愛シテル ~6年目の8月
ユアン37才 りく也36才
毎年、八月中旬からの約一ヶ月間、日本のM県S市では音楽祭が開催される。
オーケストラやアンサンブルのコンサート、オペラにリサイタル、アマチュア演奏家達の発表会といった演奏プログラムの他に、青少年の為の音楽講座や楽器のメンテナンスのワークショップなど、音楽に関連する事が催される点が特徴だ。日曜日には欅通りの遊歩道で、様々なジャンルのストリート・パフォーマンスが、歩行者を楽しませていた。
音楽祭は当初、地域振興を目的に始まったのだが、独自性豊かな演奏会プログラムと、音楽を地域ぐるみで楽しもうとする環境が高く評価され、今や一地方都市主催とは思えないほどに盛況となり、日本を代表する音楽祭へと成長した。
今回のメイン・ゲストは約十年ぶりのユアン・グリフィス。前回はショパン(国際コンクール)を獲った直後で、ショパンをプログラミングしたリサイタルと、地元オーケストラとの共演でベートーヴェンの『皇帝』を演奏した。しかしベートーヴェン弾きとしての方が高名だったにも関わらず、彼の『皇帝』は、さんざんな出来で酷評された。今回招聘されるのにあたり、ユアン・グリフィスは「ぜひとも『皇帝』を」と希望した。前回のリベンジをしたいのだろう。
彼と共演するのはこの日のために特別編成されたオーケストラ。その中には友人である曽和英介もチェロで参加している。
「ユアン、エツの邪魔するなよ。仕事出来ないぞ」
英介はユアンに注意した。
そのコンサート当日、会場となる県民文化会館のステージ上では、ユアン・グリフィス仕様にピアノの調律が始まっていた。リハーサルまでかなり時間があるのだが、ユアンはすでに会場入りしていて、専属調律師・加納悦嗣の傍らに座り、話しかけている。相手が仕事中にもかかわらず。
話の内容はと言うと、音楽にも調律にも無関係なものだった。加納悦嗣の親友兼通訳でもある英介は、彼と一緒にオケ・リハより早く会場入りしたのだが、通訳する内容にはそろそろキレそうになっていた。
「いや、エースケ、ぜひとも聞いておかなくちゃ。エツがいったいサクヤのどこに惹かれて、僕のライバルになったのかね」
「ライバルって」
(それは、君の偏った見方だろうが)
英介は馬鹿らしくなって、ため息をついた。
ユアン・グリフィスは絶賛片想い中だ。相手はマンハッタンの総合病院で研修医をしている中原りく也。彼は加納悦嗣のパートナーのヴァイオリニスト、中原さく也の二卵性双生児の弟である。
ユアンは、兄の方に猛烈に片想いし、結局実らなかった。実は十年前のさんざんな出来の『皇帝』は、さく也に失恋した痛手によるものだった。今度は弟の方なのだが、これもまた難しい相手だ。りく也は正真正銘のヘテロで、女性に不自由しないプレイボーイだったからだ。
「何でエツに聞くんだい? サクヤとリクヤじゃ全然、タイプが違うじゃないか?」
「サクヤとリクヤは似てないけれど、リクヤとエツはよく似ているだろう?」
「エツとリクヤが?」
英介はりく也の事を思い出していた。彼と会ったのは数えるほどだ。会えば親しく話もするが、あくまでもさく也の弟と言う立場を逸脱しなかったので、英介が知っているのはりく也の当り障りのない面だろう。悦嗣と共通するところと言えば、長身であることくらいだ。
「似てるかなぁ?」
「似ているさ。口の悪いところとか、口の悪いところとか、口の悪いところとか!」
ユアンは強調して言った。
「会えば憎まれ口ばかりじゃないか」
「それだけ?」
「いや、もちろん、それだけじゃないけど。なんて言うのかな、雰囲気? とにかく似ているんだよ。きっと恋人に対する好みも似ていると思うんだ」
「そうかなぁ。だからってサクヤとユアンは似てないだろ? エツがサクヤに惹かれた理由を聞いて、参考になるのか?」
さく也とユアンではそれこそ共通項がない。身長は20センチ以上違う。髪や瞳の色、それから何と言っても性格がまるで違う。さく也は感情表現が下手で、無口で無愛想・無表情の三無しに見られがちだった。ユアンはと言えば、社交的でお喋りで、その時々の感情を露にするタイプだ――どちらも英介の見解なのだが、当らずも遠からずだと思っている。
「似ているさ」
「その自信の根拠は?」
「好きな相手に一途なところ」
「またそれだけ?」
「大事なことだよ、エースケ。僕とサクヤは恋愛に対してスタンスもアプローチも一緒なんだから」
「アプローチ、ねぇ」
と英介が呟いたところで、フッと影がかかった。顔を上げると悦嗣が腕を組んで仁王立ちしている。
「うるさいぞ、おまえ達。お喋りしたいならロビーに行け。気が散るだろ」
自分の背後で話す二人に、ついにキレたようだ。仕事を始めてからユアンのお喋りは止むを知らず、悦嗣の手は再三再四、止まっていた。
それでとうとう二人は、追い出されてしまったのだった。
ロビーに出てもユアンの話は続いた。英介は笑顔を貼り付けたまま適当に相槌を返す。
『あいつはしつこくてうざいんだよ。愛してる、愛してるって、呪いの言葉かって言うんだ、まったく』
中原りく也の言葉が耳によみがえった。あれは確か三年程前、ニューヨークでさく也がガーシュインのガラ・コンサートに参加した時だ。英介は復縁した妻の小夜子と再婚旅行で東海岸を訪れていて、りく也も交えて食事をした。食事の最中に鳴った携帯電話に出るために席を外したりく也は、顔を顰めて戻ってきた。電話の相手はユアン・グリフィスだったらしく、開口一番、「あいつを何とかしろ」とさく也と英介に訴えた。
ユアンは好きな相手に努力を惜しまない。ほぼ毎週の差し入れに職場ではかなり、りく也はからかわれているようだった。その上、顔を合わせる度、電話の毎に「愛してる、愛してる」では、いい加減辟易する――と言うのが、りく也の言い分だ。
「あのねぇ、ユアン。リクヤはアメリカナイズされているように見えて、根は日本人なんだから、あんまり押し付けがましいと、かえって逆効果だよ」
英介はユアンに忠告した。
「どうしてさ? 好きな相手にアプローチするのは基本だ。 第一、サクヤだってそうしてエツをパートナーにしたじゃないか」
「兄弟でも違うんだよ。それ以前に、恋愛対象の性別が違うだろう?」
「違わないさ」
ユアンはやけに自信あり気な口調で言い切った。「おや?」と英介は彼を見る。鮮やかな青い瞳には確信めいたものがある。
りく也が艶福家なのは周知の事実だ。相手は女性で、パーティーに同伴する姿を英介は見かけている。さく也も弟が会うたびに違う女性を連れていると話していた。どこにもゲイの匂いがしない。
それなのに、ユアンは違わないと言い切る。
「やけに言い切るね? その根拠は?」
英介の問いにユアンはにっこりと笑んだ。
「僕のゲイとしての勘さ」
「勘?」
ユアンのきっぱりした物言いに興味を引かれて尋ねたのに、ただの勘だと答えられて英介は拍子抜けした。それは彼にも伝わったらしく、長い人差し指を立てて左右に振り、英介の考えを否定する。
「勘をそう馬鹿にしたもんじゃないさ。マイノリティな僕達は同じ『人種』に鼻が利くんだよ。チャンスを逃したくないもの」
「でも、どう見てもリクヤはヘテロだろう? 女性以外エスコートしているのを見たことがないけど?」
「女性はリクヤにとって性欲処理の相手でしかない」
英介は手に持った缶コーヒーを落としそうになった。
「これは失礼、言い方が下品だったね。つまり彼の恋愛の対象になりえないってことだよ」
表現がストレート過ぎたと、育ちの良いユアンは思ったのか訂正した。
「身体は女性を求めても心は違う。リクヤは今、確かに恋をしているけど自覚してないし、相手は女性じゃないんだ」
「誰に恋をしてるって言うんだ?」
英介は前のめりになる。
「それは内緒。ただ、その相手から目を反らせたい。だって無自覚な恋は、叶うはずなんてないんだから」
英介はもう一度、りく也のことを考えてみた。やはりさく也の弟と言う以上、何も浮かばない。当然ながら、りく也の無自覚な恋の相手に心当たりがあろうはずもなく、そもそもユアンがここまで執着しなければ、その恋愛事情になど興味は湧かなかった。
「僕はね、エースケ、リクヤと恋愛したいんだ。彼に相思相愛の素晴らしさを教えてあげたい。そのためには、どんな努力も惜しまないし、あきらめたくないんだ。どんなに邪険にされても僕は言い続けるよ。彼に『愛している』ってね」
ユアンの表情は至極優しかった。言葉は気恥ずかしくなるほどだったが、真摯で偽り無く聞こえる。
「どんな些細なことでもリサーチしておきたいんだよ。リクヤとエツは絶対、好みも似ているはずなんだ。だって、」
と、ユアンは口を閉じた。英介は先を促したが、彼はにっこり笑って答えなかった。それから、中原りく也と言う人物の魅力について、再び語り始めた。悦嗣に追い出されロビーに出てきた時点、つまりは振り出しに戻った。
英介は相槌を打つが、これも最初と同じで適当だった。そして意識は別件に飛んでいる。
引っかかっているのはユアンの「だって」の続きだ。何と言おうとしたのか、英介は彼のお喋りを聞き流しながら考える。その続きを自分も知っているような気がするのだ。
どれくらいか経って悦嗣がロビーに出てきた。調律が終わったらしい。外の空気を吸ってくると言う彼を、ユアンが引き止める。ステージ上での話の続きをするつもりなのは明らかだ。
「エースケ、こいつに言ってやれ。いつまでもくだらないことばかり言ってないで、演奏に集中しろって。十年前みたいな無様な演奏のために、俺は調律してるんじゃないぞ」
悦嗣はあからさまに辟易した表情を見せた。英介は彼のニュアンスもそのまま通訳するが、ユアンは気にしていないようだった。悦嗣は口元をへの字に曲げると、追い縋るユアンを足蹴にする勢いでその場を離れた。
「やっぱり彼とリクヤは似ているよ」
「おいおい、エツに惚れるんじゃないぞ。今度こそ、サクヤに愛想を尽かされるから」
ユアンは極上の笑顔を浮かべた。
「彼らはよく似ているけど、エツにはそんな感情は持てない。サクヤを持っていかれたしね。それにリクヤの方がうんとチャーミングだもの」
ユアンのりく也自慢がリピートされるのを英介は止めて、悦嗣に言われる前にピアノに座って調子を確認しろと勧めた。彼は不満足な表情を浮かべたが、英介が問答無用で先に立つと、渋々、後についてホールの中に入った。
ステージ上にはオーケストラ用の椅子や譜面台が整えられつつあった。後に放射状に広がるであろう中央には、フルコンサートのピアノが威風堂々、静かに今日の主役を待っている。ユアンはあたりまえのようにその前に座ると、八十八鍵の全てを使ってスケールをまず弾いた。それからスッと顎を上げ、演奏を始める。曲はベートーヴェンのソナタ。何曲か用意しているアンコールの一曲だ。
英介は客席でその演奏を聴く。十年前、こうしてやはりリハーサルの様子を見ていた。今回同様ユアンは、悦嗣を調律師に指名し、夏季休暇でウィーンより帰国していた英介は、通訳として同伴した。実のところ調律の依頼は口実で、さく也がピアニストとして共演を切望する恋敵の悦嗣を見極めるために指名したのだった。自分の前で弾いて見せろと、ユアンはすごい剣幕だった。
(エツはあの時、さく也をもう意識していたんだろうな)
さく也は悦嗣に恋をしていて、時間が許す限り追いかけていた。程度の差こそあれ、やっていることは今のユアンと大差ない。その一途さが可愛くて、英介も少なからず協力した。さく也は感情表現が下手で、言葉ではなく行動で示すしかなかったからだ。それは幼児期の複雑な家庭環境が影響しているのだと、英介はずい分後になって悦嗣に聞いた。
「だから滅多にないわがままは聞いてやりたくなる」
と悦嗣と言った。
「あれ?」
確かどこかで聞いたことが――英介は右手の人差し指をこめかみにあてた。
『さく也が望むことは、何でも叶えてやりたい。この世でたった二人きりの兄弟だから』
そう言ったのはりく也だ。
彼は兄がアメリカにいる間はコンサートがあればコンサートに行き、滞在期間中をボストンのコンドミニアムで一人で過ごすと聞けば、有給を取って出来るだけ一緒に過ごしているらしい。「本当に仲が良いんだね」と話した流れの中で出たように思う。
『だって、同じ人間を愛しているんだから』
英介の耳に今度はユアンの声が滑り込む。あの「だって」に続き、語られなかった言葉を伴って。
中原兄弟の生い立ちはほとんど知らないが、両親や親族の話はまったく出ないところを見ると、あまり良い思い出はないのだろう。尚更に絆が強いのはそのためか。
(でも、その気持ちを恋に喩えるのはどうなんだ?)
ただ強い想いは確かにある。その想う心をユアンに向けさせるのは、さく也の時以上に至難の業だと英介は思った――兄を見るりく也の眼差しは、とても大切で、とても尊いものを見るようだった。
「まったく、難しい相手を好きになったもんだ」
「誰が誰を好きになったって?」
スンと煙草の微かな匂いがした。悦嗣が戻って、英介の隣に座る。
「禁煙したんじゃなかったっけ?」
非喫煙者のさく也の手前と自身の高血圧症の兆しに、普段は禁煙している彼だが、仕事の後の一服はどうしても止められないらしい。
「そんなに一遍に止められるかよ」
「さく也に言いつけるぞ」
「あいつも知ってます」
口元はへの字になったが、笑んだ目は優しい。悦嗣とさく也の関係が良好だとわかって、英介は嬉しかった。にまにまと笑う英介に、悦嗣の目の表情が訝しげに変わった。
「それで、さく也のどこに惚れたんだ?」
つい聞いてみたくなる。悦嗣はあきれたように答えた。
「おまえまで、何、言ってんだ」
「だって、さく也と俺じゃタイプが違うもの」
古傷に触られて、悦嗣はため息をついた。さく也と出会う前、悦嗣は英介の事が好きだったのだ。十年前、音楽祭の帰りの新幹線で疲れて眠っていた彼は、寝惚けて夢と混同し「おまえの事が好きだった」と英介に告げた。過去形で言われたので、想う相手が他に出来たのだと英介は悟った。その相手が中原さく也なのではと思ったことも覚えている。
「エツ!」
英介が更に突っ込もうとするより先に、ステージ上でユアンが悦嗣を呼んだ。調律のオーダーの変更か、はたまた話の蒸し返しか。。
「やれやれ、どいつもこいつも。今日は厄日か」
仕方なく悦嗣は重い腰を上げ、同時に英介にもついて来いと親指で示す。英介は肩を竦めてみせ、後に続いた。
そしてまた振り出しに戻る。ユアンが悦嗣に話かけ、英介が適当に通訳し、悦嗣が聞き流す。
ユアンの『恋に盲目的』な様子と、『さりげなく大恋愛中』だとわかる悦嗣の後姿に、「また恋をするのも悪くないな」と英介は思った。脳裏に浮かぶ愛妻・小夜子がジロリと睨む。
(次も君とするに決まってるよ)
不意に声を出して苦笑した英介に、二人が同時に視線を寄こしたのは言うまでもない。