よくよく考えると家に幽霊がいるのは単なるホラーな気もする
電信柱に背を預けて、雑踏を眺める。
都会の夜は眩しくてうるさくて、私には誰も気付かず、沢山の人が流れていく。
喧騒の中でひとりぼっち。
それが寂しいような、ほっとするような。
ああ、でも、毎日こうだからちょっとだけ退屈かなぁ。
私は夜の街で一人、ただ景色を見つめ続けていた。
コンビニに来るお客さんとか、夜遊びしている高校生とか。
時々、酔っ払い同士の喧嘩もあったっけ。
ネオンに照らし出された夜の街には、前は気にも留めなかったけれど、色々な人がいる。
喧騒はまるで波音。私の声はかき消されて、人の波に飲まれていく。
ずっと同じところに立ち尽くして、もう何日も何日もここにいるのに、誰も気付いてくれない。
一人っきり。
……なんて、それはこうなる前からか。
「こんばんは、お嬢さん」
だけどその日は違った。
四十後半くらいだろうか、男の人が声をかけてきた。
びっくりして上手く反応をできなかったけれど、ちょっと強面なその男の人は怒ったりせず、私の言葉を待ってくれている。
誰にも見えていない。
そう思っていたのに、目はまっすぐ私を捉えていて。
『……もしかして、私が、見えているんですか?』
それでも私に話しかけてくれるなんて信じられなくて。
思わずそう聞き返してしまった。
「ああ」
『びっくりしました。声をかけてもらうのなんて、初めてですから。こういうの、ナンパって言うんですよね?』
「おいおい、勘弁してくれ。これでも愛妻家で通ってるんだ」
男の人は下心なんてまるで感じさせない。勿論ナンパじゃないんだろうけれど、私の言葉に乗って小さく笑ってくれた。
こんな会話いつ振りだろう。久しぶりのお喋りが嬉しい。
『おじさん、何か私に用ですか?』
「用件という程でもないかな。ただ、娘が同じ年頃なものだから、つい心配で声をかけてしまった」
『あはは、だったらちょっと遅かったです』
「そのようだ」
申し訳なさそうに男の人……おじさんは肩を竦める。
そう、遅かった。
おじさんは何かあったらいけないと声をかけてくれたらしいが、残念なことにもう何かあった後。
『私、ここで交通事故に遭って、もう死んじゃいました』
私は幽霊。
電柱に背を預けて、夜の街を眺め続ける。つまり地縛霊というヤツなんだろう。
だから誰にも気づかれない。話しかけられず、目もむけられない。
今夜のような出来事の方が例外なのだ。
『だからごめんなさい、おじさん。私なんかに話しかけてもいいことないですよ。取り憑かれちゃうかも』
脅かすように言っても、おじさんはやっぱり動揺なんて全然しない。
それどころか優しく笑みを落として、穏やかに語り掛けてくれる。
「そいつは怖いな。なら明日、お供え物を持ってくるから許してくれないか」
もう体を失ってしまった。
心臓だって壊れて。
ならば、とくんと脈を打ったものはなんだったのだろうか。
◆
どうも、嫁子です。
今晩は夜の街でラバーウォッチング(愛する人の普段の姿を気付かれないよう観察して楽しむ)をしております。
さて皆さん、うちの旦那の離れ業にお気付きでしょうか。
『夜の街に佇む幽霊少女と偶然出会う』、『少女がカワイイ系』、『街には大量の人がいるのに旦那だけが幽霊少女に気付く』『ちょっとした会話だけで気に入られる』『自然な流れで明日も会う約束』。
これだけの偶然を軽々とモノにする。しかも僅か一時間の間に成し遂げる。それがうちの旦那なのです。
いやいや、なんでただ街を歩くだけで美少女幽霊と出会うかなぁ。おかしいでしょ。おかしいよね?
おかしいのは私じゃなくて世界の法則の方だよね? 普通に生きてたらそんなイベント起こらない筈なんですよ。
おお、恐ろしや。我が夫ながらなんという事件遭遇率。
まあこれでも彼の妻ですから、多少の引っ掛かりはあれど邪魔なんてしない。
旦那に妙な下心はないと分かり切っていることだし。
そもそも私にできることなんて帰ってお茶とお菓子を準備するくらいのもの。
いい女を自負する嫁子は素直に帰るのだ。
なおラバーウォッチングは尾行の気配に気付ける旦那のような方以外にやると普通に犯罪なのでご注意お願いします。
◆
ぼんやり街を眺める幽霊。
誰にも気付かれない、声もかけられない。
それが寂しくて、でもほっとするのは、言い訳が出来たから。
だって幽霊だ。話しかけられなくても、誰の目に留まらなくても。
……ひとりぼっちでも、しかたないじゃないか。
なんて、誤魔化し切れるものでもない。
私が独りぼっちなのに、幽霊になったことは関係ない。
前から一緒だった。
高校生になって、でもクラスに友達はいなくて。
窓際の席で一人騒がしくはしゃぐ誰かを眺めるだけの日々。
自分から声をかけるなんてできなかった。
だって、私は。
「こんばんは」
無為な思考はそこで途切れる。
夜の街で、おじさんと密会。まるで援助交際をする軽い女の子みたいだな、なんて思った。
私は地味で目立たなかったから、この状況が少し不思議。ああ、でも、援助交際の方が自分で選べる分まだマシだったのかなぁ。
『こんばんは、おじさん。その花束は?』
「君へのプレゼントだ。少し気取り過ぎだったかな?」
『そうかも。花束を贈る男の人って、ドラマの中だけじゃなかったんですね』
受け取ろうとしても透き通るだけだから、足元に捧げられる花束。
でもそれが正しい形か。亡くなった場所に置かれる花。よく見る光景だ。
『ありがとう……なのかな、これ?』
「どうだろう。なんなら一緒に饅頭でも置いておくか?」
『やめてください。そうすると完全にお供え物だから』
どうもプレゼントされたって気分にならない。
だけど初めて送られた花束だから、やっぱりそれなりには嬉しかった。
『まあ、うん。一応、ありがとうございます』
「どういたしまして」
言いながらおじさんは私と同じ電柱に背を預ける。
自然と二人は別の方向を見る。重ならない景色は、
『おじさんは、変な人ですね』
「幽霊に話かけることが? それとも態度の方か? できれば顔の造りの話でないと嬉しいな」
『あはは、大丈夫。ちゃんとイケメンですよ』
そこはお世辞ではなく。
ちょっと年齢はいっているけど、十分おじさんはカッコイイ。むしろ地味な私の方が不釣り合いなくらい。
だから変なのは他の事だ。
『幽霊が、じゃなくて。私に話しかけるのが、変だなって。……生きてる頃も、こんな風に喋ったりするなんて滅多になかったから』
高校生になって程なくして私は交通事故に遭った。
自業自得と言えばそうだろう。クラスになじめなくて、家にも帰りたくなくて、ふらふら夜の街をさまよっているところで車に引かれた。
そうして気付けば幽霊生活。
生前と何も変わらない。
誰にも気付かれず、声もかけられず、ただ流れる景色を視るだけ。
死んだから幽霊になったんじゃない。
私は、そもそも幽霊だったんだ。
「最近の幽霊は色々悩むんだな」
……そんな私の愚痴を聞きながら、おじさんはコンビニで買ったカップ酒を飲んでいる。
結構マジメな話をしているつもりだったんだけど、その態度はないんじゃないかな。
『ねえ、おじさん?』
「やらないぞ?」
『いらない。そうじゃなくて、私けっこー重い話してると思うんだけど』
「だろうな。だが、言えることがある訳でもない」
そっと覗き見る横顔。
少しだけ寂しそうな笑み。
私の知っている誰かの顔は、学校の先生の煩わしそうな目で、両親の興味なさげな表情。楽しそうにはしゃぐ赤の他人か、何も関係ないクラスメイトたちの無関心や、見下すような嘲りの色。
けれどおじさんは遠い目で、透明で、弱々しく微笑む。
私みたいな子供相手に、大人がそんな顔をするなんて思っても見なかった。
「こうして話しかけても、報われぬ君の最後がなかったことにはならない。幽霊と称した生前の日々は取り返しがつかないし、生き返らせてもやれはしない。本当は、言えることなんてなにもないんだ」
生きている間に報われなかった者が死んでから報われるなどあり得ない。
そんなお伽話、在る筈がない。
ああ、彼の言う通りだ。
私だって、それを嫌って程思い知っていて。
『なら、どうして私に話しかけたんですか?』
「最初に言っただろう? 娘と同じ年頃だからな、単に心配だった」
『……本当に、それだけ?』
「ああ。父親になるとな、心に余分が出来てしまうものなんだ」
肩を竦めるおじさんの心は、彼の言う余分が何を意味するのかはわたしには分からない。
結局言葉はそこで途切れ、夜の街の喧騒に今日は二人でひとりぼっちずつ。
どこまでいっても、私は幽霊だった。
◆
こうして始まった二人の交流は、それからも続いた。
言えることなど何もない。そう言ったおじさんは、確かにお説教とか成仏しなさいとか、そういう話は一切しない
ただ毎夜私に会いに来てカップ酒一杯分の時間を此処で過ごす。
交わす雑談は些細なもの。
うちの嫁は美人だとか。娘はいい子だとか。
酔っ払いを見て「酒に飲まれるのは酒飲みの恥だ」なんて憮然とした表情を作ったり、最近の若い子の話題にはついていけないと弱音を吐いたりもした。
『じゃあ、私以外の幽霊にも会ったことがあるんですか?』
「それなりにはな」
『だから最初の時あんまり驚いていなかったんですね』
気になったのは、他の幽霊の話。
おじさんは昔からそういったオカルトな現象に縁が深かったらしく、私以外にも幽霊と話す機会があったそうだ。
『おじさんが会ったのは、どんな感じでした?』
「まあ、色々かな。人に悪人善人がいるのと同じく、恨みを撒き散らす悪霊もいれば、優しい子だっている。幽霊と言っても、そう大きく変わるものでもない」
当たり前と言ったら当たり前なのだろう。
死んだからって劇的に何かが変わる訳でもないと身をもって知った。きっと悪人は死んでも悪いままで、いい人は死んでも優しくて。
『じゃあ、私みたいなどうしようもない奴は、死んだところでどうしようもない奴のまま、ですね』
生きてる頃から幽霊だった。
だからきっと幽霊になった。
初めから何も変わっていない。生きていても死んでいても、透けて見えない、誰にも気にされない。私はそういう幽霊のまままだ。
「そんなことはないさ」
でもおじさんは相変わらずお酒を呑みながら投げやりな否定。
それは流石にイラっと来た。何も知らないくせに、そう思ってしまう。
『おじさんに、なにが分かるんですか。私のこと、何も知らないくせに。今が幸せな人に、私の気持ちなんて、分からない』
八つ当たりだった。
八つ当たりで、唯一話しかけてくれた人に暴言を吐いた。
言ってから後悔する。ああ、本当にどうしようもない。こんなだから、私は幽霊だった。生きていてもいないものとして扱われたのは、結局私がどうしようもない奴だからに他らないのだ。
「ああ、いや、済まない。勘違いさせた」
「え?」
「私は君の過去を知らない。だから言えることなど何もない。先程のは、単に幽霊の話だよ」
普通に謝られてしまい、肩透かしを食らったような気分になる。
おじさんは私の八つ当たりにも全然気にしていない様子。そもそも、別に私の過去を言及したのではないという。
……すごく、恥ずかしい。勝手に怒って勝手に怒鳴って。なんというか、心底情けない。
「君は勘違いしている。別に幽霊は変わらない訳じゃないぞ」
だけどおじさんは笑ってくれる。
穏やかに。まるで泣いている子供を慰めるお父さんのようだ。
「死んで花実が咲くものか、と人はいう。けれどそれは嘘だと俺は思うよ」
志半ばに死を迎えても、遺された想いの為すものがある。
なら幽霊だって変わっていけるさ。
生きていた頃には触れられなかった暖かさにだって出会える日も来るだろう。
『そういう、ものでしょうか』
彼の言うことはよく分からず、私は戸惑ったまま。
お酒を呑み終えた彼は、小さな笑みを落とし、電信柱から離れていく。
「少なくとも俺はそう思っている。失くした過去が返ってくることはなくとも……新しい何かが道行の先に見つからないとは限らないよ」
私の反応なんて見ないで、軽く手を振って喧騒に紛れる。
小さくなっていく背中。
それに何を想ったかは、私自身よく分からなくて。
だけど思う。
死んで花実が咲くものか、と人は言う。
生きていてこそいい時もあるので、死んでしまえば、万事おしまい。
それがきっと普通で、当たり前で。
でも、この一瞬は。
確かに、生きていた頃には触れられなかった暖かさなのではないだろうか。
◆
うちの旦那は元主人公だ。
それも主人公補正が切れていないものだから、なにもしなくても事件を引き寄せ、なにもしなくても女の子を惹き付け、時には幽霊と出会ってあれこれしちゃうこともある。
ていうか、旦那のヒロイン攻略能力は尋常じゃないのだ。
まあ二日もあれば墜とせるね。
それが幽霊であっても、まず間違いなく、なんの問題もなく、ハーレム要員に変えてしまう。
我が夫ながら恐ろしい。
いや、まあ、本人にはそういう下心はまるでなく、私一筋なのは知っている。
浮気なんて絶対しないと知っているが、やっぱり妻としては頭の痛い毎日で。
でも惚れた弱み。
私に出来るのは、せいぜいお茶とお菓子を準備するくらいだろう。
「なあ」
「どうしたの、あなた?」
「よくよく考えてみたんだが、妻子のいる男が女の子に花を贈るのは、やはりよろしくないものか?」
ある休日、台所で三時のお茶を準備している私に、ふと旦那が聞いてきた。
最近は不倫が流行っているので、妻子ある男性の行動というのは色々と正さなければいけない部分もある。
ただこれに関しては、個人的には別に構わないと思う。
「一般論は知らないけど、私は別に気にしないかなぁ」
だって、きっと貴方が贈る花には意味がある。
誰かの心に届いて、救われるものがそこにある。
なら、いいじゃないか。
嫉妬なんてしない。私が好きになったのは、そういう優しい貴方だから。
口にしなかった私の内心を正確に読み取って、旦那は小さく笑みを落とす。
「ありがとう。……君が傍にいてくれてよかった」
「いいよー。そんなことで感謝されたら、私なんて毎日五体投地状態で生活しないといけなくなるから」
「そいつはちょっと奇妙な日常になるな」
「仕方ないでしょ? 私の毎日はありがとうと大好きでいっぱいなのです」
言葉にしなくちゃ伝わらない想いがあるなら、言葉にしないから交わる心もある。
そのどちらもを大切にできるのが夫婦だと思う。
旦那はリビングで新聞を読む、私は台所でかちゃかちゃしてる。でもちゃんと繋がってるって信じられる。愛情って、きっとそういうことだ。
「さ、皆でお茶の時間にしましょうか」
まあ小難しい話はどうでもいい。
今日はお休み、ムッスコもギャル子もいるので、ドロビッチのバイト先で買ってきたパウンドケーキでお茶の時間。
うちの子供達はいい子なので、高校生になってもこういう時間を嫌がらないでいてくれる。
「やったー、あそこの店のおいしいよねー」
声をかければ甘いものが好きなギャル子はニコニコ笑顔。ムッスコも嫌いじゃないので拒否はしない。
リビングにお茶とケーキを並べて、皆で手を合わせていただきます。
穏やかな休日の午後を家族で過ごす。こんなに幸せでいいのかって思ってしまうくらいに暖かな景色だ。
「あれ、お皿多くない?」
ただパウンドケーキを頬張りつつ、ギャル子は不思議そうにしている。
旦那に私、ムッスコにギャル子。上のお兄ちゃんがいないから、私たち家族は四人。
テーブルに並べられたお皿は五つ。
「ねー、ママ。なんで五つあんの?」
その問いに、少しだけ旦那の口元が緩んだ。
優しい目で私を見て、私はそれを見つめ返す。
二人は通じ合うけれど、子供達には意味が分からなかっただろう。
だから私はちょっとだけ自慢げに答える。
「そりゃあ、私は妻ですので」
言葉にしなくちゃ伝わらない想いがあるなら、言葉にしないから交わる心もある。
だから、この一皿の意味は、あなたにだけ分かればいいのだ。