事件報告書File.06「鋭利誘拐」-2/2
◆◇◆
――午前八時四十分。
横浜市港北区 私立大倉山学園。
「ふぅ……これで五人目ですか……」
流石に、疲れた表情を見せる有村陽子警部補だった。
大倉山学園の視聴覚教室。ここで学園内での殺人事件の報告を受ける。依然、外は雨が降り続いている。
菅野絹子邸での鑑識作業に立ち会っている最中に、有村に電話が掛かってきた。
有村が、西原真理亜と渡辺昴が立ち寄らないかと、学園に派遣した刑事からの連絡だった。学校の始まる前。午前八時に到着した港北署の刑事達が、校舎内で刺殺されている遺体を発見したのだ。
連絡は直ぐさま入る。有村と須川は急いで駆け付けた。車で十分も掛からない距離だったのだ。
「何もかも、先回りされていますね」
須川は有村に向けて言った。完全に後手に回っている。犯人に振り回されている!
「ここで流れを断ち切らないと、犯人にみすみす逃げ切られてしまう!」
悔しげな表情だった。もしかすると、彼女が人生で初めて味わった敗北感なのかも知れない。須川は思っていた。警察庁長官を父親に持つ、エリート中のエリート官僚。憔悴する彼女は年相応の表情に見えた。そうだった、彼女はまだ二十三歳のうら若き乙女なのだ。
「何でも命令してくれ。協力は惜しまない」
神奈川県警中原署の戸部警部も同行していた。急遽彼も、警察庁特別広域捜査班に配属されたのだ。彼が追っている西原麻由美殺害犯と、一連の殺人事件は同一犯であるとの有村警部補の見解だ。
「ありがとうございます。私は、これから情報を一元化したいと考えています。田園調布署の本部には、古田宗治警部に詰めてもらって、連絡を逐一私に上げてもらう手筈が整いました。須川さん……暫く家に帰られないと思いますよ」
「え?」
上司は満面の笑みを浮かべていた。恐ろしい笑顔だと須川は思った。
「取り敢えず、神奈川県警本部・生活安全部・生活保安課の西宮和也巡査部長に、こちらに出向いてもらいましょう」
そう言って有村警部補は、視聴覚室の教卓部分の椅子に腰掛けた。携帯電話を取り出して電話を掛けていた。
「ここに呼ぶのか?」
戸部警部は教室を見渡している。
「エエ、暫くは休校だそうですよ。生徒会長とその両親が殺されて、重要参考人の二人の学生は逃亡中。オマケに学校内で殺しですもんね。登校した生徒達は、そのまま家に帰され、職員は緊急会議中……」
須川は、有村に指示され運び込まれた電話機・FAX・コピー機のセッティングを始めていた。
「学校も災難だな……」
戸部が有村を見やると、教室正面のホワイトボードに何やら書き始めていた。電話での会話も続けている。忙しいな――戸部は、床を這うケーブル類を避けながら教室の窓際まで移動する。
「禁煙ですよ!」
電話を切った有村が、戸部を指さして叫んだ。
「まあ、そうだわな……」
内ポケットから取り出した、ラッキー○トライクの箱をもう一度仕舞う警部だった。
「戸部さん来て下さい!」
警部補に呼ばれて、ホワイトボードの前にゆっくりと移動する。ジッポーライターの蓋をカチカチやっていた。ヤニ切れで少々苛ついているのだ。
「有村さん。このパソコン……」
教卓に乗ったノートパソコンに、LANケーブルを接続していた須川が有村の顔を見る。
「渡辺昴の家にあったパソコンです。意外とサクサク動くので持ってきました。中身をチェックしようと思ってましたが、時間がなかったのでこのまま使っています」
借りパクじゃないか! 須川は思うが、指摘出来ないでいた。
「なんだ? こりゃ?」
戸部は、ホワイトボードにマグネットで貼り付けてあった写真を手に取る。
公園遊具の写った砂浜の写真だった。
不思議そうに眺め、席へと移動する戸部だった。
「逃亡中の二人の行動を中心に時系列順に書き上げて、並べました」
「おう」
戸部と須川の二人は、有村がホワイトボードの文字を読み上げるのを生徒達の座る席で聞いていた。座っても背の高い戸部警部だった。
「二つの事件のあった当日、西原麻由美が『ウエスト・プレーリー綱島』に訪れたのが午後三時二十八分。渡辺昴が自宅に帰り着いたのが午後三時四十九分。西原真理亜が訪れたのが午後四時十二分。いずれもマンション管理人の佐藤繁氏が証言しました」
須川が手を挙げた。
「はい、須川君!」
スーツ姿で赤縁の眼鏡を掛けた有村は、新米の女教師にも見える。
「どうして、そんなに詳細な時間が判るんですか? マンションの監視カメラのデータは田園調布警察署で解析の途中ですが……」
「いい質問ね、須川君。幾らお年寄りでも管理人の佐藤さんを舐めてはいけません。佐藤のおじいちゃんは、放送中だった時代劇のシーンで来客者を記憶しているんです。午後三時台は水○黄門を放映していました。麻由美の来た二十八分は『お代官様あーれー』の時間。昴が帰宅した四十九分には差し出された印籠に代官が平伏していました。四時台は○平犯科帳で、真理亜の訪れた十二分では押し込み強盗が火を放ったシーンでした。放送局に場面の時間確認を取っています」
ホワイトボードの前を何度も往復しながら話す有村警部補だった。
「で、西原麻由美がマンションから出たのが午後四時五十分でしたね」
須川も自分のメモを取り出して読み上げていた。
「そうです。○平のエンディング曲が流れ終わった直後です。午後五時には管理人の佐藤氏が帰宅されたので、残る二人の詳しい行動は監視カメラの画像解析待ちです。恐らく二階ベランダからシーツを使って外へ逃げ出した。では質問です。何故二人は、玄関から逃げなかったのでしょうか?」
そう言ってから須川をホワイトボード用の赤マーカーペンで指名する。
「え? そうですね……」
考え込む。
「その時には、玄関前に誰か居たのかもな……」
手を挙げた戸部が、低い声で答えていた。
「多分、正解!」
有村は戸部の顔の前で、手を叩いていた。
「ここで、佐藤さんの重要な証言があります。麻由美が訪れる一時間ほど前、午後二時二十五分に意外な人物が訪問していました。神奈川県警本部・生活安全部・生活保安課主任の……」
「西宮和也巡査部長が?」
戸部が大きな声を発して立ち上がっていた。だから、彼を電話で呼んだのだ――須川は納得する。
「そうです」
有村警部補は大きく頷いた。
「で、その時間には大岡○前の再放送だったのかい?」
皮肉混じりに戸部は言い、椅子に座り直した。タバコの箱を胸ポケットから一度取り出し、思い直して仕舞っていた。
「いえ、暴れん○将軍でした。御庭番衆の一人『あやめ』が、悪事を働く幕臣の江戸屋敷に忍び込んだ時間です」
「ハハ……」
須川は乾いた笑いを浮かべ、自分のメモ帳に項目と時間とを書き加えていく。
「まずは、マンションを出た麻由美の行動です。歩いて十五分ほどの距離にあるホームセンターで確認されています。時刻は午後五時二十五分頃ですね。ペットコーナーの犬のケージで餌を与えようとして、ミニチュアダックスに吠えられているのを、店員が目撃していました。制服姿が印象的だったので覚えていたのです」
可愛いじゃないか……須川は不謹慎とは思いながらも、少しにやけていた。
有村は続ける。
「購入した商品も判明しました。糸鋸と替え刃、ノミと木槌。そして砥石ですね。多摩川河川敷で発見された遺留品と合致します。その後、麻由美はマンション近くのコンビニエンスストアに立ち寄っています。コチラは午後五時五十二分ですね。購入時に西原麻由美の鉄道会社系の電子マネーで支払っています。購入したのは、あんパンにカレーパン。カスタードプリンが二つにポテトチップスのうす塩味。コ○ラのマーチも購入しています。コンビニでは男性店員がハッキリと覚えていました。支払い終了後にニッコリと微笑みかけられたので印象に残ったのだそうです。その時、床にハンカチが落ちていたのを店員が拾得していました。このハンカチは鑑識に回して分析中です」
麻由美は美少女だ。同年代の男性なら、一度見たら忘れることなど無いだろう。ハンカチも、次回合う口実に使うつもりだったのだろう――須川は、彼女の居ない独身男性の心理を正確に分析する。
「昴と真理亜の二人ですが、東○急行東横線の綱島駅の改札を通過したのが確認されています。時刻は午後六時五十一分ですね。二人共に鉄道会社系の電子マネーで乗っています。真理亜の方ですが、自販機でミネラルウォーターを買っていますね。そして、田園調布駅で確認されたのが午後七時十三分。恐らくは各駅停車で移動したのでしょう。そのまま、西原家へと向かったと思われます」
「ふーむ。で、被害者の死亡推定時刻とかは出たのか?」
戸部は長い足を組んだまま、有村に質問する。
「ええ、報告を受けています。西原麻由美は午後三時から五時の間です。胃の内容物の消化具合から推察されました。学生食堂での昼食の時間とメニューが目撃されていて、合致しました。西原夫妻の場合は、少し範囲が広がります。午後四時から八時と、このぐらいの時間しか特定出来ませんでした。これは二人共に昼食を取っていなかったからです」
不思議だと、首を捻る有村だった。
「質問を二点、良いですか?」
須川は真っ直ぐに右手を挙げていた。
「はい」
有村は、再び赤ペンで指していた。
「一点目は、西原麻由美の死亡推定時刻と目撃情報が合致しない点。二点目は、午後三時に秘書に自宅に送らせた夫妻が昼食を食べていない点です。この二点について、有村警部補の見解を聞きたいのですが……」
「ええ、まず一点目。管理人室、ホームセンター、コンビニで目撃された西原麻由美は姉の真理亜の変装ですよ。二人は双子です。不思議でも手品でもありません。そのため、遺留品の指紋などを分析中です。結果は直ぐに出ると思いますよ。次に二点目。夫妻は何者かに脅迫されていた形跡があるのです。それは、西原慎司氏の秘書、藤島豊氏から確認が取れています。携帯電話の履歴からも、それぞれの会社の社長室で激しいやり取りがされていたのが目撃されています。そのために、昼食の時間さえ無かったのでしょう」
須川はその内容も、メモに加える。真理亜の変装? 確かに考えられる。そして、夫妻の脅迫事件。初耳だった。神奈川県警本部の売春担当の西宮刑事が追っていたのはこの件なのか?
「その後は、二人の足取りは掴めていませんが……。菅野絹子さん宅、そしてこの学園を訪れているのは間違い有りませんね。鑑識で二人の指紋を大至急で照合中です」
「そう思った根拠は何なんだ?」
戸部はライターをカチカチしながら言った。
「菅野絹子さん宅の食器乾燥機に、三人分の食器がありました。そのうちの二組は来客者用と見られ、指紋採取を行っています。西原真理亜と菅野絹子さんは顔見知りです。断言します。学園の方は、西原真理亜と渡辺昴の二年三組の教室で争った跡が見つかりました。西原真理亜の机の中身も全て出されていたので、夜の学校に忍び込み本人達が何かを持ち出したのでしょう」
両眉を上げて有村は言った。
「アノ、真理亜と被害者のお婆ちゃんが顔見知りと云うのは?」
須川は、戸部の顔色を伺ってから、有村に聞く。
「戸部さん、よろしいでしょうか?」
有村は、じっと戸部の顔を見る。
「私に断る必要は無いんだがな……。それより、タバコを吸いに出たいんで少し失礼するよ」
戸部警部は、胸ポケットからタバコの白い箱を取り出した。赤い丸が眩しい。
「戸部警部! 喫煙場所は職員室の片隅にあるだけですよ。会議中に、お邪魔したいのならどうぞ!」
有村警部補は職員室のある方向を向いて言った。
「判ったよ。私も付き合うよ」
戸部はタバコの箱を元に戻す。当面は禁煙だろうな――タバコの煙を異様に嫌がる有村の顔を思い出し――須川は思っていた。
有村は、視聴覚室の一画にあった机の上。そこの茶封筒からA4サイズの紙を一枚取り出し、ホワイトボードにマグネットで貼り付けた。
「これは?」
須川が聞く。
「九年前に起こった、一家四人殺害事件の現場……その家の遠景写真のコピーです。この木造二階建ての家が現場なのですが、隣の家に注目して下さい。この大きな玄関に見覚えはありませんか?」
有村は、事件現場の隣宅を指さした。須川は目を見開く。ほんの数時間前に見た、菅野絹子の家だった。
「コノ家は大倉山の事件の現場ですね。当時とは周囲の様子が変わっていますが、確かにアノ家です」
須川は言った。二軒の家を除いて、周りは畑だった。細長い二階建ての家の後方には、ケヤキの木が見えた。
「そうです。二階建ての家の方は取り壊されて、今は神社になっています」
凄惨な事件の舞台となった家。亡くなった方の弔いの意味で、取り壊した跡に神社を建てたのだ。
「菅野家では、嫁いだ末の娘のために隣に家を建てたのですが、娘夫婦が地方に転勤になったので、知り合いを通じて横田さん一家が借り受けて住むことになりました。それが十七年前。“横田 星彦”さんと“沙織”さんのご夫妻でした。長らく子宝に恵まれなかった横田ご夫妻は、知り合いの双子の一人を養子に迎えて、この家に住み始めたのです」
「その子は女の子で、名前が真理亜……」
須川はそう言い、自分のメモに書き加えた。「一家四人殺害事件」の生き残りの「真理亜」と……。
「そこに出てきた『知り合い』ってのは……」
戸部は、自分の禿頭をひと撫でして聞く。
「ええ、西原真名美さん。真理亜の実の母親です。彼女は当時、この辺りで不動産業を営んでいました。大地主である菅野さん所有の農地を住宅地に転用して、かなり利益を得ていたと聞きました。ここで新情報です。横田夫妻は当時、蒲田で旅行会社を営んでいたのですが、九年前、ご夫婦が殺された後に経営権が引き継がれました。その会社が……」
「西原トラベル……」
須川がボソリと言った。
「そうです。西原慎司氏の経営する旅行会社でした。当時は、経営危機の状態にあったのですが、横田夫妻の会社「Y・I・S」「ヨコタ・インターナショナル・サービス」の打ち出した、格安海外旅行の手法を引き継いで、急激に業績を伸ばしています」
横田夫妻が死んだ場合に、最大の利益を享受する者――須川は自分のメモの西原夫妻の項目に書き加えていた。
「家族四人には生命保険が掛けられていました。死亡時にはそれぞれ二千万円が支払われます。夫妻と長男の受取人は横田真理亜。横田真理亜が死亡した時には、実母の西原真名美が受取人になっています。そして、重要な点がもう一つ。横田家族の生命保険の取次店を経営していたのが、西原真名美だったのです」
横田夫妻への殺害動機は、西原の夫婦にも十分にある。しかし、犯人は今も捕まっては居ない。当然、西原夫妻の周辺は徹底的に洗われた筈だ。
そして、西原真理亜の動機が判った。ボーイフレンドを共犯にして、実の両親と妹を殺害したのだ。復讐のための殺人だ。そして、逃走資金を得るため顔見知りの老婆を殺し、金を奪う。学校に忍び込んだ時の目撃者も殺害する――派手だが、単純な事件だ。二人の行方だけを追えばいい。何なら大規模な公開捜査も可能なのだ。有村の権限ならそれが出来る――そう思った須川だった。
――その時。
「恋はリュンリュン♪ いつでもリュンリュン♪」
須川の胸元から、大きな歌声が流れて来た。慌ててポケットの携帯電話を取り出す。この四月から始まった深夜の人気アニメの主題歌だ。その主役キャラのポスターが、西原真理亜の部屋にあった時には驚かされていた。
朝に、有村から電話で叩き起こされていたそのままだった。マナーモードにするのを忘れていたのだ。
「ア、ハイ……」
努めて冷静に電話に出る。相手は田園調布警察署の捜査本部にいる“古田 宗治”係長だった。
古田警部が早口で捲し立てているのが、有村の立つ位置でも聞こえる。
「え? 誘拐!」
須川は立ち上がった。
それを聞き、有村と戸部が注目する。
「あ、有村さん。西原真理亜が誘拐されました! 犯人は身代金を要求しています。げ、現金で一億円です! 品川の『西原トラベル』本社社長室に脅迫状が届いています」
すがるような目で有村を見つめていた。
「今度は『営利誘拐』かよぅ! 西原真理亜の狂言じゃあ、ねえのかぁ!」
興奮した戸部が、べらんめえ口調で喋り出す。彼は三代以上続く江戸っ子の家系なのだ。
「それが……」
須川は言い淀んだ。有村は聞き逃さない。
「それが、どうしたのですか?」
「古田係長の話では、脅迫状と一緒に……」
「一緒に?」
有村の顔が須川に迫る。
「刃物で切り取られた『指』が届けられたそうです!」
大声で叫ぶ須川。
少し、うろたえてタバコを口にくわえる戸部。
そして――
――有村は腕を組み目を瞑り、教卓の席に深く座り込む。
「わからなくなりました」
そう言ってから、下唇を歯で強く噛みしめていた。
窓の外の雨は強くなり、遠くで雷が鳴っていた。
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