誰もかれもが空騒ぎ
身体に力が入らない。こんなにも予期せぬ経験は、初めてだった。
「君は…誰だ?」
へばりつくようにぴたっと抱きついている女の子を見下ろして尋ねる。
母親は駆け落ち同然で結婚してその後離婚しているから、親戚はいないといってもいいし、
今はその母親も再婚して家を出て行って久しい。こんな小さな女の子がこの家に足を踏み入れる可能性は一つもない。
・・・はず、だ。
「わたしのなまえ?にしじま、ゆか、だよ。ゆかのこと、知らないの?」
「ゆか・・・ゆかって・・・」
ゆか、ゆか・・・誰か知り合いの子どもに、そんな名前の子がいただろうか?
呟きながら考えあぐねていると、背後のドアがぎぎぃと軋む音を立てて開いた。
「あ、おかえり飯塚。優香ちゃん来てるだろ。久々の兄妹の対面なんだから、あんまり脅かしたらダメだよ?」
「仁村…」
いつもは猫よりも役に立たない仁村の気の利いた発言によってようやく合点がいった。
兄妹。そう、優香は実に18歳年の離れた妹だ。
母が再婚するきっかけになった妊娠の末生まれてきたのが、優香という名の小さな女の子だった。
父親の名前が優真というらしく、そこから一字とって今時の子供にしてはしっかりした名前がつけられた。
最後に会ったのが、1か月ほど早産だったために保育器に入れられたままの姿だった。
あれからもう7年近く経っている。子どもの1年は、まるで光陰矢のごとしだ。
わからないのが、当たり前だった。
そんな実の兄が戸惑っているというのに、何故か仁村と優香は打ち解け合ってるらしく、二人顔を見合わせた。
「優香ちゃん、今日名古屋からこっちに来たんだよねー。」
「うん、しんかんせんでぴゅーっと来たんだよ。すごく早いんだよ、しんかんせん!仁村くんは乗ったことある?」
「あるよー。でも、だいたい新幹線に乗ると寝ちゃうから、どれだけ速く動いてても全然気付かないんだ。」
「仁村くん、それって“人生損してる”っていうんだよ。」
「あはは、そんなことないよー。新幹線で人生損してたら俺、この人生大損ばっかりだってー。」
…小学1年生と仁村は気が合うらしい。ものすごく仲良く見える。
仁村は初対面のはずだ。それに、仁村は高校時代から一人暮らしをしているから、おそらく家族との縁は薄い。
小さな子がこのアパートに入居していた時期はなかったはずだから、仁村にとっても幼子は未知の生物なのだ。
なのに、なんだこの順応性は。我が目を疑いたくなる。
固まっている自分をよそに、仁村はそそくさと玄関を上がってちゃぶ台の前に優香と共に座る。
そして『黄色い幸せのハンカチ』というタイトルの絵本を取り出しつつ
「飯塚ー。優香ちゃんのためになんかお菓子とジュースかなんか用意してよー。勿論俺の分もね。」
ちゃっかり言いつけけてきた。しかし、優香の相手なんて、どうすればいいのかわからない。
相手をするよりお茶の準備をする方がよっぽどマシだったので、仕事の疲れで鈍っている身体を叱咤するように、台所に向かった。
大人二人にはただの番茶、優香にはオレンジジュース、おやつにはそろそろ収穫時期に入っている仁村のプチ菜園から
収穫してきたただ蒸かしてきただけのさつまいもを出した。
仁村はほかほかのそれを手にとって「あちちあちち」と言いながら皮をむいて、優香に食べさせている。
なんで仁村はこんなに子どもをあやすのが上手いのか…ますます謎だ。
しかし、この謎は追々聞く機会もある十分にあるので、火急で聞かねばならないことを尋ねることにした。
「えっと…ゆ、優香、母さんは?」
「おかあさん?えっと…なんていったっけあのおばさん…」
「優香ちゃん、あのおばさんの前で『おばさん』っていったら怒られるから、
『大内さん』って呼んであげてね?」
「えっと、おば、じゃなかった大内さんのところにいってるよ。」
仁村が優香に妙な入れ知恵をしている。まあ確かに大家さんの前でおばさんと呼んだら目に見えて険悪な雰囲気になりかねない。
大家さんの年齢的には(本人は年齢不詳で通しているが、夫君の薫さんの発言から類推は可能。)おばさんと言われても
否定できないはずなのだが、いかんせん容貌がファッション誌からそのまま抜き出てきたようなモデル体型なのだ。
顔のパーツも一つ一つが整っていて、こんな下町で不動産管理業務にあたっているのが惜しく思えるほどだ。
しかし、性格は完璧な関西のおばちゃんなので、性格的には転職なのかもしれない。
「なんで優香はこっちにいるんだ?」
「さいしょはね、おかあさんと一緒に大内さんってひとのとこにいたんだけど、
ぜんぜんしゃべり終わらないし、げんかんでずーっとたちっぱなしで、ゆかつまんなかったの。
そしたら、仁村くんがとおりかかって、おかあさんがひさしぶりねーって声かけたら
仁村くんがあそんであげるっていってくれてここまでついてきたの。」
しかし、遊んであげると誘ったのが仁村なら、どうして仁村の家で遊ばない。
…まあ遊べるような空間が果たして今あるのか、そういう大問題がある限りは無理なのだろう。
とはいえ、家主不在の部屋を勝手に開けて(合鍵は渡してあれど)図々しくちゃぶ台に二人占拠している光景は
いくらなんでも自由すぎる。
仁村とはちゃんと壁一枚挟んだだけとはいえ『他人』で、本当のところ、家族のような関係ではない。
それをいとも簡単に、そして事もなげに仁村は踏み越える。ずかずかと、他人にはまねできないような豪胆さで。
それが仁村の美点でもあり、欠点でもある。たぶん。
「んでも遅いよねー、飯塚のお母さん。もうかれこれ30分くらい経ってるけど。」
「女の人は井戸端会議には余念がないんだよ。それに母さんがこっちに来るの、3,4年ぶりだろ?
大家さんとはそれだけ会ってない分一気にネタを披露したくてたまんないんだろう。」
「それに大内さんのマシンガントークは…他のおばちゃんたちに比べても随一だから。」
「確かに。」
誰かが止めない限り話題は尽きない。曲がりなりにも母親と大家さんのそんな関係はよく知っているつもりだ。
「でも、薫さんは止めないのか?今日も会社は夕方からって言ってたなかったか?」
「薫さんなら今日もアザラシよろしくゴロゴロしてたよ。第一薫さんが大内さんに盾ついたら
そのあと何が待ってるか、飯塚だってわかってるだろ?」
「仁村くん、もっとさつまいも剥いてー!」
「優香ちゃんもっと欲しいの?んじゃちょっと待ってね、今剥くから。」
そう言って仁村が会話を中断して優香の相手をする。自分は所在無く、茶をすすってみる。
本当は優香の相手は兄である自分がするべきなのだろうけど、どうしても、子供は苦手だ。
行動が読めないからどう扱っていいかわからないし、
甘えることが最大の美徳である子どもの欲求に応えられるほど大人になりきれていない自分がいる。
…しかし、子どもがそのまま大人になったような仁村にしては何故か、甲斐甲斐しく世話を焼いている。
そしてそれが酷く羨ましくて妬ましい。
多分、自分ができないことをやっている仁村に対してじゃない。
仁村が自分には見せたことのない一面を今自分以外に見せていると言うことに、だ。
それは、こんなに胸を詰まらせるように膨らんだ気持ちを抱いている、相手に他ならないから。
…唐突に浮かんだあられもない考えを、誤魔化すように立ち上がる。
「に、仁村、さすがにそんなに長居してるんだったら、俺が声かけてくるよ。薫さんが無理なら
俺がいって止めてきてみる。」
「わかったー。んじゃ俺は優香ちゃんの相手してるよー。いってらっしゃいー」
そういって気楽に仁村は手を振って送り出してくれた。そっと、玄関口で靴を履いているときに
狭い台所の奥の二人がいる部屋を覗き見る。
笑顔で優香に絵本を読んでいる仁村の姿が目に焼きついた。
あまりにも、自然で、最初からそこに広がっているような光景だった。
自分がその輪から抜け出てきたことなんて、二人は全く意に介していないようですらあった。
羨ましさに混在する妬ましさがずっと胸の奥でくすぶっている。
仁村と優香の入り込めない姿のせいだ。
…本当は別段そんなことを感じなくてもいい場面なのに。
いや、仁村に対する気持ちがぐらついているから、こんな些細なことでも衝撃を受けているんだ、
そう解釈するほかなかった。
コンコンと音を立てて鉄板の段差を降りて行く。小気味いい音一つ一つがほんの少しだけ荒んだ心を慰めた。
大家さんの部屋は1階の西向きの角部屋だ。
間取りは全室一緒なので、仁村や自分の部屋と同じく1DK。
薫さんが一流商社勤めなので、大家さんが自分で商いをする必要も、こんな狭いところに住む必要も
ないはずなのに、本人曰く『人の世話するのが趣味』らしく、こんな小さなアパートに住み続けているらしい。
すると、予想通り階段を降り切る二、三段前あたりから、女性たちの軽やかな笑い声が聞こえてきた。
「いややわ、綾子さん、うちの旦那なんかと比べてもうたら、御主人かわいそすぎるわ。」
「同じよ、うちの主人も休日はアザラシかトドか、っていうぐらいゴロゴロしてるのよ。
優香にねだられてようやく腰を上げる有様なんだから。」
「うちは子どもっていう強力な助っ人がいいひんからなあ…うち一人じゃどうにもならへんのよ~」
主婦のお宅事情の披露である。大概、女の人は自分のところがいかにダメか、というところを強調する。
大概の場合、女の人は、自分が他人より優れていることを示すと、それが強烈な妬みの対象になることを十分理解している。
だから、卑下する方向に持って行って相手を立てようとする。
そんな女性特有の会話が例外なくここでも繰り広げられていた。
「母さん…優香ほっぽっていつまで井戸端会議してる気だよ。」
「あら、やっと帰ってきたんだ。遅いじゃない。」
「あのなあ…第一、こっち来るなんて一っ言も連絡よこさないで何勝手に来てるんだよ…」
「別にいいじゃないの、ね?大家さん。」
「そやね。綾子さんやったら私マスターキーで飯塚君の家開けるし。」
「ちょ、ちょっと大家さん!」
家主不在の家に侵入しようとする人は仁村以外にもいるらしい。なんて末恐ろしいんだこのアパート。
「にしても優香ちゃん、もう小学校やねんて?早いわー、そないに大きなったんやねえ。」
「そうよ、私も本当びっくり。この子のときは初めてだったせいもあって、
幼稚園に入るまではすごく手間がかかって苦労した印象があるんだけど、優香の場合は楽ちんね。
女の子っていうのもあるかもしれないけど、やっぱり慣れってあるわ。」
そう言って母さんがこっちを見た。
7歳の娘を持つ女性、にしてはやはり老けている。目元や口元には化粧では隠しきれない皺が寄っているし、
髪の艶も昔ほどではないし、体型もめりはりのついていた頃に比べると丸みが増している。
それでも、世間一般の45歳の女性にしてはまだ若く見える、程度には美容に心がけているらしい。
とはいえ、目の前で母さんとマシンガントークを繰り広げているほぼ同年代らしい大家さんの
衰えを知らない抜群のプロポーションには全く歯が立たないレベルである。
もし、母さんじゃなく、大家さんを優香の父親が見初めていたらどうなっただろう、と思った。
普通なら、大家さんを手に入れられるかもしれない、と思ったらきっとこぞって男たちは口説き始めるはずだ。
自分だって同じ立場ならそうしたかもしれない。それだけ、大家さんは魅力ある美貌なのだ。
しかし、優香の父親は母さんを選んだ。
冴えないコブつきのスナックで細々と酒を作っていた中年女性を、20代の前途有望な検察庁の男が
生涯の伴侶にと望んだのだ。
…わからない。同じ男として、どうしてこれからを棒に振る様な選択をできるのかが、わからなかった。
決して大家さんに取り入ろうとしているわけではないけど、
大家さんぐらいの魅力がある人に対してなら有り余る障害も全部振り切ってそれくらいの酔狂はできる気がする。
それなのに、その酔狂の相手がどうしてうちの母親だったのか。ますます、信じられなかった。
今は3人仲良くやっているらしい。2カ月に一度母さんからかかってくる電話で会ってはいなくても現状は知っていた。
家族としての仲は良いのはわかるけれど、母さんと優香の父親の間には何があるのかはさっぱり想像がつかなかった。
「…でね、うちの主人ったら妹さんの結婚には応援してあげたんですって。だから御父様も渋々折れるしかなくって」
「へぇ。綾子さんとのことも上手いこと使えるんやねえ。なかなか策士やね、御主人。」
「口だけは達者ですもの。それくらいできなきゃ、仕事にならないんでしょうね。」
「か、母さん、そろそろ優香の相手もしろよ。」
「あら、何よ。仁村君が見てくれてるんだからいいじゃないの。」
「だから…大家さんこそ、うちの母が長居してすいません。」
「ええのよ。丁度薫さんと二人で居るのも息が詰まるっていうか、視界に入れるのが嫌になってた頃だから
ほんまええタイミングやったんよ。」
「そ、そうですか…」
薫さんとまた何かあったらしい。微笑む目には不穏な気配が潜んでいる。…怖い。
「んでも綾子さん、そろそろ優香ちゃんとこいったげたらどう?飯塚くん困ってるみたいやし。」
「すいません、大家さん、気を遣わせてしまって。」
「ええのん、ええのん。んでこのまま帰るんやんね?気をつけてな~。」
「ええありがとうございます。長居してしまって本当にすいませんでした。」
そういって大家さん宅を辞した。母さんはドアが閉まるのを見届けてからふぅと息を吐いた。
「もう、勝手に会話に乱入しないでちょうだいよ。大家さんがいい人だからいいけど。」
「大家さんがいい人なのは俺の方がよく知ってるよ。母さんより長くここに住んでるんだから。」
「そりゃそうだけど…」
言いあいつつ二人で階段をあがる。ふと、母さんの恰好が余所行きのものなことに気付く。
「さっき、妹さんの結婚とか言ってたけど、どういう意味?」
「ああ、あれね。今日上京してきたのは、優真さんの妹さんの結婚式だったのよ。
御相手の方は確か弁護士なんだけど、割と年上でバツ一だから御父様がなかなか許して下さらなかったらしくって
優真さんが説得したのよ。自分の時に許してくれたんだから、妹さんのほうも許してやってくれってね。
お陰で二人はめでたく華燭の典を迎えられたってわけ。」
「んで、そのついでにここに来たってことか。」
「そーよ。私の一人暮らし中の息子の様子を見に来て何が悪いの?」
「…せめて連絡くれってことだよ。」
階段を登り切った時に、吐き出した息と一緒にそう言った。しかし、一瞬の間をおいて、母さんはぽついりと言った。
「…今日来られるかどうか、わかんなかったのよ。」
「…どういうことだ?」
「…そのままの意味よ。結婚式に出席できるか、わかんなかったのよ。
優真さんの御父様、私のことをお気に召していらっしゃらないから、どうしようかギリギリまで考えてたのよ。
結局あちらのお母様の配慮で優香と一緒ならってことで行かせてもらえたんだけど…」
確か、優香の父親の実家は有名な法曹一家だった。
前途有望な息子を中年女にとられたとなると、敷居を跨ぐな、と厳しいことを言われても仕方がないはずだ。
結婚したくない、と母さんが優香の父親にごねたのも、それが大きな原因のひとつだった。
結局優香を妊娠していてのっぴきならない状態だったことや、一人息子だった俺が殆ど自立していることもあって
なんとか渋々認めてもらえたというのが実情である。
それだから、今もなんらかの膠着があることは十分に予想の範疇だ。母さんの立場が不安定なのは目に見えていた。
「だからって勝手に来てもらっても、俺がいなかったりすることぐらいわかってただろ?」
「別にあんたがいなくてもよかったのよ。優香に見せたかったのよ…私達がずっと二人で過ごしてきた家を。」
「こんなとこ見せたって優香にはなんの関係もないだろ?」
「あるわよ!あの子あんたの妹なのよ?この世でたったの一人だけの兄妹なんだから!」
階段を上り終えたところで、母さんが声を荒らげた。幸い2階の住人は仁村と自分の二人だけなので
この言い争いを聞く関係のない人間はいない。仁村は関係者としてカウントするとして。
「…優香は半分だけしか血が繋がってない。戸籍は違う、18も歳は離れてる、一度も一緒に暮らしたことが無い、
それがこの世でたった一人とか、そんな大層な言葉で括れる関係だと母さんは本気で思ってんのか?」
「思ってるわよ!あんたには父親がいないし、親戚中に縁が切られてるし、私が死んだら
あんた天涯孤独になるところなのよ。優香はそれを免れるたった一人の妹だって、わかんないの!?」
「あのな…!」
次の言葉を口にしようとした時、突然、うちの家のドアががばっと開いた。
ぬっそりと顔が隙間から覗く。酷く困った表情の仁村がそこにいた。
「二人とも、優香ちゃんが怖がってるよ。うちんち空いてるから、そこで言いたいこと言って。
…二人ともらしくないよ。早く、喧嘩治めてね。」
――とはいえ、そういやって水を差されるとクールダウンをせざるを得ない。
無言でうちの家に二人で入る。台所から見渡せるちゃぶ台の前にぽつりと座っている優香の目の端には、
遠くからでもはっきりとわかるほど大粒の涙が浮かんでいた。
母さんはそれを見止めてすぐに優香に駆け寄った。膝の上に泣きかけている優香を乗せて
「ごめんね、優香。怖かったでしょ?」
と語りかけながら頭を撫でている。小さい頃はそんなことをされた記憶がないので、やっぱり女の子の育て方は
違うんだなと心の中に思った。
そのとき、背後に立っていた仁村が、その光景を見てぽつりと言った。
「やっぱり、お母さんっていいね。」
親の愛情を知らない仁村には残酷なことをしたような気がしていた。
そろそろ家に帰らなくてはいけない時間だと言うので、仁村と二人で、玄関口に立って見送ることにした。
駅まで見送ると一応は提案したのだが、すぐそこの角まで優香の父親が迎えに来ているからいいと素気無く断られてしまった。
当の優香は泣き疲れて母さんに抱っこされている。
あのあと、とうとう優香が泣き出したため、喧嘩を収めることができなくて、居心地の悪い空気がずっと漂っていた。
仁村も下手に手を出してはならないと感じていたらしく、いつになく大人しくこの家の中にいてくれた。
戸口で靴を履き終えた母さんは、いくばくかの荷物と優香を抱いたまま、ちらりとこちらを見た。
「私は、あんたのこと、自立したいい大人だとわかってるつもり。
実際、大家さんも、よくやってるって言ってたし、仁村君とこうやって仲良くやってるってことは
面倒見てあげてるからでしょ?…わかってるわよ、それくらい。
でもね…そんな面倒見のいいあんたが、優香を受け付けない理由、自分の心の中でわかってるでしょ?
だから、私は無理に優香の存在を押しつけたくないわ…エゴになっちゃうもの。
でも、最初から関係を作るのは無理だってあきらめてほしくないの。
あんたなら、きっと優香を受け入れられるって、わかるもの。」
「…母さん、俺は…!」
母さんは言質を遮った。
「家族に縁がない生活を強いたのは私の責任よ。だから私が無理やりに家族を押しつけるのはお門違いだってわかってる。
でも…人間、一人じゃ生きられないのよ?誰かに頼らないと、あんた、潰れるわ。」
「勝手に決め付けないでくれ!」
「じゃあ、その証拠はどこにあるの?私はずっと一人であんたを育てるのを頑張ったけど、とうとうダメで再婚したし、
大家さんだって、長いこと一人で生活してたけど、今は薫さんと暮らしてる。
仁村君だって…あんたを頼ってるじゃない。
でも、この生活は長続きしないのよ。あんたが結婚でもしない限り、あんたは孤独の身なの。
けど、優香なら初めから血の縁がある。それだけでも、心強いのよ。」
「でも…!」
反論しかけた時、今までじっと口論の様子を眺めていた仁村が突然すっと手で制して口をはさんだ。
「飯塚のお母さん。俺が言うのはどうかと思うけど…
飯塚は、ちゃんと選びます。自分の都合をちゃんと考えて、誰とどういう風に縁を結ぶか、考えられる人間です。
優香ちゃんとの縁も、じっくり考えて考えた末に、ちゃんと結論を出してくれるはずです。
だから…あんまり急いて答えを求めたら、飯塚のためにならないと思うんです。
今日はもう、これでいいんじゃないですか?」
母さんは虚を突かれたように仁村を見上げたが、険しい表情をふっと緩めて目を細めた。
「そうね…言い過ぎたかもしれないわ。優香が起きないうちにお暇させていただくわ。
じゃあね、また電話するから。仁村君も元気でね。」
そう言って母さんは家を出た。
大きな腹を抱えて、尚後ろ髪を引かれるように出て行ったあの日のように