第一話「未来に導いてくれる羅針盤」 Part1 of 4
合衆国ではなく、合州国と書いているように、現実によく似ているけど別の世界(並行世界/異世界)を舞台とした作品です。
アメリカ合州国のとある小さな街にある喫茶店の一つ。
ケーキが自慢のお店オウランドの二階から、元気溢れる声が一階に向かいます。
「ランニングに行ってきまーす」
パタ、パタパタ。
そんな足音をさせながら、夏仕様で薄手の黄色パーカーを靡かせ、降りてきた赤毛のショートヘア。
ひざ丈ズボンの姿もあって、一見、美少年とも見間違えられかねない十二歳の女の子アビーシア。
その声が調理場に届くと、父親のマイクがフライパンを片手に顔を出しました。
「午後から天気がくずれるらしいから、先に洗濯物を」
「もう干してるよ。パパ」
「ボクも手伝いましゅた」
トテトテ。
そんな可愛らしい足音をさせながら、階段を降りてきた父親譲りの金髪の男の子。
今年の冬、四歳になるノエルが姉の言葉を補足します。
「そうか。なら、いい」
マイクが顔を引っ込めると、アビーシアと同じ髪の色の母パトリシアが顔を出し――。
「いつも言っている事だけど……。ほんと、馬車には気をつけるのよ」
つい先週も、近くの交差点で人身事故が起きたばかりです。
「はーい。じゃあ、行ってきまーす」
元気よく宣言するや、喫茶店の出入り口の反対側――住居用の玄関を通って外に。
と言っても、直ぐに道路には出れません。
スポーツジムを併設している母方の祖父母宅との共有スペースを通って、ジムと壁の間の狭い通路も通らないといけません。
防犯の為と分かってはいても、この不便さ。
アビーシアはこれが嫌いでした。
そう。過去形です。
何故なら、今は――。
「おはよう。グレイ」
「よう」
発汗作用のある黒色のランニングスーツを纏って、立ち屈みの運動をしていた少年であり、同時に青年という十五歳。
四月からなので、今月でアビーシアの祖父母宅への下宿三ヶ月目となるグレック・デイス。
彼は元気よく挨拶をすると、黒寄りの灰色の髪を揺らしながら、今度は足を伸ばす運動を始めました。
「ランニングに行くの? なら、私も一緒に」
立ち上がったグレックは拳を右、左と振りながら――。
「今日は新しい事をやりたいからな」
同時に足も前後にステップを踏むように動かしながら、会話を続けます。
「アビーの足に合わせてたら、トレーニングにならないぜ」
「そうだねー。私の足についてこれないよねー」
馬鹿にしたような声に、グレックはむっとした顔を向け、更に両手足を激しく動かしていると――。
「何時も言っておるだろう。闇雲にやればいいってものじゃない」
真向かいの家の中から出てきた老人。
髪全体が真っ白だけど、溢れかえるほどにふさふさで、腰もピンとしているトレヴァー・シーアモ。
アビーシアの祖父が溜め息混じりに渋い顔で言いました。
「すみません。コーチ」
「おはよう。お爺ちゃん」
「おはよう」
本人が巧みに隠そうとした――息の荒さを老人は見逃していませんでした。
「アビーの安っぽい挑発にのりおって」
「でも」
「素質のあるお前には、若い頃のワシみたいな失敗をして欲しくない」
グレックは一度は口を開くも、苦い顔をしたコーチを見ると、申し訳無さそうな顔で口を噤みます。
「お爺ちゃん。グレイは今までの試合を全勝してるんでしょ? だったら、この先も」
その言葉はグレックを信じているから。
年齢制限の為、実際の試合を見れた事は無いけれど――あんなにトレーニングを頑張っている人が負けるはずがない。そう思っているから。
だけど、当の本人は――。
「俺よりも強い奴なんて、いくらでもいる」
世の中、いつも、何でも上手くいくって思っているなんて――やっぱり、子供だな。
そう付け足して言いたげな顔をしていました。
アビーシアは気持ちが伝わらないのがもどかしく、むっと頬を膨らませます。
けど――。
とても真剣な顔つきのグレックを見ると、色々な事を考えさせられてしまいます。
(グレイはもう、将来を決めてる。衛視という皆を守る仕事に就く為に、実績を積もうって、凄い、頑張っている。夢の為に努力している。歳は三つしか違わないのに……私とは違う。全然違う)
アビーシアは心の中で呟き、半ば無意識に――。
「私、将来は何になるんだろうなぁ」
ぼそりとした弱々しいものであり、隣にいたとしても、聞き逃してしまうだろう小声。
なのに、それは不思議な事に親族である祖父だけでなく、グレックの耳にも届いていました。
「え? おじさんにケーキや菓子作りを習っているんだろ?」
将来を決めているんじゃないか? と言いたげな声を、驚き顔のグレックに向けられると――。
「教わった通りの分量と焼き方で、時間もぴったりなのにさ」
アビーシアは元気の無い声で返します。
(まぁ、確かにな……。美味しいが、何かが足りない。そんな味じゃったな)
トレヴァーは少し前に試食したケーキを思い出しながら、孫に何もアドバイスを出来ない事を悔やみ、両手を後ろで組みました。
「パパみたいに上手く出来ないもん。私、お菓子作りの才能がないのかも」
グレックは目の前の悩める少女に何か、言葉をかけたいと思っているのに何も言えない。
そんな、もどかしさに唇を噛み、頭を乱暴に掻きむしり――。
「あのよ。将来なんてさ……。今直ぐに決めなくてもいいんじゃないか?」
自分を思って、そんな言葉をかけてくれている。
それが分かっても、アビーシアの顔は曇ったままです。
だって、彼女がそんな事を悩むのは――。
「気分転換にさ。一緒に走りに行くか?」
(私が誘った時は断ったくせに……)
アビーシアは声に出したくなったのを必死に堪えると、もやもやを振りはらわんとばかりに、乱暴に頭を振って――。
「仕方ないなぁー。つきあってあげるよ」
嫌々やるんだぞ。
そんな顔で微笑んで、元気一杯に返事をしました。
** § **
数年前から、余程の悪天候の時以外、毎朝走ってきた。
それが起伏の激しい荒れ道ではなく、石畳で整えられた道だとしても、十キロという短くはない距離を。
だから、体力に自信はあった。
あったつもりだった。
そんなアビーシアは息も絶え絶えの中、必死に声を出してグレックを呼び止めます。
「待ってよー」
「だから、言っただろ」
呆れているというよりも、無謀を諌めようとする声でグレックが駆け戻ると――同じ事をやりながら、同じ速度で走っていたのに、息切れ一つしない事に妬みと尊敬が入り混じった。そんな目を向けられました。
「俺の真似なんて、余計な事までするから」
グレックは両肘を脇に構え、右足を踏み出すと同時に右拳を突き出す。
右足を半歩下げると同時に、左足を踏み出して右肘を引き、左拳を突き出す。
そんな動作を繰り返しながら、アビーシアを中心とした円を描くように走ります。
そこに馬鹿にするような意図はない。
そうは頭で分かってはいても、アビーシアはむすっとした顔で睨みます。
「何事にも時間が必要なんだよ」
諭すつもりで話している。
それが分かってはいても――右、左と拳を連打しながら、両の膝を上げ下げ。
そんな姿では、真面目な話をしているようには思えない。
故にアビーシアの頬は膨らみました。
「アビーはさ」
脅しになっていない可愛らしい威圧を受けながら、グレックは言葉を続けます。
「おじさんみたいに上手く出来ないって、悩んでいるけどさ」
足を止め、きりっとした真剣な顔を向けられると、流石にアビーシアも態度を改めました。
「当たり前なんじゃないかな? だって、おじさんは十代の頃に職人――おばさんのお母さん。お婆ちゃんに弟子入りしたんだろ?」
「う、うん」
六十を過ぎた今でも、精力的に家庭向けの菓子作り教室の講師を努める。
そんな祖母のお菓子の美味がアビーシアの口内に蘇りました。
「そこから十年以上かかってさ。今の技を身につけたんだろ?」
何を言いたいのか?
今一釈然としない中、アビーシアは無言の頷きで返事をします。
「だからさ。何であろうと、同じ事を出来るようになるには時間が必要なんだ。焦るなよ」
グレックはそう言い終えるや、再び、足と拳を組み合わせた動きを再開。
「今、俺はランニングをこなせてるけどさ。最初の頃は」
顔を渋くして逡巡した後、躊躇いがちに口を開きました。
「普通に走るだけでも、結構、息切れしたんだぜ」
意外な過去の告白に呆然としたアビーシアを前に、グレックは気恥ずかしそうに頭を掻きます。
(そうだよね。グレイは毎日、朝以外にも走ってるんだし……)
瞼の裏に写るのは――夕方、汗びっしょりで帰ってきた姿や、お使いの時に見かけるランニング姿。
(そっか……。ケーキも同じだよね。今の私がパパと同じ事をやろうとしても、出来ないのが当然だよね)
別に焦って、悩む事ないじゃん。
一度はそう思えるも、次に湧き出したのは――けど、もし、本当にお菓子作りの才能がなかったら? という不安。
アビーシアは自分の才能を見つけ、伸ばしているグレックに様々な感情が入り混じった視線を向け――ふと、その背後に見慣れない店がある事に気づきました。
「こんな店なんか、あったっけ?」
儚げな顔をしていたアビーシアの顔がふと変わったのに気づき、グレッグは後ろを振り向くと、そう訊ねました。
一階建てで、お店としては狭くも広くもない大きさの建物。
なので、街の風景に自然と溶け込んで、気づかなくても、不思議ではない。
ただ、石材を一切使っていない。火事対策の不燃処理の為、割高になる完全木造の建物があれば、何度か近くを通っていたら、気づいていたはずでした。
(何時、出来たんだろ?)
違和感を抱いた事で注意力が増していたのか、アビーシアは出入り口側のショーウィンドウの陰に置かれていた『ThousanDream』という看板を見つけました。
「サウザンドとドリームだから……千の夢?」
そのまま中を覗くと、入り口の側には人を牽き寄せるようなカラフルな石やアクセサリーが。
奥手に向かうにつれて、如何にもな年代物の人形や古書が並んでいます。
物陰になっている為、よくは見えませんでしたが、奥には古めかしい鎧らしき何かも置いてありました。
「雑貨屋さん? ううん。アンティークショップかな?」
つい、雑多屋と言いかけたのを飲み込み、アビーシアは尋ねるも――。
「さて、休憩は充分だろ? ほら、続きをやろうぜ」
「あ、待ってよ」
二人が店の前を離れた直後、店の奥から、そっと現れた三つの人影。
顔までが完全な獣のタイプの白山羊と黒羊の獣人達と、その間の赤黒いゴシックなドレスを纏った金髪の少女。
チッ。
それは眼前で獲物を逃がした肉食獣のように、悔しそうに顔を歪めていた少女の唇が生んだ音でした。