事件報告書File.06「鋭利誘拐」-1/2
事件報告書File.06「鋭利誘拐」
◆◇◆
――午前七時五十分。
横浜市港北区「菅野家」
「やっぱり、事件現場は嫌なものですね」
須川渉巡査部長は、白いハンカチで口元を抑えて菅野絹子宅の勝手口から出てくる。
昨日は、渡辺昴の自宅で有村と別れたのが午後十時過ぎだった。鑑識科学班による丹念なる調査に付き合っていた。その後、自宅に戻り寝たのが本日の午前二時。有村陽子警部補からの電話で叩き起こされたのが同日午前六時。四時間しか眠れなかった。
雨が降っている。黒いコウモリ傘を有村に差し掛ける須川だった。
「ええ」
神妙な顔付きなまま、警察庁特別広域捜査班・第一班長の有村は考え込んでいた。
「昨晩はどちらで?」
少しも疲労した印象を感じさせない彼女だった。
「昨日は、捜査本部のある田園調布警察署に詰めていました」
須川が、一度も顔を出したことのない捜査本部だ。
事件の正式名称が決定していた。警視庁・田園調布警察署「特別広域指定191号・田園調布社長夫妻殺人事件」
関連する事件は全て含まれる。西原麻由美が殺された「多摩川グラウンド資産家次女バラバラ殺人死体遺棄事件」の合同捜査本部もこの場所だ。
須川の直属の上司、警視庁捜査一課の古田 宗治警部も捜査本部に配属されている。
神奈川県警中原警察署の戸部 裕も港北区の現場に来ていた。
「よう! 一日ぶり!」
相変わらずの渋い低い声で、須川の左脇腹を小突いて来る。禿頭の上にカーキ色のブッシュハットを被っていた。雨除けだ。そして、透明ビニールの雨合羽をスーツの上に羽織っていた。
「ハア……」
須川は、曖昧に答える。
「元気が無いな!」
戸部は須川の背中を強く叩く。活を入れたつもりなのだ。
「室内で殺されていたのは、この家に住む菅野絹子さん七十六歳。胸を包丁で一突きして殺害。争った形跡もなく、恐らくは顔見知りの犯行。室内には物色された跡があり、財布やタンスに仕舞われていた現金が、大量に持ち出されている」
須川の記入したメモを読み上げる有村警部補だった。
今回の事件に名称を付けるとすれば「横浜市港北区老資産家強盗殺人事件」だな――須川巡査部長は考えていた。
須川は、被害者の様相を思い出していた。驚愕の表情を浮かべたまま事切れていた老婆。自分が殺されるとは露程も思っていなかったのだ。仏壇の置かれた和室、畳の上で仰向けになった和装の死体。両手は無念に虚空を掴んでいた。
「何で私が、派遣されたのですかな?」
戸部はジロリと有村を睨みつけた。戸部警部は西原麻由美殺害事件に掛かり切りだったのだ。
「すみません。お忙しいところに、お呼び立てしてしまって……」
ペコリと頭を下げる警察庁特別広域捜査班・第一班長であった。
「戸部さんは、この場所に心当たりは?」
逆に質問する有村警部補だった。雨に濡れる椿の生け垣を見つめる。
「ああ、よく知っているよ。九年前の『一家殺害事件』……隣の……今は神社が建っている場所で、一家四人が惨殺された未解決の事件だ。隣の管轄だったが、私も応援に駆り出されたよ。警察庁の幹部候補生は漏れなく見せられるんだろ、凄惨な現場の写真を……」
三人は、菅野絹子宅の玄関の軒下に移動する。雨が強くなってきた。
傘を閉じる須川だった。
断りもなく、戸部警部はタバコに火を付ける。ジッポーのオイルの匂いが、強く漂ってきた。
「はい、見ました。血だらけの現場写真と共に、被害者の受けた惨たらしい暴力の跡も見せられました。が……」
戸部の吐き出すタバコの煙に臆することなく、彼の目の前に真っ直ぐ立ち相手の目を見据える彼女だった。
「が?」
戸部の低い声だった。良く響く。須川は震え上がる。戸部の機嫌は最高に最悪なのだ。
「被害者の写真は三名分だけでした。父親は体中を滅多刺しです。母親は首をかき切られていて、半分千切れた状態でした。長男は寝ているところを、首を絞められて殺されています。犯人の指の跡が残っていました。被害者が抵抗し、胸の辺りを掻きむしった爪痕も見られました。この事件は、警察庁でも最秘匿の事項にされています。私の権限でも、事件の機密データにアクセスできませんでした」
苦々しい表情を浮かべていた。ここまで悔しがる彼女は初めてだ。
「ふぅ……」
戸部は深く吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す。
「私は、当時は下っ端でな。知っている範囲でも、話せることは少ないんだが……」
「お願いします」
有村は頭を下げた。
「聞かされたのは――発見された時、長女には息があり病院に運ばれた――それだけだ」
「その子の名前は?」
「知っているんだろ……」
戸部の言葉を聞き、ニヤリと有村は笑っていた。
◆◇◆
時間は半日ほど戻る。
――前日、午後八時二十分。
横浜市港北区 私立大倉山学園。
「お尻押して!」
「え?」
夜の学校に忍び込んだオレたち。侵入ルートは逃げ出したときと全く逆。テニスコートのフェンスに開いている穴から入り込んだ。
ここまでは順調だった。しかし、校舎に潜り込む術がない。
警備員こそ居ないが、校舎への入り口や窓は全て鍵が掛かっている。それはそうだろう。唯一見つけ出したのが、この場所だ。
オレは周囲を見渡す。明かりは学校の周りの外灯が頼りだ。さっきまでは丸い月が出ていたが、今は雲に隠れている。天候が悪くなるのかな。
「重い……」
「失礼ね!」
一階職員用のトイレ。窓の上の小さな明かり取りの部分の鍵が開いていた。最終の見回り検査で見過ごされていたのだ。戸締まり忘れだ。
窓に取り付く真理亜のお尻を押してやる。思ったよりも大きくて柔らかだったが、感触を楽しんでいる暇は無い。
「手が届いた!」
彼女の声が聞こえた。小さな穴に体を潜らせていく。最初、オレが挑戦しようと思ったが、肩幅だけで無理だと理解する。細い彼女は、ヘビのように体をくねらせながら潜入する。
「お尻がつかえた!」
ヤッパリだった。スカートが捲れて彼女のパンツが見えている。ジタバタしている彼女の足を掴んで押してやる。
「どう?」
オレの質問は無視された。真理亜は器用に職員トイレの中に侵入した。普通は頭から床に落っこちる筈だけどね。運動神経は良いようだ。
「ガラッ!」
内側から窓が開いた。
「入って!」
言われたオレは、窓に上半身を突っ込む。
「夜の学校って、何かウキウキしない?」
校舎の二階へと昇る階段。真理亜が小声でオレに喋ってきたが、同意はしかねる。
「いや、不気味だろ」
真っ暗だった。携帯電話のカメラの照明でようやく照らす。ゆっくりと歩いて、自分達の教室の二年三組に到着した。
「鍵は開いてるみたい」
教室の入り口の引き戸を、静かに開ける真理亜だった。
「忘れ物って何なの?」
「ノート……」
教室の内部を伺い、自分の机に向かう真理亜だった。
「ノート?」
オレは首を傾げて、彼女に続く。ノートって、あの赤い文字の書かれていた変なノート? 何が書かれていたんだっけ?
「大切なノート。神の言葉……」
そうだった。この子はおかしな子だったんだ。今更のように思い出す。
「無い! 無い! ノートが無い!」
彼女は机の中身を全て出して、そう言った。大層に慌てていた。子供のように騒ぎ立てている。
机の中に入っていたのは、お菓子類が殆どだった。ソイツをオレのリュックに詰め込みながら騒いでいる。当面の食料は貴重ですからね。
「無いよ! 何でなの!」
ここまで取り乱しているのは珍しい。しかし、入っているのは子供じみた物ばかりだ。教科書も文房具もなかった。カスタネットとハーモニカと折り紙が入っていた。その折り紙を折ってる姿は一度も見たことは無いけどね。ソレらまでもリュックに入れてくる。
「うー」
唸っている彼女。オレの方を向いた。
「警察に没収されたのか?」
オレは自分の机の中を見た。置きっぱなしの教科書だけしかない。その中に、ノートの切れ端を折り畳んだ手紙? メモ? を見つけた。
「渡辺くんへ」
表面に可愛らしい文字が書かれていた。女性の字だ! 裏を見る。「梨田樹里」とあった。慌てて自分のズボンのポケットに突っ込んだ。真理亜には気付かれてはならない。嫉妬深い彼女なのだ。
何のメッセージだろうか……。
「そんなに大切なノートなの?」
オレは平静を装って真理亜に尋ねた時だった。
「昴! 危ない!」
彼女がいきなり突き飛ばしてきた。オレは教室の床に転がる。何だ? 首を上げて様子を伺う。
「だれ!」
真理亜が叫んでいた。さっきまでオレが立っていた場所に存在する黒い人影。後ろ姿だった。ゆっくりと振り返る。相手の顔が遠くを走っている車のライトで見えて来た。
えーと……。
「長谷川君!」
真理亜の声で気がついた。長谷川幸介……生徒会の副会長の三年生だ。
「キ、キミが殺したのか!」
悪鬼の形相でオレを睨みつけている。
「殺す……?」
「とぼけるな! キミが、キミ達が殺したんだ! 西原会長を!」
彼の手には、ナイフが握られていた。M9バヨネット……銃剣だ。彼は、軍事オタクなのだろうか。オレも少しは知識がある。頑丈なナイフだ。厄介な凶器だ。真理亜に突き飛ばされてなかったら、オレは確実に刺されていた。
「どうしたの? 長谷川君……危ないよ……」
真理亜はゆっくりと彼に躙り寄る。
「来るな!」
大声で叫んでいた。
「来るな! 妹だか何だか知らないが、お前も共犯者だろうが! 西原会長の仇!」
ナイフを構え、真理亜に向けていた。今度は彼女が危ない!
「長谷川君! アタシよ! 麻由美なのよ!」
真理亜が麻由美の声色を使う。物真似というレベルではない! そっくりすぎる。
「え? え?」
彼は矢張り錯乱していた。彼女の顔とオレとの顔を見比べていた。それはそうだろう。
オレも最初は混乱したのだ。
「西原会長?」
長谷川幸介は、ゆっくりとナイフを持つ手を下げる。飛びつくか! しかし、真理亜はゆっくりと首を振っていた。タイミング的にはまだ早い。オレも床に寝そべったままだからな。
「そうよ。殺されたのは真理亜の方。アタシは変装して逃げ延びたの……」
麻由美会長の声そのものだった。再び、堂々巡りの考えに戻る。ヤッパリ殺されたのは真理亜じゃないのかって……。
「会長なの? 生きてたの?」
甘えた声を出す副会長だった。
「そうよ。長谷川君は、生徒会室でアタシに抱きついて来たでしょ――好きだ――と言って来てね。あの時は、副会長の職務が不安だったのでしょ。アタシの胸の中で泣いたよね」
「え……」
完全に混乱している。麻由美会長本人しか知らない事柄なのだろう。
その時、真理亜の右足が垂直に上がった。スカートが捲れ上がる。
「え?」
オレと副会長が言った直ぐ後に、振り上げた足が真っ直ぐに落下して長谷川幸介の脳天に炸裂した。踵落としだ。
「ガチ!」
大きなイヤな音がした。頭蓋骨に踵骨がヒットする。
副会長はそのまま真後ろに倒れた。机と椅子を巻き込んで大きな音がする。
「バーカ!」
昏倒した副会長に辛辣な言葉を投げつける真理亜だった。だが、しっかりと彼のナイフを奪い取っていた。そして、長谷川幸介の制服のズボンからベルトを抜き取る。そのベルトで気絶した彼を後ろ手に縛り上げていた。
全く持って、手慣れた手付きだと思った。
「気がついたかしら?」
声は元の真理亜に戻っていた。
「だ、騙したな! よくも騙したな!」
口から唾を飛ばし、真っ赤な顔で怒鳴る彼。
意識を取り戻したその副会長に、彼女の恐怖の尋問が始まる。奪い取ったナイフを彼の喉仏に押し当てていた。
「ノートは何処にやったの?」
「ノート……?」
「とぼけないで!」
ナイフの柄で彼のアゴを殴る真理亜だった。容赦しない。唇の端に血が滲む。
「ノートって何の事だ? 僕は……本当に……し、知らない」
首を振り、必死に否定する副会長だった。
「真理亜が記入していた、A4サイズのキャンパ○ノートだよ。水色の表紙で、中には赤い文字がビッシリと書かれていた、気持ち悪いノート」
オレは、彼に対して助け船を出したつもりだった。「気持ち悪い」と言った時に、真理亜はオレを睨んできた。
「そんな、ノートは知らない……」
彼の言葉は真実だろう。
「副会長は知らないよ、真理亜。それより何で、彼はこの場所で待ち伏せしてたんだ?」
彼が――オレ達を襲いたいと思う気持ち――は、理解出来る。万人は、オレ達が麻由美殺しの犯人だと考えるだろう。
だが何故、オレ達が学校にやって来ると思ったのだろうか? 彼に質問する。
「教えてもらった……」
「誰に?」
真理亜は厳しい口調で言った。誰かの監視下にある。その思いは隠せないでいた。
「て、手紙があった。生徒会室の僕の机の中に……。二人は夜の学校に忍び込んで、自分達の教室に必ず戻るって……」
大人しく答える長谷川幸介であった。
「ソイツがノートを持っている!」
真理亜の顔が明るくなった。目星でもついているのか?
「その手紙は?」
オレは彼に尋ねた。筆跡からでも推理が出来そうだ。
「上着の胸ポケットの中……」
オレは彼のブレザーのポケットに手を突っ込む。折り畳んだ紙切れと、手帳が出てきた。
彼の生徒手帳から写真が落ちる。西原麻由美生徒会長の顔写真だった。真理亜がソレを拾い上げる。
「返せ! 写真を返せ!」
必死になる長谷川副会長だった。涙声だ。彼の大切な宝物なのだろう。
「あー、この写真……」
真理亜はそう言って、写真を縦に二つに引き裂いた。流石のオレも、彼女のこの行為には気持ちが引いてしまった。写真とは云え、死者を冒涜するのは許せないのだ。
「何をするんだあ!」
「これ、私だよ……」
冷静な真理亜の言葉。もう一回引き裂いて、四つになった写真を彼の胸元に投げつけた。
あの顔写真には見覚えがある。学園の公式ホームページ……そこで紹介されていた生徒会メンバー達の個別写真だ。
「嘘だ! 撮影の場所には僕も居た! 間違いなく西原会長本人だった!」
副会長は断言する。
「長谷川君は、緊張しすぎて何度も撮り直してたでしょ。顔がこわばっていたよ……リラックス、リラックス」
再び、麻由美の声色を使っていた。これって……もしかして……。
「まさか……」
暗くても、彼の顔色が変わったのが判る。判別出来る。
「アノ女はね、面倒な事は全て私に押しつけていたの……。高校受験も、新入生総代挨拶も、新入生歓迎・生徒会長スピーチも……。両親を亡くして落ち込んでいる男の子を慰めたり、励ましたり、元気付けたり……」
オレは真理亜の顔を見た。哀しそうな顔でオレを眺めていたが、目が合うと視線を逸らしていた。
「高校受験で満点を取ったのも、入学式で総代として挨拶したのも、生徒会選挙で演説していたのもキミだったのか? 僕を慰めたり、励ましたり、元気付けたりしてくれたのも……僕が好きになったのはキミだったのか?」
ズボンを脱がされて、後ろ手に縛り上げられている長谷川幸介が肩を落とす。真理亜は手に持っていたナイフを、彼の腰から奪い取ったケースに収める。
「そうよ」
感情無く云った。
「試験でいつもトップなのも……」
「そう、アノ女の代わりに試験を受けたの。ちょくちょく入れ替わってたの。昴の隣にアノ女が座っていた時もあるのよ」
じゃあ、オレが好きになった西原麻由美は、真理亜が扮していたのか……?
大きく一本にした三つ編み。銀縁の分厚いレンズの眼鏡。制服も茶色いブレザーは意識的に避けていたのだった。それら全ては、入れ替わりの変装のためだ。
そして家に来て、両親を亡くしたオレに優しい言葉を掛けてくれたのは……真理亜だったのだ……。
「そうだったんだ……」
オレが始めて好きになった女性の正体は、目の前にいる……この少女。とっても変な女の子。
「うん……騙すつもりは無かった。でも、昴に出会って、弟と同じ名前の『すばる』に出会って……運命だと感じていたの……」
真理亜は恥ずかしげに顔を俯いた。
「じゃあ、オレを邪険に扱っていたのは? まさか?」
「うん。麻由美の方ね。昴のクラスに来たときは――極力、誰とも喋らないように――と言い聞かせておいたの……」
真理亜と始めて挨拶した時は、今の一年生の入学式の日だった。その時は生徒会長が歓迎スピーチをしていたな。二人はその時も入れ替わっていたんだ。
「そうだ、昴。手紙……」
そうだった、思い出す。長谷川幸介の生徒手帳と一緒にあった、四つ折りの紙切れを開く。
「だめだ……」
オレは彼女に手渡した。副会長が語っていた内容が、そのままワープロの文字として印刷されていた。手紙の差出人の特定は難しくなった。
「昴、行こう!」
彼女は手紙を自分の胸ポケットにしまって、教室を出て行った。
オレは、教室に残された長谷川幸介を振り返り見る。彼は首を項垂れたままだった。そのまま放置して彼女に続いた。
明日19時に、続きを更新します。