逆瀬川家の妹は朝に弱い
「お母さん、びっくりしちゃった……」
ちょっとした立ち合いを終えてリビングに戻った武久と艶美は、ソファに座って話していた。
「たーくん、ほんとに強かったのねぇ。」
「まぁ、それなりに修行は積んできたからな。」
「縮地なんてどうやって覚えたの?」
「努力あるのみだな。…というか、知ってるんだな。」
「お婆様に一度見せていただいた事があるわ。」
「ほう、婆様は縮地が使えるのか。」
武久はタケヒサの記憶でしか知らない祖母に思いを馳せる。
なお、祖母は二年前に他界しているようだった。
「お婆様は日本剣道界の重鎮だったもの。まさに卓越した技量をお持ちだったわ。天才というのは、ああいう人のことを言うのよねぇ。」
シミジミと語る艶美。
「…そして、母さんもその才能を受け継いだ訳だな。」
「あら、私なんてまだまだよ。お婆様とは比べ物にならないわ。」
「謙遜だな。その歳で七段の腕前だそうじゃないか。しかも五年以上前には取っていたんだろう。母さんも十分天才だ。」
「…たーくんに褒められるのは嬉しいんだけど………女性に年齢の話は良くないわよ。女性はいくつになってもカッコよくありたいんだから。」
艶美のジト目に武久は平気な顔で肩をすくめる。
「それは悪かった。でも母さんに年齢なんてほぼ関係ないだろう。それだけ綺麗なんだからな。」
「…………そ、それでもよっ、それでも駄目なの!」
顔を赤くした艶美だが、なんとか持ち堪えて注意する。
「ふむ、承知した。」
「はぁ、まったく………まぁ、そのお婆様が使っていた縮地を、その歳でやってみせたたーくんが一番異常だと思うけどね。」
艶美は溜息をつきながら、半目で武久を見てそう言った。
「ふわぁ……おはよぉ……」
時刻は昼前。
眠そうに目を擦り欠伸をしながらリビングに現れたのは千代である。
「おはようちーちゃん、相変わらずお寝坊さんね。」
「おはよう千代。随分ゆっくりなんだな。」
「うにゅ……朝は苦手なのぉ……」
半分寝たままの千代が武久の隣に座る。
「もうすぐ昼だがな……千代は剣道部に入っているんだろう?朝稽古とかないのか?」
「日曜以外は基本的にあるのよ。」
武久の質問に艶美が答える。
「……大丈夫なのか?」
昼前にやっと起きたというのに未だにウトウトしている妹を見やる武久。
「毎朝起こすのが大変なのよねぇ……私もどちらかというと朝は苦手な方だし。」
「何なら俺が起こそうか?俺は特に朝が苦手という訳でもないし。」
揺れる千代の頭を撫でながら提案する。
すると、途端に千代がびくっと震えて目を開いた。
「にゅわっ!お、お兄ちゃん!?」
自らの頭を撫でる武久の手を見て動揺する。
こういった事にまだ慣れておらず、突然されると強く反応してしまうようだ。
「おう、ちゃんと起きたか千代。」
「う、うん、起きた……お兄ちゃん、頭……」
「頭?……あぁ、すまん。」
良かれと思ってやったのだが、嫌だっただろうか……と武久はやや寂しい思いになる。
だが、千代は慌てて首を振って否定した。
「あ、ち、違うの!別に嫌じゃないから!…むしろ、もっとして欲しいというか……」
「そうか。」
ならばと再び頭を撫でる。
「あっ……えへへ」
「ちょっと2人とも。程々にしてね。」
ジト目の艶美。
距離の近すぎる2人を嗜めるというよりは、千代に嫉妬する様子を見せる。
「お母さんも撫でてもらえば良いのに。」
「なっ、何を言ってるのよちーちゃん!」
「俺はいつでも良いぞ。」
変なところでさっぱりしている武久。
その堂々とした態度に艶美が怯む。
「うっ…そ、それなら是非お願いしたい………ってそうじゃなくて!」
「あれ、撫でられたくないの?」
「そんな訳ないじゃない!」
「撫でてほしいって、お兄ちゃん。」
「承知した。」
即座に歩み寄って母の頭を撫でる。
ふんわりした感触が武久の掌をくすぐる。
「あっ、う……も、もっと………」
抗えない艶美、あえなく陥落。
デレデレとだらしない顔になる。
歳を考えろとつっこまれる立場のはずだが、30代前半と聞いても不思議に思わないであろう艶美の容姿が、その類のつっこみを無効化していた。
「むぅ……お兄ちゃん、私も……」
「あぁ」
千代がむくれながらも控えめに強請ると、武久は空いた手でそちらも撫でた。
無表情で母と妹の頭を撫でる武久と、幸せそうに顔を崩す艶美と千代。
その構図は暫し続いた。
「も、もう大丈夫…ありがとね、たーくん。」
「気持ち良かったよ、お兄ちゃん!」
「そうか。」
10分ほど甘ったるい時間が過ぎ、ひとまず満足した2人が頭を離した。
「お兄ちゃんのお陰ですっかり目が覚めちゃった。」
千代が嬉しそうに笑う。
「千代は寝起きが悪いみたいだな。」
「そうなんだよねー……いつもお母さんが起こしてくれるんだけど、なかなか起きれなくて。」
「母さんから聞いたよ。さっき、ちょうどその話をしていたんだ。」
「あっ、そうだったわね。」
武久の言葉で思い出した艶美が手を打つ。
「ん?話って?」
寝ぼけて聞いていなかった千代がちょこんと首を傾げた。
「聞けば母さんも朝は苦手だそうじゃないか。俺は早起きが習慣になっているし、今度から千代は俺が起こそうかと提案したところだったんだ。」
「え、ほんと!?」
千代が驚きつつも目を輝かせる。
気分は、武久が元いた世界でいう"美少女妹あるいは姉に起こされる兄もしくは弟"のそれである。
女性ならば誰もが憧れるであろう起き方。
千代が嫌がるはずもなかった。
「まぁ、千代が嫌じゃなければな。」
「嫌な訳ないよ!すっごく嬉しい!…あ、でもお兄ちゃんは大丈夫なの?」
喜びながらも気遣う様子を見せる。
「問題ない。さっきも言ったが、俺は元々起床時間が早い。大した手間でもないさ。」
「な、なら…お願いしちゃおう、かな。」
期待を込めた上目遣い。
「あぁ、任せろ。早速明日から起こそうか。」
明日は平日、学校で授業があるのだ。
そして武久も明日が転入先への初登校であった。
「ほんと!やった!」
興奮を抑えきれない様子の千代を、艶美が羨ましそうに見つめていた。
「うぅ、良いなぁちーちゃん……」
「ん、なんなら母さんも起こそうか?仕事の都合もあるだろうし、時間が合う時で良ければだが。」
「えっ、で、でも息子にそこまで迷惑をかける訳には……」
葛藤する艶美に武久は微笑む。
「その程度、迷惑でもなんでもない。母さんの為に、俺が何かしたいんだ。」
「う、うぅ…たーくん………」
顔を赤らめ、涙目で武久を見つめる。
「良いじゃんお母さん。お兄ちゃんもこう言ってくれてるんだし。」
先に約束を取り付けた千代が余裕を持って艶美を迎え入れようとする。
先程まで興奮していたのに今ではドヤ顔を浮かべている。
何のドヤ顔なのかわからないが、艶美はその顔を見て決心した。
「な、なら…悪いけど、お願いしても良いかしら……?」
「あぁ、任せてくれ。俺としても朝の楽しみが増えて良かった。」
男らしからぬ頼り甲斐を見せる武久に、艶美と千代は思わず顔を赤らめた。
「母さんも朝は苦手なんだよな?その割には今日は早起きだったようだが。」
「あっ、き、今日はちょっと…変な夢見て目が覚めちゃって……」
「悪夢か?」
「いや、むしろイイ夢だったけど……た、たーくんは気にしないで良いの!」
「そうか?何かあれば言ってくれよ。」
「う、うん、ありがと。(昨夜見た上裸のたーくんが夢に出てきたなんて言えない…)」