これから
翌、夏休み初日。
人生初の彼女ができて朝からデートの準備でウッハウハ、なんて気配は微塵もなかった。それもそのはず、午前十時現在、俺は自分の部屋で、親友であり恋敵でもある直弥と顔を突き合わすというわけのわからない状況の只中にあった。
「で、朝っぱらから何の用なんだ?」
昨日の今日で、という言葉は飲み込んだ。立場が逆なら直弥もそうするだろう。
「昨日汐里と、どんな話しながら帰った?」
窓の方を向きながら直弥はそんなことを聞いてきた。つられて目線が窓へと向かう。外に変わったものがないのはわかっている。つい窓を見てしまうのは二人で部屋にいるときの癖と言ってもいい。窓の向こう、二、三軒先には汐里の住む鈴谷家が建っているからだ。ちなみに直弥の家はここの真向かいだったりする。
「あー、主に直弥の話……?」
質問の意図を図りながら曖昧な記憶を辿る。なんせお互いに緊張していた、細かい内容などは覚えていない。俺はそれに加えかなり舞い上がっていたと思うし。
それが何だよ、と言葉にするより早く「やっぱりかー」と直弥は額を抑える。妙に感に触る動作だ。
「何だよ、大体いつものことだろう。三人の内その場にいない奴の話するなんて」
「だからダメなんだよ。大体自分の彼女に前に告白した男のことなんて聞かないだろ」
そりゃそうだろうけど、と心の中で納得しかけた時、不意に思考の片隅で引っかかるものを感じた。
「待て待て、そもそもお前は告白不成立の筈だろう」
「え? マジで気づいてなかったのか。俺おととい汐里に告白してたんだよ」
「っあぁ⁉」
は? 今こいつ何つった? 一昨日告白した? 一昨日って昨日の昨日だよな、でも直弥に言われた告白の日は確かに昨日の筈だろ? え、じゃあドユコトよ?
「あぁ⁉」
「二回も「あぁ⁉」って言うなよ……」
いや、何でそんな呆れ顔してんの、俺が悪いとでも⁉︎
「それ抜け駆けっていわねぇか⁉」
「甘いな、圭。俺は確かに言ったぞ、夏休み前最後の日に汐里の想いを確かめるってな。つまり、汐里に告白する日を指定してはいない!」
「世間的には十分抜け駆けだぁ!」
「……まあ、そんなささやかな裏切りは置いといて、だ」
ささやかじゃねぇよという思いはあったが、確かに結果だけを見ればその影響は微々たるものだったのだろう。抜け駆けをした方が断られているのだから。あるいはそのおかげで俺が選ばれたのかもしれないが、そう考えると少し複雑だった。
「いいか? お前と汐里はもう友達じゃなくて恋人なんだ。しっかり関係の区別をつけろ」
直弥は強めの口調でそう言う。汐里が関わることとなると途端に直弥は真面目になる。それが、自分とは直接関わりのない出来事であってもだ。いや、汐里のことだけでもないか。俺たち三人が関わることでは、こいつはいつも真面目だった。
「俺は、汐里のこと諦めたわけじゃない。けどお前らにはうまくいってほしいと思ってるんだ」
直弥なりに俺たちの今後を心配してくれているのはわかった。言いたいこともなんとなく理解できる。けれど、
「区別って言ったって、具体的にはどういうことを言ってるんだよ」
俺のその言葉に直弥は我が意を得たりとばかりに口角を上げた。
「単純な話、俺が一緒にいる時といない時で切り替えをしろってこと」
その言葉はなんとなくだが、すっと胸の中に入ってくるような納得感があった。
おそらく汐里とは少しの間、距離感を測りかねてギクシャクすることもあるだろう。そんな時直弥がいれば普段通りの接し方ができるかもしれない。そもそも直弥の前でい、イチャイチャなんてできるわけがない。俺だけじゃなく汐里も恥ずかしいだろうし、きっと引け目だってある。
新しい関係に慣れるまでの緩衝材に成ろうと、そう言ってくれているんだ。
「……さんきゅな」
「気にすんな。それに、お前らが遊んでくれないと俺も暇なんだよ」
妙に照れくさくなって部屋の中を視線がさまよう。目に付いた時計の針は、もう十一時を指すところだった。いつの間にか一時間も経っていたことになる。
「ちょっと早いけど、昼飯にしようぜ。朝食ってないだろ?」
「おお、起きてすぐこっちきたからな」
ニカッと音がしそうなほど快活に直弥は笑う。それはつい昨日失恋した奴の顔には到底見えなかった。
俺もちゃんとしないといけないなと、そう思わずにはいられなかった。
部屋からリビングへ向かう階段の途中「和洋中どれがいい?」「詳細を聞かせてくれよ」「和ならお茶漬け、洋ならパスタ、中ならラーメンだ」「ラーメン」「ならお茶漬けだな」なんて会話を交わしていると、突然玄関のチャイムが鳴り響いた。
「出てくるから茶漬け用意しといてくれ」
「おう、ラーメンな」
昼食の用意は直弥に任せて玄関へ向かう。お茶漬けとラーメン、どっちが出てくるかは五分五分と言ったところだろうか。
サンダルを引っ掛けドアノブに手を伸ばしたところで、催促するように再びチャイムが鳴った。「はーいどちらさまー?」と反射的に声を出しながら、急かされるままドアに手をつき押し開ける。と、
「お、おはよう……」
一つの手提げを両手で持った汐里が、少しだけ頬を赤らめて立っていた。
「……昨日の残りの筑前煮持ってきた。二人とも、ご飯まだでしょ?」
朗らかに笑いながら、汐里は持っていた手提げを差し出してくる。それを反射的に受け取ってはいたが、頭では何も考えられていなかった。今まででもこんな風に汐里がうちに来ることはよくあった。けど、それに特別な感情を持ったのは初めてかもしれない。不意打ちだった。まさか昨日の今日で、しかも直弥とあんな話をした直後のこんなタイミングで汐里本人が来るなんて思わないじゃないか。
「圭?」
「あ、」
汐里の呼びかけで我に戻る。俺がどんな感情を持っていようと関係ない。汐里が筑前煮を持ってきたというのなら俺のやることは一つだ。
「なおやー、白飯残ってるかー?」
呼びかけから数秒後。ザルを片手に玄関に顔を出した直弥は、汐里の姿を見てすぐに状況を理解したようで、ニヤッと何か企んでそうな笑みを俺に向けた。
「それ、俺の分もあるの?」
「うん、ここに来る前に直弥の家にも寄ったから」
「そうか……」
汐里が何か持ってきてくれる時は大抵、俺、直弥、汐里の三人分だ。今更確認する必要はないはずだが、汐里の答えを聞いた直弥は何か考え込むように顎に手をやった。
「俺、やっぱ昼はじいちゃんと一緒に食うよ」
そう言うなり直弥は俺が受け取った手提げからタッパーを一つ取り出し、そのまま靴を履き始める。
「お、おい、直弥……!」
「タッパー、洗って返すな。圭、俺がいなくなってもしっかりやれよ」
含みのある笑みを浮かべながら直弥は玄関を飛び出し、そのまま目の前の道を走って行った。自分の家に帰らなかったところを見ると、祖父と一緒に食べるというのは本当のようだ。直弥の祖父は入院中で、ここから徒歩で三十分ほどの場所の病院にいる。
直弥の家は母子家庭だ。直弥がまだ二歳の時に離婚し、母親に引き取られて今の家に来た。それから母親は仕事仕事でろくに顔も合わせない生活が続いているらしい。その結果今の俺たちの関係があるのだから、一概に悪いことばかりだとは言えないと、以前何かの機会に言っていた。
「直弥のじいちゃん、あんまり良くないのかな」
そんなこともあってか、直弥の祖父母は彼の親代りだ。俺と汐里も遊びに行った時によくお世話になった。確か今年で八十九歳。どこが悪い、ということではなく、寝たきりらしかった。
家に帰れば祖母と二人。幸い祖母は少し耳が遠いくらいでボケらしいボケもなく元気らしい。直弥も、元気すぎて困ると言って楽しそうに笑っていた。
それでも、直弥がクラスの中でバカみたいに明るいのは……。
「……どうなんだろうね」
汐里も同じようなことを考えているのだろう。その声はどうしようもなく暗く聞こえた。
「……俺たちさ、付き合うことにしただろ?」
「……うん……」
俺の唐突な問いに汐里は顔を赤らめながら頷く。かわいい、じゃなくてっ。
「さっき、汐里が来る前に話してたんだ、そのこと」
「私たちの、これからとか?」
「そう。それで思ったんだよ。俺たちの関係に一番思うところがあるのは直弥だろうけど、一番真剣に俺たち
のこと考えてくれてるのも直弥なんだよなって」
「それは、……そうだね」
お人好しだもんね、と呟いて、汐里は優しく笑った。
「だから俺も、直弥のためにできることはしたい。それが、あいつのバカに付き合って寂しさ紛らわすことだけだったとしても、何もできないよりはいい」
気付けば、直弥が走って行った道を見つめてそんなことを言っていた。後から思い出せば悶絶確定の小っ恥ずかしいセリフだ。もし直弥が聞いていれば「Fu〜、青春だナー」なんてちゃちゃを入れること間違いなし。けれど、こんなこと今しか言えない。三人の関係を見直す機会なんてそうそう無いのだ。
「私も」
汐里が躊躇いがちに俺の手に触れる。
「私もいるから」
最初弱々しかった汐里の手は、だんだんと力強く俺の手を握ってきて。
「うん」
それに応えたくて、その柔らかな手の存在を確かめるように握り返した。




