Alone Again
以前、投稿していた同名作品を加筆した新バージョンです。
「なんだか夏のようね」
海沿いの駐車場に停めた車のドアをロックする僕のサングラスに、逆光で眼を細める彼女の笑顔が囁く。
季節は秋を演じているが砂浜を流れる西からの風はカレンダーとは違う8月の清涼感を連れ、半袖を揺らしていく…
二人は波打ち際に陰を落とす白いカフェへと入り、一番奥にある見晴らしのいいコーナーへ進むとテーブルを挟んで腰掛けた。
ヴィラの雰囲気を醸し出すハイビスカスの香りがリゾート感を増す中、ホワイトラワンに見立てたコテージ風の壁紙を背に上品な制服を着たウエイトレスからメニューを受け取ると、僕はミート・ガルフェ風シュリンプ・ソースパスタとオニール海老の冷鮮サラダを二人分注文した上で、
「彼女にはバドワイザーを…
僕はスパークリング・ウェッジのアルコール抜きをライムで」
だがメニューを返そうとするも、ホールスタッフの彼女は復唱する事なく笑顔でドリンクページを僕の前で見開くと、店の名に相応しいお洒落なカクテルを指先を揃えた右手で推奨した。
「ノンアルコールですと、こちらの〈コースト・ビュー〉がお薦めですよ」
ヴィラデル・クーラーに似たシャンパンカラーだが、ドライシトラスの爽やかなフレーバーとミントの香るセピア・ゴールドのミックスジンジャーは "インスタ映え” にありがちなフルーツテイストではなく、適度な芳醇感と甘過ぎない後味が特徴的なトニック系だ。
僕は迷う事なく、右側の〈SelfMake〉をオーダーした。
「ではそのレギュラーサイズを…あと追加でグラスを1つ」
スクリーンの様な窓からは鮮やかなセイルが最後の夏を上映している。
暫くするとライムピールで爽やかに盛り付けられたブロックアイスとドライ・ジンジャーのハーフボトル、その横を彩る七宝焼きのコースターには良く冷えたグラスが2つ届けられた。
夕凪の沖合いを縁取る銀色のウェーブライン───そんな赴きで名付けられたライト・カクテルをステアする彼女の指先がライムピールを氷に浮かべるタイミングで、僕は汗をかいたビールをグラスへと注ぐ…
一瞬の沈黙後、傾け合うグラスが “カチン” と、切れの良い音を立てると、
「再会を祝して」
その言葉に彼女は、はにかんだ微笑みを見せた。
「まさか、又こうして君と会えるとはね」
「約束の余韻が偶然を引き寄せたのね…きっと」
「確かに…途切れた響きにしては氷の様に澄んだ音色だ。
二度目の偶然がシナリオ通りならね」
「興味深い詮索ね…だけど複雑に縺れた私情に筋書きなんてあるのかしら?
それに色落ちする冷却期間を装えるほど、私は器用じゃないわ」
「慣れ親しんだ距離感を取り戻す為の…言うなれば言葉のスキンシップさ。
見え透いた社交辞令だと他人行儀になるが、親睦を深める馴れ合いはネガティブな駆け引き同様、着地点が疎かになる」
「後ろ向きな意向を反映させないにしても、随分と思慮深いのね」
「両者とも互いの意にそぐわないだけさ、ぎこちない融和ムードを君は以前から嫌っていたからね」
気難しいメゾットを手なずけるには、心の時差に足を踏み入れなければならない。
タイムラグを半径とする自然体の傘へ、どうやって彼女のプライドを招き入れるかが今後の展開を担う上で重要な鍵となる。
「だと思った…ブランクとの歩調合わせに限らず、一歩、先を見据えた私の胸中にイニシアティブを譲るのが貴方のお人柄だから」
そこに主体性があるとするなら、あらゆる画策を封印してのリセットを模索しているのは確かだ。
だがそのシグナルは心に巣食う過去の残像とは別に、慈しみを募らせた僕なりの計らいさえも立ち止まらせた。
「気心の知れた私に予防線なんて不要よ、随分と意の込もったレクチャーだけど声のトーンで分かるわ…目論みと見せ掛け、実際は上質な気遣いだって事───」
だが伏し目がちに微笑むと、それに続く言葉をマドラーで掻き混ぜながら唇を噛んだ。
「でも…大人げないと思ってるんでしょ?」
それは1通のメールに端を発した、不可解過ぎる彼女の挙動だった。
その1行にも満たない定型文が送られてきたのは、約束の期日まで2日を切った午前0時過ぎの深夜───
残業の疲れを癒す為、都心を一望出来る南向きの窓枠にもたれ、バーボン片手にMusic Channelを聞き流していた時だった。
喧騒を脱ぎ捨てた街はアクアリウムの様に蒼く映し出され澄んだメロディーとも良く似合うが、今回の様に彼女が僕の寛ぎを邪魔するのは希だ。
意味深な予感を滲ませる通知だと気付いたのも、23時以降の連絡を極力避ける僕と知ってのMidnight Callだったからだ…
リマインダーの予定を修正すると、空になったグラスにジン・ライムを注ぐ…
既読を知らせる為、連絡事項を記した短文を送信したが、突然の約束に僕は少し戸惑っていた。
それは彼女との思い出が常に、雨の記憶と重なっていたからだ。
案の定、夜明け前の時報が銀色の時雨を誘うと、電飾で着飾ったネオン街も無彩色に霞んでいった。
『このままだと次の約束も雨の中で終わるかもしれない』
不安を煽る何かが僕にそう囁きかけるが、何が項を奏するか分からない。
その様に信じれる所が、メンタルの不思議な一面だ───
「天気の急変は、君の気まぐれによる誘因かもね」
現実は明らかにそうではない。
だが、何かの囁きに対する僕のアンサーであった事は、にこやかに反論する彼女の笑顔が証明している…
海辺のラウンジには僕達の他にも数組のカップルが寛いでいた。
賑やかにじゃれ合う笑い声や料理を撮影するのに夢中の男女…思惑は様々だが僕の中で渦巻く秘め事と、彼らの趣旨である下心には決定的な違いがある。
その大きくかけ離れた内心を、勘のいい彼女は汲み取っていたのかもしれない…
「不純な動機だろうが、今の僕には許容範囲さ…恋人同士なら即刻アウトだけど」
唇を噛んだ彼女も一旦は、局面を打開するジョークに笑みを溢したが…
「謙虚過ぎる私って不自然でしょ?
だけどもう…以前の私とは違うの」
慎ましい一言とは対象的に黙り込む彼女の視線がテーブルの上を泳ぐ中、どこか物憂げな笑みを添えた彼女の言葉は深い溜め息の様な余韻を僕に残した…
ディナーを終えた二人が店外へ出ると、夏の象徴でもあるエメラルドの海は雲間から差し込む黄金色の斜陽によってラメ入りの夕凪へと移りつつあった。
「これからの予定がもし空欄のままなら、僕のワガママに付き合ってくれない?
勿論、時間的な余裕があればの話だけど」
すると彼女は何かを気にする様な躊躇いの表情で、
「実は今夜、珍しく門限を10時と決めてて…その前後までだったら構わないわ」
「相変わらず多忙なんだね…
だったら君の邪魔をせず、大人しく却下に応じるよ」
「そうじゃないの…自宅に送ってさえ貰えれば問題はないの。
そうすれば多少遠くだって行けるし、そこが素敵な場所なら特に…ね」
「最初からそのつもりさ」
どうしても素直に帰せない気持ちを抑えながら、僕は助手席のドアを開け彼女を乗せると南へ向かうルートへとハンドルを切り、アクセルを踏み込んだ。
フロントガラスに映された夏のシーンが最後にして謎をかける様に、彼女の微笑みと僕の考えている事は、先を読んだ一つの答に辿り着こうとしている。
僕の予感が事実であるとするなら、出来る限りの事をしてあげよう。
それが終われば、彼女とはサヨナラをするつもりだ。
ラベンダーブルーのトワイライトがベイサイドパークの空を包む様に彩る午後7時、サンセットクルーズの航跡を装飾灯にもたれながら見下ろす僕の隣で、
「こんな静かな海、一人だと悲しい事ばかり思い出して…だから嫌いなの。
でも今日は素敵なパートナーが一緒だから、最高のシチュエーションよね」
海からの風で彼女の長い髪が優しく揺れる度に香る甘いトワレが、僕の心を切なくときめかす。
「君は相変わらず気を持たせるのが上手いね」
確かに彼女は、その言葉が似合うルックスを持った可愛い女性だ。
しかし、その彼女とも今日限りだ。
波に描かれた都会のシルエットを優しい眼差しで見つめる彼女は特に気にしていない素振りを見せてはいるが、僕の方から切り出すのを待っているのかもしれない。
「僕の得意な事って知ってる?」
「得意な事?」
「女の子を無事、約束の時間までに送り届けてあげる事さ」
「あなただって、変わってないわよ」
心の深い場所で癒された過去は、きっと今以上に彼女を素敵な女性へと変えてくれる。
僕はそう願い、笑顔の彼女を信じる事にした。
帰りは彼女の希望で、来た道とは違うルートを選んだ。
「高速に乗り、二つ目のインターを降りればもう君の庭さ」
「道の事を言われても分からないわ」
確かに…ペーパードライバーの彼女には無理もないが、
「事務的な配慮さ…アクティブな堅実派だけに、デリケートな依頼には慎重を期すタイプなんだ」
「フィジカルな関係を避けるのも、その傾向が一因?」
「かもね…一律に肯定はしないが、誠実な君に対してなら自重するまでもないよ」
「見てて分かるわ…だから安心出来るの」
ハイウェイが延びて行く先には、薄曇りのベールに遮られた疎らな星が闇の中に沈んでいる。
今想えば、戸惑いの欠片の様に灯る華奢な光は彼女の心情を映していたのかもしれない…
暫く彼女は、自ら持参したネディア・セルムーンのアルバムを静かに聴いていた。
繊細なストリングスとモノローグ的歌詞が、喧騒を脱いだ夜の都会を彷彿とさせるスタイリッシュなARBの名盤だ。
中でも印象的なナンバーが〈WaterMark〉
彼女が側にいる時には必ず流れていた珠玉のバラードだけに、身を寄せてきた思い出のそれぞれが"夏の追憶”として写し込まれてきた…
その余韻は今も心に響いている。
『フィナーレと最後の違いが分かる?』
『前向きなThe Endか、そうでないのか…』
『私はね、二度目があるかどうかだと思うの』
記憶は写真の様に色褪せないが、二人が出会った防波堤は夏の残り香と共に、純白のボードウォークを景色から剥がしていた。
蒼い海とのコントラストの中、意味深な問いにどう向き合うのか迷っていた過去も、今では遠い夏のイマージュと消え、辿り着けなかった8月を幾つかのメモリーへと切り分けた。
澄んだ瞳が美しく眩しい存在である事は図らずも全ての思い出が物語っているが、今も変わらず見つめ返しているのは実は僕ではなく、心に染み付いた彼女自身のWaterMarkだ。
だが今、その“しるし”は苦悩をも浮き彫りにした心の闇にも浸透している。
決意と葛藤の狭間で揺れ動く感情の満ち引きが時だけを繰り返し拐っていく中、その答えに素足を浸しながら彼女は耐え凌んでいた。
フィナーレとなる分岐路へ向かい、荒海の様な空へと伸びるヘッドライトが夜霧を切り裂いていく…
最後のサービスエリアを通過し“曽根崎インター手前2㎞”という案内標識を過ぎた辺りで不意に彼女は音楽を止めるとその重い口を静かに開いた…
「実は私…フィアンセと別れたの」
淡々とした彼女の口調に少し戸惑った。
「聞いてもいいのかい?」
「あなたには話しておきたいの。
彼とは2年間付き合って先月別れたんだけど、2週間前もう一度会いたいという電話があったの。
待ち合わせのカフェで彼は指輪を添え、私にプロポーズしたわ。
その時、涙が出る程嬉しかった。
待ってて良かったって…でも彼は2年前とは変わっていた。
今の彼にはもう、私じゃなくてもいいの…」
「君が思っていた彼と何かが違っていた?」
「私には叶えたい夢があるの。
彼もその全てに理解を示してくれたわ、その日が来るまで待つという意味でも…
だから再会した彼には、すぐに返事を出せなかったの」
「夢が叶うまで彼は待てないと?」
「誰もが私を非難すると思うわ…根拠のないワガママを理由にね。
優柔不断な態度が触発したのであれば彼の衝動は受動的で理に敵ってるけど、納得し難い動機で執拗に詰め寄られたから、気心がくすんでしまったのかも…」
「イビツな愛情が一方的な執着心へと肥大化したのであれば、募らせた愛情さえ曇らせる覚悟も範疇に?」
「ストイックな彼が計略した定石であるならその愛は恣意的よ…その確執に一度でも媚びてしまうと、想いに駆られた愛でさえ惰性化してしまうから」
狙っての事なら明らかに確信犯だが───
「安易な選択を念頭に置く事が堕落の定義なら、その兆候を未然に防ぐ手立ては?」
───その心持ちに偏見は無いのだろうか…
「食い止めようにも余力の渇れた私にその術など無かったわ…逃れようのない不安が彼のセオリーに感化された心の焦点にまで影を落としたていたから」
理不尽な経緯を建前とする屈強なメンタルとは真逆の脆弱心に矛盾的差異を感じたのも、背景にある思惑が後述の中で見え隠れしていたからだ。
「彼は結婚を言い訳に歪んだ支配欲を満たしたいだけ…でも勘違いしないでね。
不和とはいえ動機が不純だとは思っていないわ、成婚への拘りも価値観の劣化とは別物だし…
ただ将来を見据える上で骨抜きとなった愛が重荷となり二の足を踏んだのは事実よ…隠し立ては意に反するから正直に打ち明けるけど───」
寡黙な眼差しは頑なに自身を責めるが、饒舌に嘘を並べる人ではない。
では彼の慢心が驕りの束縛を招いたのか…結論から言えば違う様だ。
「───彼の理念が呪縛と化し、穏やかな性格までも狂わせたの」
「その呪縛とは君が感銘を受けたというセオリーの事を指してる?」
「えぇ…察しの通りよ」
「その言葉は今も…?」
軽く頷くと彼女は徐に天を仰ぎ、辛そうな笑顔で…
「『可能性とは究極の指標、だからこそ未来は決意で変わる』
気落ちしていた私にとってそれは、助言を越えた救いに聞こえたわ…追い求めた理想は萎み、散りゆくだけの夢を見ているだけだったから。
例えその灯火が希望の幻影であっても、すがりつくしかなかったの…盲目的にね」
「強気な君が付け入る隙を与えたんだ…
研ぎ澄まされた格言からポジティブな気構えだった事は容易に想像出来るけど、実際にはどうだった?」
「正に正攻法の鏡ね…筋道の立て方もそうだけど、奇をてらう事を凄く嫌っていたわ。
だから私との関係が進捗しない事への焦りを吐き出せずにいたのかも」
そう言ってうなだれたが、僕がそれを否定すると気を取り直したのか…
「解釈の相違があって然りだけど、貧弱だったのはむしろ私の判断力の方…当時は精神が病んでて、キャパシティが著しく劣っていたから。
だからかな…聞いた瞬間、明晰夢の様な不思議な感覚に囚われたわ」
痛切な苦境でさえ軽妙に回想する彼女は、揺れ動く心境の今昔についても滔々と切り込む…
「今になって思えば多くの事に気付かされた二年だったわ…自分を責めるくらい大切な恋もそうだったし、愛が終章を迎えれば素敵な思い出よりも悲しい過去として記憶に残るのも理解出来てた…この愛を滞らせたのは彼の軽薄さだけではないの」
だが差し迫った想いとは裏腹に、悲恋の定則を覆す憎悪の美化が彼女の狙いを隠しているかの様に見えるのは何故か…
とはいえ、彼の豪胆さが皮肉にも彼女を自身の解放へと突き動かした。
したたかなイメージの無い彼女を追い込んだ軽率さが功を奏したと見るべきだが、その功罪には更なる続きがあった。
「心の結束を紡ぐ筈だったセオリーが二人を引き離した…こんな不条理な事ってある?
確信していた愛が暗転すると彼はその深淵を彷徨う様に私を残し、結局は別の道を選んだわ。
それでも私は最後まで彼の事を嫌いにはなれなかった…今の私がイニシアティブに耐えられるのも、ポジティブに打ち拉がれた不退転の恩恵に肖れたから。
だからあの電話で『君の事が忘れられなくて』と言われた時、もう一度彼の事、信じてみようと思ったのに、彼、何て言ったと思う?」
「結婚してから夢を叶えたらいいとか…」
「妥当性に配慮したセンシティブな模範解答だったら不合理に感じる事さえなかったわ…せめて諫めるだけの強さが今の様にあれば、少しは後悔から救われたかな」
その自問から和やかな笑みが消えると、表情が険しくなり語気も荒立ってきた。
「『尽きた夢を追い求める事は不甲斐ない事だ…現実から目を背けず、俺と生きる道を選べ』と…その一言で私の礎は将来像と共に儚くも消えたわ。
自分を貫けない人が他人の私をどう信じ切ると言うの?
『結婚の意志があれば2週間以内に返事をくれ』とだけ言い残すと、彼は店を後にしたわ」
「今日が、そのタイムリミットっていうわけ…」
垂れ込めた雲間から覗く銀色の三日月が運命の矢を引き絞っている。
インターを降りると、パーキングのエリア内にある電話ボックスの前で車を停め、僕は時計を見た。
「今、9時を少し回ったぐらいだから…まだ間に合うよ。
彼、待ってると思うよ…君の気持ちをね…」
「…悔恨を全て捨て去る事が出来れば、ここまで苦しまないのに」
彼女は静かにバックからアドレス帳を取り出し、その意味を僕に見せると、ヘッドライトに浮かぶ赤い電話ボックスへと向かった。
その中の彼女が受話器を取ると僕は車のライトを消し、この場所から見下ろせる都会の夜へと視線を落とす。
麗しげな眺望に凭れていると、眼下を彩るきらびやかな夜景も遠く離れたビルの光が寄り添うフォルムだとすれば、距離のある二人の関係に似ているな…と、初めて気付いた。
求めていた答えが例え同じであっても、その未来が互いに違う意味を持つなら奇跡さえ起こらない。
音信が途絶えた空白の2週間で彼女の心境がどのように揺れ動いたかは、解約されたスマホの現状を見れば自ずと察しがつくが、その決意へと走らせた思念が今も根付いている証拠が先程僕の前で開いたアドレスの中に刻まれているとするなら、彼女が見せている強い背中は僕へ向けてではない。
黒く塗り潰された彼の電話番号が躊躇いの傷痕であるなら、無言のアプローチは〈表向きの腹心〉をゼスチャーしたに過ぎないが、ドアを開けた彼女が突然、僕の方を振り返り、贖いとも取れる対義的呟きを口にしたのは〈表向き〉の意味が、その言葉通りだったからだ。
『思い出を全て許す事が私の過ちなら…フィナーレに二度目はないの』
消されたアドレスがその台詞に裏打ちされた肯定であるなら、復縁する決意は"思い出を全て許す事が過ちでない”とする言葉によって打ち消される。
彼女が示唆した二つの意思表示は混迷や矛盾ではなく、自らに課した自負との葛藤であり一過性の躊躇でない事は眼差しの先にある自責が物語っている。
悲壮なため息を読み説く術がなくとも、その凛々しさからして〈打ち柆がれた末の悔恨〉などありえないのだ。
暫くすると、彼女は小走りで車へと戻ってきた。
シートに座ったまま助手席のドアを開けた僕は、無言で乗り込む彼女にそれとなく尋ねたが…
「彼には何と言ったの?」
「もういいの」
「でも話はしたんだろ?」
「うぅん、呼び出し音が彼の気持ちを教えてくれたわ。
本気で私を愛しているのであれば最後まで待っていてくれる筈でしょ?」
「でも君は、それを望んではなかった?」
急ぎ過ぎた質問をしたのかもしれない…
だが横顔の翳りが疑問符の後に続く蟠りを濁している以上、その本意を彼女が隠しているのは明白だ。
「慈しみを綺麗事な嘘で弔えたら気を巡らす必要もないけど…そこまで、あざとくはなれないわ。
ただ…彼も同じ空気をあの日察知していたとするなら、判断を決めかねた私の意思を読み解く意図があったのかも…呼び出し音の向こうでね」
だが僕が求めている答えはそこではない。
メールに添えられた最後の一文が心の残照であるなら、彼女の想いも雨音に染められていた筈だ。
彼女の弱音を遮っている一存を聞き出せない限り〈プライドの傘〉だけで、その雨を凌ぐ事など到底不可能だ。
『挫折をする度に夢が遠退いてく…その恐怖は今も影の様に付きまとってるわ』
以前、彼女は笑顔でそう嘆いていた…だがそこに見え隠れしているのは〈最愛の友〉が示唆する二人の温度差だ。
同じ夢を共有する両者の関係が上下から恋愛へと推移するのはありふれた感情移入だが、
人生の岐路ともなれば、そこまでスムーズとはいかない。
特に彼女の場合だと、両天秤に掛けるのは深淵に横たわるプライマリーな私心との整合性であって恩情ではない…もし後者を短絡的に正当化すればシビアな重圧となりうるからだ。
余り有る冷静さをなおざりにし、なし崩す彼を庇っているのはその口振りから見出だせるのだが、それだけに彼女の苦悩は計り知れない…
「当時の私は岩場に取り残された引き潮の様に暗く淀んでいたの。
尋常ではない周囲との軋轢は、凍える季節へとただ濁っていくだけの私を執拗に追い詰めたわ…綺麗事だと貶され誹謗中傷されたり、陰湿な陰口に耐えながらね。
でも彼だけは違った…
『夢を蔑ろにする前に立ち返れるのであれば何も厭わない』奮い立たせてくれた彼への想いに気付いた時、既に惹かれていたわ…
自分を欺かないと誓ったのは“愛”という後ろ楯がなければ曖昧な気持ちのまま夢を引きずるだけの傍観者で終わっていたのは分かっていたから…
踏み留まる事が出来たのも、夢を勝ち取るまで支えるという彼との実直な約束があったからなの」
色褪せたジレンマがメンタルを蝕み自尊心を覆い隠す帷となれば、冷静と衝動の間で揺れ動く心の差違は静かなる軋轢となり、無意識な心へと鬱積していく…
それを自己欺瞞と解するなら、苛まれた彼女を狡猾だと蔑むよりも酷な話だ。
「でも彼はその過程で約束を歪めた。
離別を恐れての束縛は嫉妬が主な要因だけど彼にその兆候がないとするなら、プロポーズは破綻覚悟のタイトロープだったのかも」
しかし彼女は、その見解をもアッサリと否定する。
「彼は私にとって共に譲れない二者択一を迫っただけでなく、下せない答えと分かっていながら時間的猶予を与えた…なのにこの仕打ちよ!?受話器を置きながら心底落胆したわ。
信じたくはないけど…空しいコールの向こうで私を試す卑怯なシナリオが堕落した彼の本性なら、箱に収まったダイヤの様に私は彼の 飾りでしかなかったってこと…」
「仮に彼の魂胆がそうだとしても心の束縛を解くのは難しかったと思うよ」
語尾の切れた彼女の口振りは自らに非がある事を色濃く匂わせていた…なので、
「婚姻への執着が彼の魅力を狭窄させた原因?」
その趣旨を否定する質問へと切り替えた筈だった…しかし、
「それは違うわ…憧れと愛を同一視した私が彼の譲るべき誇りを見えなくしたんだと思う…多分ね。
だって愛情と謙虚さは、常に相関関係にあるでしょ?
でもこれだけは信じて…例え荒んだとしても彼本来の優しさを取り戻せるのであれば何も厭わなかった、それは誑かされた今でも変わらないわ」
彼女のスタンスが言葉通りであるなら忌み嫌っての軽蔑ではない事は確かだが、それは憔悴した表向きの顔だ。
偏に純粋な憧れだったからこそ情の違いが招いた結末に自らを卑下したのであれば、客観的な自負を失いかけている。
「君の人望は簡単に色褪せたりしないさ…男の真価に惑わず、自分を磨くもので絆を紡げはいいよ」
繊細な問題だけに安易な妥協は避けたが端的でなければ身構えた言い訳になる…ここは敢えてダメージを挫く間接的意見に留めた方が無難だ。
だが思いの外、彼女のマインドはそこまで脆くはなかった様だ。
その根拠が意味深な返事の中に隠されている…
「分かってる…それを今日見つけたわ」
虹色のライトアップが幻想的な対岸のテーマパークへと架けられたベイブリッジをオートクルーズで走行中、僕は港に並列したガントリークレーンの赤い瞬きを眺めながら発言の真意に深入りしていた…
すると彼女は以前と変わらない親しげな口調で、その答えとなる質問を切り出す───
「ねぇ…今度はいつ会えるかしら」
「さぁ、それは君次第だね」
ためらいを残しつつも前向きな意外性に二度見した素振りを冷淡な態度と履き違えたのか…彼女は怪訝そうに斜に構えた。
「意地悪な言い方ね、女の私から二度も誘いをかけさせるつもり?」
しかしその甲斐なく、形勢は予防線を張っていた僕へと傾く。
「また急に会えなくなった…なんて言い出したりしてね」
「私の方からはもう、それは無いと思うけど…」
分が悪そうに肩をすぼめる彼女を見て、僕も自らに課した終焉をリセットする事にした。
オートクルーズを解除し、目的地までのルートに新たな通過点を登録する…
彼女には内緒だが二人が最初に出会った『ラストオーダー』というショットバーを経由する事にした。
今から行けば終電には間に合うだろう…
「一つ確認していい?」
「門限の事でしょ?…もう必要ないわ」
「だったら少し寄り道をするね」
僕はジャンクションの分岐案内に従い、タワーマンションの谷間から枝別れした接続路を右方向へ直進。
途中視界が開けると、ループ橋から彼女の自宅がある閑静な街並みを見下ろしながら、縦貫道となる本線へ合流した。
何も告げなければ彼女を不安がらせるが、計画を話せばサプライズが台無しとなる。
僅かな時間との賭けだったが、期待通りの答えに胸を撫で下ろすと、
「私からも聞いていい?
なぜ今日に限ってあのレストランにしたの?
苦い想い出しか残ってないのに…」
それは5年前の冬───
その店でのアクシデントが互いの仲を現在のファジースタイルへと軟化させた。
そのターニングポイントが時のジェラシーであっても、彼女にとっては忌まわしい障壁に変わりはなかった…
急な遠征で友達の企画するイベントに参加出来なかった彼女を誘ったのは、カレンダーが新しくなった最初の週末だった。
『クリスマスをやり直さないか?』
イブから14日後の朝───
急な連絡にも関わらず二つ返事で身支度を整えた彼女を連れ向かった先は、マカロンの様なピンク色の三角屋根が湖畔のアイスリンクに映える期間限定の施設チェルシーノエル…だが前日までの大雪で県境を越える幹線道路が塞がれ通行止めとなり、仕方なく迂回先で見つけたラウンジへと目的地を変更した。
90分を越える待ち時間にも関わらず、この流れに気を良くしていた彼女に理由を尋ねると…
『カフェを営む友達が常連になる程、フレンチで有名な店よ…メディアにも頻繁に取り上げられ、知る人ぞ知る隠れた人気店なの』
だが、その和やかな空気が一転したのは店内へ入った直後の事だった…
係員の案内に従いカウンター前のコーナー席へ座ると、真横のテーブルに昔の恋人がいたのだ。
出来すぎた偶然だが、当然彼女とは気まずいムードに…
彼氏の登場で疑いは直ぐにも晴れたが、暫く口を閉ざしていた彼女はムードを壊した償いとして"互いを縛らないルール”を提案。
危うい雲行きを払拭したい僕には幾つかの選択肢があったが…"それで彼女の気が晴れるなら”という安易な考えを優先、その取り決めに快諾した───
実はその席が向かいのルーフ側だった事を聞かされるまで、僕は完全にその過去を忘れていた…
「私は源を担ぐタイプではないけどジンクスに関しては容認派なの。
てっきり私は…そうなのかなって」
ジェラシーではないにしろ、気に掛ける仕草に…
「あれが罪な偶然だとしても今日の事は明らかな誤解さ、君が教えなくても気付いた後で後悔してただろうね」
「スマートな性格だけに甘い感傷がデリカシーを欠乏させたのかなって…
でも貶める気なんて更々ないのよ!?互いに過ぎた事だし…」
一瞬、口をつぐんだが開き直った様に笑顔を向けた。
「僕はそこまで無神経じゃないよ…卑屈な上、軽率な性格ともなれば慎む以前の問題だからね」
迷いの連鎖を断ち切る様に、彼女は努めて明るく振る舞った。
気丈なまでの本心は僕の知る限りではないが見据える眼差しが出会った頃と同じ、澄んだ海の様な蒼へと甦れば、結末がどうあれ憂う事はない。
「私だってそうよ…寛大なイメージが独り歩きしてるから、その分、素性としての手厳しさを持て余してるのかも…」
「だとすれば落胆させない様に気を付けないと」
「その心配なら無用よ…毅然とした心も揺るがない想いと誠実な助言者あっての事…その支えは何があっても変えるつもりなどないわ」
すると彼女は神妙な空気を入れ替える様に窓を開けると、
「…なので、あなたにだけチャンスを二度あげるわ。
来月の出張前に休暇申請が可能だからスケジュールを調整出来るの…御都合は?」
「その話なら後でゆっくり聞くよ」
「要は未定だから信用出来るプランじゃないって言いたいのね?
私が社交辞令でお願いした事がある?」
「では逆に聞くけど、僕に約束を破棄した前例が?」
「ないわ、一度足りともね」
「僕も右に同じ…だから君に任せるよ」
車はターミナルセンターを横目に目的地周辺の料金所を通過。
すると彼女は何かに気付いた様だ。
「この道って確か…」
「ビルは建て変わって高層タワーになったけど店の名前は以前のままだった。
1杯だけ付き合ってくれたら終電に間に合いそうだ」
「ラストオーダーだけに?でも随分と忙しいわね」
「そうでもないさ…13階より上はシュペリアル・オーランドという二つ星ホテルになってる。
港湾の夜景を一望出来る部屋を予約しておいたから今夜はそこで休むといいよ、明日のチェックアウトに合わせ迎えに行くから」
「でもその店は以前、交際してた元カレの勤務先よ?今はただのメル友だけど…」
「知ってるよ…共通の友人だしね、だからこの場所を選んだんだ。
新たなスタートとしてゆかりがあるだけでなく、気を紛らすにも都合のいいスペースだからね」
「素敵な計らいを有り難う、嬉しいわ…でも過ちは二度と起こさない、絶対にね」
「君を信じるよ」
「私もあなたの事、信じていいかしら?」
「僕にも夢があるんだ…それは君の夢が叶う事さ」
助手席ではしゃぐ彼女の無邪気な瞳が、少しだけ光ったように見えた…