第三話「アビーシアとナビーシャ」 Part1 of 4
カーテンの隙間から、薄っすらと朝陽が入り始めた頃、一人の少女がベッドの上でもぞもぞと体を動かしていました。
「んぅー。まだ五時か」
アビーシアはベッド脇のゼンマイ式時計を見て、不満げにそう呟くと――。
(もう、一時間と)
すぐさま、毛布を被りなおしました。
けれど、一瞬でも、起きるという動作をしてしまった為か――。
「眠れない」
普段の姿勢の仰向けを止め、右横を向いて寝ても、左横に向いてみても――。
「むぅー」
思いきって、うつ伏せになると――。
「く、苦しい」
勢いよく一息を吐きだしました。
「眠れない」
不満げな声を出しながら、何時もより、90分程早く、嫌々ベッドを降りたアビーシア。
頭を掻きながら、ベランダに出た彼女の瞳を木陰からの光が――正確には反射した朝陽が襲いました。
「んー。何よ」
寝不足気味なところに、受けた不意討ち。
頬を歪めながら、光源に目をやれば――。
「そうだ」
胸元に手をやり、何も掴めない事に気付くと、寂しさと安堵が入り混じったような表情を浮かべます。
不思議なアンティークショップで貰った『ありえる未来に導いてくれる』という不思議な羅針盤。
それは少し先の未来、五年後の可能性の一つを形にしてくれる魔法の品でした。
そして――。
大変な事もあったけれど、それでも、気になっている男の子との楽しい思い出になるはずだった。
そんな日を最後の最後に、辛い日に変えた忌まわしい品でした。
「もう」
だから、二度とあんな思いをしたくなかったから――。
「捨てたんだった」
その呟きは少なくない後悔を感じさせる声でした。
強盗に捕まった弟ノエルを助けられる力を求めた時、それを与えてくれたのも羅針盤だったから。
「それに、放り投げるんじゃなくてさ」
手を伸ばしても絶対に届かない。
棒を使って、取ろうとしても、枝に複雑に絡み方をしているので無理。
枝を叩いて落とそうにも、絡んだのが太い枝なので、揺れそうもない。
目の前にあるのに、二度と取り戻せない。
そんな、嫌な距離の枝に、羅針盤から伸びるチェーンが複雑に絡んでいました。
「ちゃんと、ベルゼちゃんに返すべきだったよね」
手摺を掴むと、己の浅慮に更に顔が曇らせながら、ゆっくりと腰を下げます。
「私、本当に……酷い事をしたな」
屈み込むと自己嫌悪が更に顔を曇らせました。
「投げ捨てちゃうなんてさ」
自分の軽率さに何度も溜め息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がり――とぼとぼと部屋に戻ります。
時計を見ると五時半。
あと三十分程で、両親は店の仕込みを始める為に起きますが、それは二人があと三十分も休める事も意味します。
アビーシアは部屋の扉を開けると、皆を起こさないように静かに洗面所へ。
右手で握られた蛇口型のマジックアイテムから、水が流れ出した直後、左手を被せられたランプ型のマジックアイテムが淡く灯りました。
「うわ……。酷い顔」
アビーシアは泣いて腫れた痕を自嘲。
流れる水で目元を洗い流すと、念入りに指で揉み解します。
それを何度か繰り返した後、両手の平を合わせて、手桶を作って流れる水を溜めました。
「ひゃん」
夏場とはいえ、まだ早い時間。
朝の水の冷たさが、可愛い悲鳴をあげさせました。
** § **
妙に近くから聞こえてくる雀達の鳴き声。
「チュ、チュン」
「チチュン」
それを不思議に思いながら、体を起こそうとしたグレックの手に柔らかくて、暖かい何かが触れました。
「ヂュン」
可愛らしいが、抗議を露わにした威嚇的な一鳴き。
危うく、雀の一匹を潰しかねなかった事に気づき、グレックは顔色を変えます。
「うわ! ごめんよ」
慌てて手をどかし、上半身を起こすも、それに驚いたのでしょう。
番いの雀達は開け放たれていた窓を潜って、朝陽が爽やかな外へ。
グレックは周囲を見回し、下宿先の自室ではなく――ジムで寝ていた事。
正確にはトレーニング用に作られた丈夫なベンチの上で寝ていた事に気づきました。
「――ッ」
昨日、盾を構えていたとはいえ、野牛の猛烈な攻撃を何度も浴びせられた。
それに加えて、変な場所で寝てしまった為の寝違え。
その痛みの重なりに顔を顰めながら、グレッグはベンチから立ち上がります。
「アビー」
昨日、帰宅途中で急に態度を変えたアビーシア。
あの悲しげな声と、儚げな姿を思い出して、つい呟いたグレックにそっと近づく人影がありました。
「呼んだ?」
「――!!」
危うくあげかけた悲鳴を必死に飲み込んで、グレックはゆっくりと振り返ります。
昨日はあんなに話したくて、必死に探したのに――時が過ぎすぎて、顔を合わせるのが気まずい。
そんな少女に向かって。
「いきなり、後ろからさ。声をかけるなよな」
「おはよう。グレイ」
何時もの動き易さを重視した。
もしくは、野暮ったいパンツルックではない。
昨日程ではないけれど、可愛らしいスカート。
但し、上着は着馴れたパーカー。
ミスマッチ過ぎる格好を選んで、中途半端にボーイッシュな姿の美少女がグレックの後ろに立っていました。
昨日、別れ際に見た様子とはあまりに違い過ぎる雰囲気。
無理やりに百八十度近く反転したようなアビーシアの姿から、グレックが何かを嫌な物を感じとったのは、格闘技を学んでいる者の勘? それとも?
「グレイ。私、そんな変な格好をしてる?」
可愛らしい顔でも、睨めば、多少は生じる威圧感。
沈黙の意図を誤解したアビーシアに詰め寄られ、グレックは反応に困った末に口を開きます。
「アビー。俺で力になれる事ならば」
そう言いたくなったのを必死に飲み込んで、何かを隠したがっている事には気づかないフリをしながら――。
「何だよ。アビー。その格好は」
ちょっと、おどけた口調で尋ねるも、アビーシアはグレックの気遣いには気づきません。
「女の子がお洒落してるんだよ! もっと、言う言葉はないの!?」
「その……。ごめんな。アビー」
思わぬ迫力に気圧され、真剣な顔で頭を下げたグレックの前で、アビーシアはそっぽを向き続けます。
(昨日みたいにママにコーディネイトしてもらってないよ! 正直、自分でも変かな? って思ったよ……。けど、ちょっとは褒めてくれてもいいじゃん!! 綺麗だよ。ぐらいは言ってよ)
そう直接、言葉をぶつけてやりたいのを我慢しながら、アビーシアは心の中で愚痴を零し続けます。
「なぁ。アビー」
「何よ?」
むっとした顔を向けてきたアビーシアに対し、グレックは口を開けては閉じてを繰り返します。
何かを迷っているかのような様子で。
やがて、彼は大きく頭を左右に、何かを振り落とすかのように振ってから、口を開きました。
「そんな可愛い服でランニングに行くのか? 汚れると勿体ないだろ」
(遅いよ)
そう言いたげにアビーシアはむすっと、不満を露わにします。
けれど、だんだんと落ち着きを取り戻しました。
そして、あらためて、自分の服装を客観的に見て――ばつの悪い顔になると、何も言わずに、すたすたと祖父母の住居側に通じる扉に向かいました。
「早く、着替えてこいよ。先に行っちゃうぞ」
振り向くや、思いっきり、あっかんベーと突き出された可愛い舌。
グレックは苦笑しながら、足の柔軟運動を始めます。