旦那とムッスコとドロビッチ劇場
焼けたアスファルト踏みしめて、遠くには揺れる陽炎が。
“フライパンの上みたい”と言えばちょっと遅れて君が笑う。
少し重くなる空の青さ、咽るくらい緑の香りは濃くて。
見渡せばそこかしこに眩しく懐かしい夏の気配があった。
途中買った自販機のサイダー、冷たさに湧く悪戯心。
君の頬へ押し付けて、驚く姿に僕は笑う。
ちょっと怒って先に歩いて行ってしまう女の子。失敗したかな、なんてその後を慌てて付いていく。
言い訳じみた謝罪にむくれた彼女も少しだけ笑って。
響く蝉時雨に薄れる二人の声が何故かとても心地良かった。
横たわる夏に映し出される二人の影法師。
重なるには遠い?
でも詰められない距離に、影は少しだけ触れて。
まるで手を繋いでるみたい、なんて言ったらキミはどんな顔をするだろう。
今も思い出す景色がある。
幼いキミと並んで歩いた夏。
『大きくなったら、結婚してくれる?』
子供の頃の小さな約束。
キミは、なんて答えたっけ?
◆
うちの旦那は世界を救ったことがある。
比喩でなく、真面目に。
あれである。世の中には不可思議な現象というのはたくさんあって、気付かないだけで、街にも様々なモンスター的な奴らが存在している。
その手の奴らは往々にして、現代社会とは相容れず、普通に生きる人々を殺したり犯したりと、理外の力で食い物にしていた。
勿論テレビのニュースには流れないけど、そういう異形達は確かにいて。
それを見過ごせなかった、少し特殊な生まれだった若かりし頃の旦那はその手に剣をとり闘い、陰ながら討ち払うことを生業としていた。
最初は目に見える人を守りたかっただけなのかもしれない。
でも長く続く闘いの日々、その果てに現れたのは、世界を滅ぼさんとする魔神的なサムシングだった。
旦那は、戦った。
強大な敵にも怯まず、己が意を通す為に。
皮膚が裂け、肉を抉られ、骨が折れ、心さえ砕かれそうになっても。
揺らがず、退かず。
突き付けられた苦難を真っ向からねじ伏せ、ついには世界を滅ぼす魔神さえも重複して見せたのである。
まー、信じられないかもしれないが。
私の愛しい愛しい旦那様は、そういった物語の主人公じみた男性だったのだ。
私が彼と出会ったのは高校時代。
偶然にもそういうモンスターと戦う彼のことを知ったのが交流の始まりだった。
現代社会に潜む化け物、それを討ち滅ぼす能力者。知ったばかりだった当時は、非現実的なお話に随分高揚していたと思う。
もっとも、若かりし頃の旦那が抱いていた苦悩などを知るうちにミーハーな感情は鳴りを潜めたけれど。
そしてそんな彼が胸に宿した矜持や決意を知る度に、私は、まあ、なんというか。
ただの偶然の出会いから知人に、気心知れた友人に。寂しそうな横顔に心惹かれて恋したり。
戦いを終えて平穏が戻り、私の方から告白して恋人になれば。
なんやかんやで紆余曲折、今はこうして二人は夫婦。
心も体も結ばれた私達は、男の子二人に女の子一人、子宝にも恵まれ幸せな毎日を過ごしていた。
出会った頃は、正直こんな風になるとは思っていなかった。
そりゃあカッコイイとは思っていたけど。恋人になったり、ましてや夫婦になるなんて。
少し照れるけど、こうなれて嬉しい。それが素直な私の感想だ。
ただ、問題がないという訳でもなかった。
ああ、断っておくけれど旦那には何ら不満はない。
今も若々しくてカッコイイし、禿げたり太ったりもしていない。
家事や育児にも協力的で、収入だって悪くない。
何より誠実で嘘を吐かず、結婚して十年以上経つ今も私にまっすぐな愛情を注いでくれる。
もうね、浮気とか絶対しないし。他の女の人に目を奪われたりもない。
愛しい我が娘に「パパと結婚する!」とか言われても、「それは困った、俺にはママがいるしな」と真面目に返しちゃうくらい融通が利かなくて、私のことが大好きな旦那様だ。
そういう彼が私も大好きで、心から愛していて。
でも問題はある。
繰り返すが、彼は物語の主人公のような男性だった。
そして困ったことに。
───主人公補正が切れてねえ。
旦那は、結婚してからも主人公のような男性だった。
そんで主人公補正が切れてないのだ。
具体例を挙げれば、街を歩いていると何者かに追われている美少女に遭遇したり。それを見捨てられず戦えば、何らかの陰謀に巻き込まれたりする。事件が彼を呼ぶのか、彼が事件を呼ぶのか分からないが。
他にも何故か劇的なタイミングになったり。この前は今まさに不良に殴られそうになっている女の子をドンピシャで助けたりしてた。出待ちしてたんじゃないかと思うくらいだ。
後は、彼の選択は基本正解になる。その時は間違っているように見えても、巡り巡って旦那に利する結果が出るのは日常茶飯事だ。何気なく助けた子供が大会社の社長の息子で、妙な伝手が出来てしまった時は笑った。
とまあ、そんな感じで大抵彼にやることはいい方に転がっていく。
そして主人公補正の最たるものもいまだ健在だ。
「旦那さん……ずっと前から、本当に小さな子供の頃から」
うちの旦那、モテる。
不自然なくらいモテる。
事件に遭遇して美少女助けて惚れられる。一体そんなことが何度あったか。もうこっちが泣きたくなるくらいにモテる。
「私、貴方が好きです!」
まあ取り敢えず言えることは。
うちの、リビング、マジ修羅場。
◆
さて、長々と語ったが、うちのリビングは今現在大変な修羅場に巻き込まれています。
私の名前は……いや、身バレしても困る。しかし呼び名がないとやりにくいので、ここは仮称として嫁子と名乗っておこう。
「私が、貴方が好きです!」
で、嫁子こと私は家族団らんの夕食後、何故か女子高生から宣戦布告を受けていた。
具体的に言うと旦那が告白されていた。
リビングには私、旦那。向かい合わせの形で女子高生と私の息子が座っている。
なんでも彼女は小さな頃からうちの旦那が好きで、隠しておくつもりだったがもう我慢できず、想いを伝える為に訪ねてきたそうだ。
当然旦那からなんかモーションかけたのではない。普通にしてたら勝手に向こうが惚れたのだ。
相変わらずの主人公補正。なんか女の子引き付けるフェロモンでも出してるんだろうか。
「私のこと、どう思いますか?」
そう聞いてくる女子高生は、女の私の目から見ても可愛い。
今時珍しい長い黒髪に、ほっそりとした体付き。纏う制服のきっちりとした着こなしが清楚な印象が醸し出す。
うちの旦那だから心配はしないけど、彼女に惹かれる男は多いだろう。特におっさん世代は女子高生好きだし。
ま、うちの? 旦那は? 私一筋だけど?
「……まあ、慕われるのは、素直に嬉しいと思うんだが。ただ俺も、もう中年だからな。君みたいに若い子に惚れられるような男でもないというか、なんというか」
「中年なんて、そんなことないです!」
女子高生は物凄い勢いで旦那の中年発言を否定する。そこに関しては私も同意、まだまだ旦那は若いのだから。
ていうかイチイチ女子高生って言い難いな。
ここからは呼称を変更。旦那を狙う泥棒猫のビッチなので、合わせてドロビッチと呼ぼう。発音はゼリーの入ったあのドリンクと同じでお願いします。
「旦那さんは今でも格好良くて頼りになって。私が泣いていると、いつも頭を撫でて慰めてくれて。あの優しい笑顔が、私の初恋で。今もそれは続いているんです……」
注・セリフ中のドロビッチや旦那さんというのは表記上の処理であり、実際には下の名前で呼んでいます。特定されない為の仕様です。
ていうか旦那、やりやがったな。
あんなに言ったでしょうが、貴方の頭なでなでは主人公補正付き、破壊力が強すぎるんだって。簡単に惚れられちゃうんだって。
にこっ、て笑顔もプラスしたらもうダメ。取り返しがつかないことになるって、あんなにも口を酸っぱくしていったのに。
「いやいや、美化が過ぎる」
「旦那さんは、私のことが嫌いですか?」
「そんな筈ないだろう。昔から知っているしな。面映ゆくはあるが、実の娘のように可愛いと思っているよ」
「嬉しい……」
頬を赤く染めて、夢見心地に目がとろんとしている。
そんで旦那は戸惑ってる。
いや、そりゃそうでしょうよ。だって相手のドロビッチが問題だ。
「嫁子さん、ごめんなさい。私、どうしてもこの想いが抑えきれなかったの。旦那さんは嫁子さんを愛しているって知っているのに」
「あ、いや、私は別にいいんだけどね。どっちかって言うと貴女の隣で白目剥いてる私の可愛い息子に気遣い的なサムシングが欲しいかなーって」
だってこの修羅場で一番ダメージでかいの旦那でも私でもなくて私の息子だ。
よし、身バレを防ぐため、以後息子のことは名前を使わずムッスコと表記しよう。
それで、だ。
ドロビッチから旦那に告白。このシチュエーションで何故ムッスコがいるのか、説明せねばなるまい。
といっても複雑な事情は全くない。
単にドロビッチ、うちにムッスコの幼馴染だからね。
ちなみに冒頭で夏の甘酸っぱい青春を過ごし、ムッスコが「大きくなったら結婚しようね」って求婚した相手が彼女なのだ。
「ど、ドロビッチ。なんでだよ、なんでオヤジに……」
ムッスコとドロビッチは幼馴染。
通う高校もクラスも一緒で、仲が良く、周囲には夫婦とからかわれることもしばしばと聞いた。
小さな頃から好きだった相手。
仲もいいと思っていた。
もしかしたらこのまま付き合ったりしちゃうんじゃないかなー、って期待もあっただろう。
でも実際蓋を開けてみれば自分には脈なし、父親に告白。ムッスコの困惑も分かる。
「俺、ずっとドロビッチが好きで」
「ムッスコ君……ごめんなさい。貴方の気持ちには応えられない」
「そんな、今迄仲良くやって来れたと思ったのに。俺はお前のこと。いつも一緒で、クラスでも、夫婦みたいだって言われて」
「昔、告白された時から気持ちは変わってないの。私、旦那さんが好き」
ちなみに小さい頃の告白、普通に断られたらしい。
断った理由は「貴方のお父さんが好きだから」。
最初っから脈はなかった訳で、それをずっと一緒に居たからって「あれ、断られたけどやっぱりこの子俺が好きなんじゃね?」的な勘違いしたムッスコにも問題がない訳ではない。
「それに貴方と仲良くしてたのは、旦那さんとの接点を確保するためというか」
だけどそれ言っちゃダメだろ。例え本当だとしても言っちゃいけないことってあるだろ。
とどめの一言にぐしゃっ、と崩れ落ちるムッスコ。
旦那は「今後の親子関係に重大な亀裂が……」とか呟いてる。愁いを帯びた横顔も超カッコイイ。
私はそんな中、何も出来ず状況を見詰めるだけ。なんぞこれ。
「あー、いや、ドロビッチちゃん。気持ちは嬉しいんだが、俺は嫁子を愛している。連れ合いには彼女以外考えられない。君を可愛いと言ったのも、あくまで子供に対するそれ。女性として意識することは後にも先にもない。だから、こんな中年に拘るのはやめなさい。若いんだ、もっと素晴らしい出会いが待っているさ」
「……旦那さんならそう言うって分かってました。でも、諦められません。たとえ貴方が私を好きにならないとしても、この想いを捨てるなんてできない!」
「この子タフだな……」
ぼそっと零れた旦那の本音の呟きに思わず同意。
真正面から否定されて尚も重ねて想いを告げるなんてなかなかできない。というかイチズを越えてストーカーっぽい。旦那の冷静な大人の態度も若干崩れて、ちょっと冷や汗垂らしていた。
だがそこで諦める彼ではない。
「では、はっきり言おう。付き纏われるのは迷惑だ」
「そう言って嫌われて、諦めさせようとしているんですよね? 嬉しいです、旦那さんは私のこれからを慮ってくれている」
「ぐぅ」
でもそんな雑な大振りして、見事にカウンター喰らわされてどうする。
まあ基本女子供に優しい旦那にそういった器用な真似は期待してないんだけどね。
「そもそもだな。君は若いし、可愛らしい。引く手数多だろう。例えば同じ学校の生徒と付き合った方が、自然だとは思わないか?」
諦めず言い募るが、鉄壁のドロビッチには何ら効果ない。
ちょっと俯いて、悲しそうに首を横に振って反論する。
「旦那さん以上に好きになれる人なんて、想像がつきません。それに、クラスの男の子は、恋愛対象には。だって横目で胸を覗き見たりするし」
「ぐはっ……」
「試験勉強の名目で部屋に呼び出しておいて、ちょっとした拍子に指先に触れようとしたり」
「げふぁっ」
「なんかことあるごとに髪に触ったり」
「あがっ、ぎゃ」
「付き合ってもいないのに、オデコを人差し指でつついて『こいつぅー』とかすごく寒かったし!」
「ぐぉあぅぐぅっぅぅ!?」
「クラスのみんなの前で『まったくこのお姫様は、俺がいなきゃだめだなぁ』とか、そんな人、絶対好きになりません!」
「あ、ああああああああああああああああああああああ!?」
ムッスコが、ムッスコが!?
あまりに容赦ない死体蹴りによって、床に突っ伏した愛しい息子の体がビクンビクン痙攣してる。
やったの? 今言ったやつ全部やったの?
だとしたら、あれだよね。ムッスコ、多分あんた旦那のことがなくてもドロビッチと上手くいってないよ。告白しても普通にフラれてるわ。
「あー、熱弁どうも。だが、何度も言うように、俺は嫁子を愛している。だから君を」
「分かっています。私も嫁子さんには小さい頃からお世話になっていて。嫁子さんのことだって大好きなんです。だから、奪おうなんて考えていません」
「では」
「いいんです。嫁子さんが一番で。だけど二番目でも、都合のいい女でも構わない。愛してほしいとも望まない、ただ貴方を愛させてほしいんです……!」
「いやドロビッチちゃん、そういうのは嫁子の前で言うべきではないと俺は愚考するのだが」
「いいえ。私は旦那さんを愛していて、でも嫁子さんのことだって大好きですから。だから、傷付いてほしくない。私は愛人として扱うのが、一番いいと思います」
「君は基本、人の話を聞かないな」
ヒートアップ・ドロビッチ劇場。
やはりというか、彼女の落としどころは愛人という立ち位置。
我が旦那恐ろしや。なんたる主人公補正。女子高生を惚れさせたかと思えば、本妻に気を遣う都合のいい女、つまりハーレム要員に変えてしまうとは。
まあ一番困惑しての旦那だけど。彼、基本浮気二股の類嫌いだからね。
「えーっとね、ドロビッチちゃん。うちの旦那、そういうの苦手だから」
「嫁子さん、私、貴女のことも大好きです。お母さんよりも私に優しくしてくれて、なにより同じ人を愛したのだから」
「うん、あのね?」
「ちゃんと公の場では嫁子さんを立てます。少しだけ、悔しいけど。やっぱり旦那さんの一番は嫁子さんだから」
つつっ、と美しい涙が一筋。
可憐な女子高生は、どうやら私を立てつつ仲良くやっていき、愛人として旦那に仕える決意を固めたらしい。
これ、どうすればいいんだろう。
「だから、君を受け入れるつもりはないと言っているだろう」
「そんな、旦那さん!」
それでもやはり旦那は頑な。自らの主人公補正に抗い、ハーレム要員を退けようとする。
私は溜息を吐いた。
なんでこんなに冷静かって言うと、既にこういった状況はなんども経験しているから。流石にムッスコの幼馴染までこうなるとは思っていなかったけれど。
まあ、つまりうちの旦那は物語の主人公のような男性だ。
今も主人公補正は切れず、嫁である私は幸せながらに苦悩な日々を送っているのだ。
追記。
床に転がりながら負の感情に飲み込まれた私の愛し子は、邪神ムッスコみたいな感じの顔になっていました。
更に追記。
後日、娘が連れてきた友達が旦那に惚れてうちのリビングは再び修羅場になりました。