第二話「それは借り物の力」 Part3 of 4
アビーシアは普段ならば、絶対にやらない事。
母パティに見つかったら、かなり怒られるような事。
グレックがお礼として貰ってきた品――分けて貰ったホットドックの食べ歩きに興じながら、尋ねます。
「トリオ・ザ・キメラの興行まで、まだ、時間があるんだよね?」
「ああ。一日に二回興行で」
アビーシアは一瞬躊躇った後、ケチャップのついた指を薄く口紅を塗った唇へ。
「午後の部まで、まだ」
「グレイ?」
不意に言葉を切ったグレックの緊張した面持ちを見て、アビーシアも彼が見ている方に顔を動かしました。
ピエロ、ピエロ、ピエロ。
背の高い者、背の低い者、風船の様に膨れている者。
他にも色んなピエロ達が山を作るように、一箇所に集まっていました。
と言っても、それは何かの興行ではありません。
道化の衣装とメイクをした彼らは腕を組んで、その姿格好には似つかわしくない。
あまりに物々しい雰囲気を作っています。
彼等と対峙しているのは、耳の長さと身長の高さ、長命が特徴的な種族。
生涯の大半を大陸北部の大森林の中で過ごす――と語られるエルフ達でした。
彼らが手に持った看板に書かれていたのは――。
『家畜という制度を廃止せよ』
『ヒューマンは他の生き物の肉を食べるのを止めろ』
『我々は野菜だけを食べ、三百年以上、問題なく生きている』
そんな文言でした。
モンスターという人類共通の敵。世界全体の脅威が薄らぎつつある事で、生じ始めた問題。
時に過激な手段も厭わない『環境や動物の保護団体』の出現も、時代の変化の一つでした。
「種族が違えば価値観が違うのも当然だと思うけど」
グレックは渋い顔で言葉を続けます。
「俺達がエルフの文化を尊重するみたいに、俺達ヒューマンの文化も尊重してくれって思うな」
「うん。そうだよね」
「何をしに来たのかわからないけど……関わらない方がよさそうだ。行こうぜ」
そう言って歩き出したグレックの後に、アビーシアが続こうとした時でした。
「やったぞ!!」
そう叫びながら、エルフの一人がテントの中から飛び出すや、手持ち看板を持っていた一団の歓声があがります。
「檻から助け出すことに成功したァァッ」
その男の叫びを打ち消さんとばかりに、歓声は更に強まって、それを更に打ち消すかのように――テントの中から、悲鳴と怒号が轟き始めました。
ピエロの半数ほどがエルフ達の一挙一動を見逃すまいと睨む中、残る半数がテントの中に駆け込みます。
「グレイ」
不安に包まれたアビーシアは消え入りそうな声で、グレックに抱きつくように体を寄せました。
「何が起きたかのが分からない。一旦物陰で様子を見よう」
グレックは右手でアビーシアの手を握ると、人力で牽く屋台のような形の荷車の陰に向かって走ります。
「俺が守ってやる。心配するな」
「うん」
アビーが消え入りそうな声で返事をして、後ろを振り返った直後でした。
何かの異変が起きたのが明らかなテントの布に大穴を開けて、一人のピエロが文字通りに飛びだしました。
ドサッ! ドンッドン!!
カラフルな衣装を着た太ったピエロは路面に叩きつけられ、何度も体を跳ねさせます。
その度に、綿らしき詰め物を零しながら、体がどんどん縮み始めました。
だんだんと飛び跳ねる高さが下がり、速度も落ちます。
けれど、まるで、死力を振り絞ったかのように――最後の最後に、アビーシア目がけて跳ねました。
「ひっ」
逃げるべきだと頭では分かっていても、体が動かない。
足が止まり、グレックの手も離してしまった。
迫り来る人間砲弾――特徴的な鼻が取れた為、気味の悪い風貌となったピエロに、ただ、悲鳴をあげる事しか出来なかった。
そんなアビーシアを守るべく、グレックが二人の間に踏み込みます。
左腕をより前に出して、その肘でピエロを浮かせるように弾き、空けていた右手で浮き上がった相手の襟首を掴む。
そのまま、背負った相手を背中から、路面に落とそうとしてしまったのは、格闘家としての経験からの無意識の反応だったのでしょう。
「あ、ありがとう。グレイ」
恐怖で引き攣った顔をしていたアビーシアの前で、グレックはピエロをそっと降ろすと、沈痛な表情で苦々しげに口を開きます。
「まずいな。片腕と片足は確実に折れてる」
「うはははッ! 動物虐待を見世物にする野蛮なヒューマンに罰が下ったぞ!!」
路面に寝かされたピエロを指差し、エルフの一人が下品な笑い声をあげると、他のエルフ達も追随しました。
(動物虐待、見世物)
その言葉がアビーシアの心の中を反芻します。
あまり深くは考えていなかったものの――牛は大勢の前でプロレスラー三人と戦わされる。
それはエルフの人達の言うように、動物虐待を見世物にしているのかもしれない。
欧州で行われている闘牛――牛を殺すか、牛に殺されるか。そんな競技よりはマシなのかもしれないけれど――と。
「お前等! 何をやったんだ!?」
その怒号にエルフ達は静まり返り、じりじりと後退り。
全身に鬼気をまとったグレックも一歩、また一歩と近づきます。
「解散ッ!!」
長身のエルフ達の中でも、一際、背の高かった男は叫ぶや、持っていた看板を放りました。
「うわっ!」
グレックは手の甲で払いのけるも、最初の一投が呼び水となったように、手持ち看板が次々に舞っていました。
「――ッ!」
ボクサーのステップで左右に前後に小刻みに動きながら、投げられたのを払いのける。
しかも、直ぐ近くにいる自分に当てないように。
そんな器用な真似をこなすグレックを見て、アビーシアは思わず、見とれてしまうも――。
「うぅッ」
ピエロの呻き声を聞くと、直ぐ様、走り寄ります。
「血が」
(凄い痛そう……。そうだ! ママみたいに手当てを出来るなら!!)
アビーシアは沈痛な面持ちで、迷った末にピエロの側で屈むと、胸元の羅針盤をぎゅっと握ります。
(けれど……。ナビーシャをグレックに会わせるのは嫌ッ! だけど……)
アビーシアは迷った末に唇を噛むと、周囲を見回して、隠れられる場所を見つけるも、その足は動きませんでした。
何故なら、自分がやろうとしている事の重大さ。人の命を預かりかねないという事に気づいたが為に。
「あぁ! くそっ!!」
蜘蛛の子を散らすように逃走したエルフ達を睨みながら、忌々しげに言葉を吐くと、グレックはアビーシアの隣で屈みました。
「頭を強く打った人を動かすのは、本当は拙いんだけど」
そう自信無げに、ピエロの上半身をそっと持ち上げます。
「何かが起きてる時に、路上のど真ん中に寝かせたままよりはいいよな?」
不安げな目を向けられ、アビーシアは自分の無力さが悔しくて、唇を噛みました。
(そういうのって、グレイの方が詳しいよね? 私に聞かれても困るよ。)
アビーシアはそう言いたくなるも、少しでも、役に立ちたいと必死に考えた末に口を開きます。
「う、うん。グレイが正しいと思う」
心の中に次々に湧き出す思いと不安。
それから意識を逸らさんと、アビーシアは今の自分に出来る事を――ピエロの両足をぎゅっと握りました。
「3、2、1で持ち上げるぞ」
** § **
見た目以上に重かったピエロを四苦八苦の末、二人が物陰に物陰に運び終えると――。
「うっ、うぅ……。くっ」
再び、ピエロが呻き声をあげ始めます。
アビーシアが彼が生きていた事に安堵の一息を吐き、グレックが不安げに見守っている時でした。
「ヴモォォツ」
地の底で魔獣があげるような雄叫びをあげ、地響きをさせながら、巨大な何かがテントの中から出てきます。
「さっきの奴等、ハンディマッチに出る牛を解放したのか!?」
「牛? あ、あれが牛なの!?」
そっと物陰から顔を出した二人は見ました。
三メートルに迫る体長、頭から左右に伸びた太く逞しい角。蹄から肩までが二メートル程で、一トンを優に超えるだろう体重の四つ足の巨大な動物を。
「俗に野牛って呼ばれる種だな。牧場で飼われてる牛の先祖みたいなものさ」
その解説は化け物を――幼い頃に見たモンスター以上の生き物を見てしまったショックで、呆然としていたアビーシアの耳には届きませんでした。
けれど、小さな弟の面倒を見ている長女です。
(――?)
何処からか聞こえる不安そうな子供の声だけは、呆けた精神状態であろうとも、聞き逃す事はありませんでした。
「グレイ。あそこ」
物陰にいた小さな男の子を指差すと、それに反応をしたわけではないでしょうが――雄叫びをあげていた野牛の血走った目も、その子に向けられます。
ガシュ、ザシュ。
蹄が地面を掘り返すように、路上に土埃を起こし始めるのも見て、アビーシアが不安で手をぎゅっと握ると同時でした。
「囲めッ! 囲めェェッ!!」
そう叫びをあげるシルクハットを被った男性を先頭として、200センチを超える高身長、130センチ程の小柄、風船のような巨体と個性豊かなピエロ達。
色とりどりの鎧をまとった男性達。皆が大きさも形も異なる盾を片手に、次々にテントの中から飛び出します。
「モォォォ」
しかし、野牛は彼らに怯むような様子は見せません。
むしろ、更に興奮をしたようで、土煙がどんどんと濃くなります。
そんな野牛の後ろから、目の粗い網を片手に近寄る三つの影。
それはアビーシアにチラシを渡した三人でした。
「うわぁぁぁん」
「ヴモォォォ」
子供の鳴き声が興奮させてしまったのでしょう。
「ぎゃぁッ!」
遂に走り出した野牛の最初の犠牲者となったのは、牛の進路を逸らそうと立ちはだかるも――角の一振りで弾かれたピエロでした。
慌てて投げられた網は二つが空振りするも、最後の一つは辛うじて角に引っかかりました。
「ヴモォォツ」
突然の視界不良を訴えるように一鳴きをし、網を振り落とそうと角を振る野牛。
そこを盾を持った一団が取り囲む間に、グレックが子供のところに走ります。
「よーし。大丈夫だ。直ぐにお父さんか、お母さんの所に連れて行ってやるからな」
「わぁぁぁッ」
誤算は――恐怖に駆られた子供がとる行動を見誤った事。
目線を合わせる為に屈んでいた為、グレックは子供が走り出しても、それを止める事が出来ませんでした。
牛の角で弾き飛ばされ――ドンッ、ゴロ、ゴロンゴロっと、ボールのように転がされたシルクハットの男がボーリングのピンのように子供を刎ね飛ばす。
その様子を野牛がじっと見ていたのに気づくや、グレックは勢いよく立ち上がります。
「こっちだぞォォッ」
倒れてる子供を助けに行きたい。
そう思っているのに、体が固まって動けないアビーシアの前で、グレッグが叫び声をあげました。
身動き一つしないシルクハットの男性と、痛みと恐怖で泣き叫ぶ子供に角を向けている野牛の意識を、少しでも自分の方に向けさせようと。
それが功を奏したのでしょう。
野牛はグレッグを睨みながら、再び、土煙をたて始めます。
その隙に、後ろから近づいた二人が――アビーシアにチラシを渡した三人のうちの二人が後ろから近づき、角に掴みかかります。
残る一人が顔に網を被せると同時に、二人が振り飛ばされ――。
「ヴモォォッ」
再び被せられた網に興奮し、不満を高らかに宣言する雄叫びを響かせながら、野牛が走りだしました。
路面に転がっていたのを拾って、使い慣れない盾を必死に構えようとしていたグレックに向かって。
** § **
バァァァン。
グレッグを構えていた盾ごと角で弾き飛ばし、その際に網も振り落とした。
野牛が満足気な表情で、激しく鼻息を噴きながら、悠然と向きを変えている時でした。
「こんなもんかよ」
グレックはよろよろと立ち上がると、苦痛に顔を歪めながらも、再度、盾を構えます。
言葉を理解出来なくても、その意図を感じとったのでしょう。
野牛は面倒くさげに頭を向けました。
「もう、止めて!」
「誰か、こいつを止められる人が来るまでは」
グレックは片手で盾を構え、片手で鼻血を拭いながら、言葉を続けます。
すると、ゆっくりと、面倒くさそうに、巨体の向きが変わり始めました。
「俺が時間を稼いでやる」
その言葉に不吉な何かを感じ、アビーシアは必死に周りを見回して――心臓が止まりそうになるも、必死に叫びます、
「ねぇ! 誰か!!」
けれど、少女が泣いて求めても、それに応えてくれる人はいませんでした。
誰もが痛々しい姿で倒れているか、必死に起き上がろうと呻き声をあげているだけです。
ガァァッン。
背後からの突然の衝突音に、あげそうになった悲鳴。
それを必死に飲み込みながら、アビーシアは恐る恐る振り向きます。
そして、助走をつけないで、純粋な力だけで盾を弾かんと角を振るった野牛と、それに負けんと踏ん張っているグレックの対決を見ました。
「今の私にグレイは助けられない」
ぼそっと呟くと、姿を隠せる場所を求めて、目を右に左にはしらせます。
子供ならば入れそうなサイズの箱を物陰に見つけた時、興奮した野牛の嘶きが届きました。
「けど、未来の私ならばグレイを」
アビーシアが箱に向かって走ります。
一向に倒れないグレックに苛立ち、興奮した野牛は涎を撒き散らかしながら、頭を上下左右に振り回した。
彼女が箱の蓋を開けた時、遂に野牛が助走をつけるべく、距離をとり始めます。
「私は、私の可能性を信じる」
アビーシアは羅針盤をぎゅっと握りしめると跳びました。
海に飛び込む時のように、頭を下にしながら。
「あぅ! 痛いッ!!」
深そうな見た目とは違って、実際は異様に浅かった箱。
その底にぶつけた頭を左手で摩りながら、箱の中で体勢を変えつつ、右手の指先を羅針盤の針にかけます。
「ショー・ミー・マイ・ポテンシャル」
魔法の言葉と共にアビーシアの全身は七色に包まれ、体の中を熱い何かが駆け巡ります。
それに併せて溢れ出すような力が、思わず声を零れさせます。
「――ッ」
狭い箱の中で暴れまいと、必死に堪えようとしました。
けれど、力の奔流と連動して、急速に伸びていく手足と変わっていく体格。
十二歳のアビーシアならば入れた箱も、十八歳のナビーシャには――。
きっと、奇術用の箱だったから、壊れやすい作りだったのでしょう。
バキリ。
射手姿のナビーシャが木箱の四方を同時に壊す形で飛び出すと、首もとのスカーフが風に舞いました。
「モォォツ」
グレックは盾を前面に出して、踏ん張ろうと頑張っているものの――足元で土煙をあげる野牛の前進は止められません。
必死に堪えようとしている彼の姿を見た瞬間、ナビーシャは中腰になると同時に左手に弓を構えました。
と同時に、背中の野筒から、抜いた矢を弓の弦に番えます。
それは、まるで、何百何千回とこなしてきたような自然な動作でした。
(皮膚が厚い。心臓を射抜くのは難しい)
鋭い矢先を角を振り回し、唾を撒き散らす野牛の心臓に向けながらナビーシャは考えます。
(なら、眼球を通して脳髄を)
射抜くべき対象を見ていると、次々と必要な情報と取るべき選択肢が脳裏に浮かび続け、一瞬でナビーシャはそれら全てを理解出来ました。
どうやれば仕留められるのか? を。
だから、その矢先をグレックの握る盾を叩き割らんとばかりに、角を激しく突きつけている野牛の頭部に向けて動かしました。
(つまり……あの牛を殺す!?)
それに気づいたのは射る寸前。
正に右手を矢の羽から放す瞬間でした。
(え! やだ……。やだよ……。私、生き物を殺したくなんてない!!)
その瞳が激しく揺れ動く中、遂にグレッグが角で押し倒され、尻餅をつかされました。
「負けられないって言っただろッ」
グレックは気合の雄叫びと共に立ち上がろうとするも、野牛は前脚を盾に乗せて抑えこみます。
更に――。
ガァァァン。ガァン。
その構える盾を弾き飛ばそうと、頭を振るい続けます。
(このままだとグレイが!)
ナビーシャは焦りを露わに一度は解いた弓を握り直すも、右手で握った矢を番える事は出来ませんでした。
(市場で買ってる牛のお肉。あれだって、牛が殺されてってのは分かってる……。けど、私が殺したわけじゃないから! やだ!!)
構えられた弓は揺れ続け、やがて、流星のように――。
(でも、グレイが……)
再度振り落とそうと牛が足を持ち上げた隙に、距離をとろうとグレックは立ち上がる隙を窺うも、不規則に振るわれる角の為に適いません。
(嫌ッ! ね、ねぇ、誰か!? 私は自分で生き物なんて殺したくない!!)
ナビーシャは涙に濡れた目で周囲を見回すも、助けになってくれそうな人は――。
「くそッ!!」
勝利宣言とばかりの鼻息を顔に浴びせられ、グレックが悲鳴じみた愚痴をあげました。
(けど……。それをやらないと……。私が牛を殺さないと、グレイが殺されちゃうから!)
ナビーシャは決意と共に左手で弓を構え直し、右手も矢羽を握りました。
けれど、そこで手は止まります。助けられるのが自分だけだと分かっていても、矢を放つ事は出来ませんでした。
自分の手で、生き物を撃ち殺すという決意は出来ませんでした。
ガァン。ガンガン。
興奮で唾を撒き散らかしながら、野牛の蹄が盾を叩く音を響かせる。
そんな時でした。
特徴的な鼻がとれてしまったピエロや、ズタボロとなったシルクハットを被った男性。
他にも何名かが盾を半ば杖代わりにしながらも、ゆっくりと牛を取り囲み始めます。
「お願い! お願いします!! グレイを! 彼を助けてください!!」
ナビーシャは震える手で弓と矢を握り続け、泣きながら、言葉にならない言葉で願いました。
けれど、現実は非情でした。
押さえ込もうとした人達は次々に弾き飛ばされ、グレックも立ち上がろうとするも――結局、失敗。
無意味に野牛の興奮状態を更に酷くさせただけでした。
だから――。
「ごめんなさい」
ナビーシャは決心をしました。
「痛いと思うけど……」
泣きながら、唇を噛むと、必死に謝りながら。
「ごめんなさい」
目をつぶって、矢先を野牛の目に向けると、そっと、右手を離しました。
「ヴモォォォッ」
牛の絶叫。
断末魔の叫び。
木霊する声を聞きたくないと、耳を塞いで屈み込みます。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)
心の中で何度も謝りました。
「ヴォォォッ」
けれど、野牛の叫びは止みません。
それどころか、どんどん大きくなります。
遂には、激しい蹄の音さえ伴い始めました。
(ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい)
だから、必死にもっと謝ります。
「――ろォォッ!!」
誰かが何かを叫んでいました。
「ナビーシャさん! 逃げろォォッ!!」
それがグレックの声だとわかると、ナビーシャは恐る恐る。
ゆっくりと、とても緩慢に目を開けました。
そして――。
耳から鮮血を流す野牛が、血走った目で睨みながら、自分に向かってくるのを見ました。
(グレイ、よかった)
それと同時に、グレックがよろよろと立ち上がるのも見えて、安堵の一息と共に頬を緩めます。
緊張が解けると同時に、撒き散らかされる唾を浴びせられるまで、あと数秒しかない。
その直後に、蹄で踏み潰される。
最後には、あの鋭い角で刺し殺される。
自分が矢で貫こうとしたように。
最後の最後になって、やっと、自分に迫る死をナビーシャは理解を出来ました。
だから、叫びました。
「グレェェェイッ! 助けてェェッ!!」
けれど、恐怖によって、満足に声を出す事が出来ませんでした。
その体は崩れるように路上に腰から落ちます。
「ウゥモォォッ」
眼前数メートルまで迫った牛の絶叫。
「グレイッッッ!!」
恐怖で動けなくなったナビーシャは目を瞑り、声にならない叫びを心の中で必死にあげました。