して乗船しているバカ共の一人が、誕生日プレゼントだと、それは特別なルートでメルセデスに発注したという電動車椅子だったのだが、次はわたくしが座る椅子をご用意していただけませんでしょうか? と訴えているように見えてきた送り主の頭の禿げ方がますます気に入らなくなり、凪ぐ湾内の船上で納車された、異様に軽いメルセデスを蹴とばして立ち上がると、あきらかに怯えているか、できれば透明な空気になりたいと願うメイン会場のバカ共は全身の毛穴が締まり固まった。戦場以外で死んだふりをしても男として許される場面があるのなら今ここしかないだろう、とメルセデスの送り主は思った……
老婆は、かつて親子で土下座させたことのある財閥の記念庭園に植わっていた柘植を勝手に切り倒して作った、小さな自身の背丈よりも遥かに高い錫杖をつきトイレに立った。錫杖頭の大輪の中にある五輪塔脇の六つの小輪がシャリンシャリン鳴り、お付きの三人が続いた。屈強な男二人とダーティーな仕事だろうと臆さずにこなす細身の女が一人だ。
老婆は船内エレベーターで二階に上がり、主賓室にあるトイレを使うのを面倒がると、ですが……という男二人を杖で叩き、女を叩くのは我慢した。
そんなわけで、誰でも利用できる同階にあった女子トイレでもなく、その隣の「ユニバーサルトイレ」に入ろうとしたときだった。鍵がかかっていたのだ。
お国の一大事だとばかりに慌てたお付きの三人は激しくドアを叩きに叩き、女は冷めた声を意識して恫喝した。
なかからは命乞いの如く、待ってくれ、との連呼があった。老婆の小便に命がけのお付き三人衆には、命乞いする者の声が誰であるのかを聞き取れなかったのだったが老婆は違った。フサフサと穴の縁に白髪の生える老婆の耳はもうろくしているわけでもなかったのだ。今夜のどのバカ共よりも、いくらかは正直者なのかもしれないと目を掛けていた者の声だった。老婆は間違いようもなく聞き取れた。そして女の小声も確かにしている。女とはいえそれは若い声ではない。年齢の近い、というほど近くもない、あのババァだったらどうしてくれよう、と老婆は若い娘のように、胸の中に嫉妬の炎が上がるのを感じた。するとそれは根拠もなく確信に変わってきた。あの鉄道会社の老未亡人だったらどうしてくれよう!!
的中だった。老未亡人の高価な着物の乱れは誰の目にも明らかで、手広く展開している老人ホームの白髪の事業主のシャツの裾はだらしなく革ベルトの上からはみ出ていた。
顔を青くしているお付きの男一人と、赤くして笑いを我慢しているもう一人の男と女を外に立たせたまま、錫杖を手に二人と共に広いトイレの中へ入った。老婆は尿意を忘れてしまっていた。それほどの激情だったともいえよう。
「あんたたち、私の目の前で続きをおっ始めなっ。一体どんなことをしていたんだいっ!!」
老婆は蓋をしたままの便器に座ると吠えた。もちろん錫杖も吠えた。シャリンっ!!
直立不動で無言の二人だったが、乱れた加賀友禅の水色の裾を柘植の先で繰り返し突かれていると、さすがに老未亡人は女としてキレた。
「冥途の土産に見せてあげますよ、姐さんっ!!」
老未亡人は友禅の中の淡い桜色をした襦袢ごと自ら開くとその場にしゃがみ、無言で抵抗する正直者だと思っていた白髪のズボンをずり降ろそうとした。
「こういうところで、こういうことをする動画をスマホで見たんですよ、姐さん!!」
クロコダイルのベルトを掴み抵抗を続ける白髪の正直者は泣き出した。
「こうやって、自分の手でお股さんをいじくりながら、いただくんですよ!!」
「あんた、痴ほうの女房を裏切れないっ、て言ってあたしとは十年間も睦言を交わすだけだったじゃないかっ!!」
絶叫した叫びは死の叫びとなり、錫杖はシャリン……と倒れた。プーマの黒いジャージのまま失禁もした……