表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/17

空にすがけばすがくほど

その人は、炎天下に汗をかいた人肌のようにダラダラと水滴を張り付けているグラスのストローを、くるりと一周させた。

まだ完全に溶け切っていなかった氷が、小さく涼やかな音を立てた。

「こんな大事な時期に、申し訳ないと思ってる。

君にとってはいい迷惑だとも思うし、今ここで僕と話をすることすら意味のないことだと思ってるかもしれない。」

無意味にグラスの中をかき混ぜたり、おしぼりを何度も手にとってみたり、

軽食にサンドイッチを頼んでみて一口食んではみたものの、それ以降は手をつけなかったりと

目の前に座る男性の動きは挙動不審そのものだ。

それだけの緊張を感じとっているのだろうと容易にうかがえる。

しかし、やっぱり違うな、と思った。

何と比べて違うのかは、…それは明明白白、

この自分と、だ。

「でも、君と10年以上二人三脚で支え合ってきた、

君のお母さん…いや、綾子さんとの生活を僕のせいで壊してしまう。

そのことを、許してほしいんだ。」

確かそのとき、つい口から出ていたような気がする。

『許してほしいだなんて、大げさじゃありませんか?』

と。いつかこの生活に何らかの形で終わりが来ることはわかっていた。

ただ、ちょっと予想外なタイミングであったことは確かだけど、

それでも、謝ってもらうほど何かを被ったわけではない。

そんなことを伝えるために言ったつもりだった。

しかし、それを受けて目の前の男性は、若いわりには何かを悟ったような顔になった。

「僕は常々思うんだ…血を分けた母子ほど繋がりの強い絆はない、と。

男の遺伝子も勿論組み込まれているけれど、子の血と肉を10カ月もかけて形作って、

生まれた後もせっせと自分の血液を分け与えて更にそれを補強するんだ。

その血みどろの関係性を、当事者でもなんでもない僕が壊すんだ。

君が思っている以上に、業の深いことだと僕は思うよ。」

まるで哲学者みたいなことを言うな、とぼんやり頭の中で思う。

確か、母から聞いたところによると検察庁の職員らしい。エリートの考えることには及びもつかないのも道理だ。

そんなことを考えているとき、男は突然両手の平を机につけて、ぐいっと頭を深く下げた。

取引相手に対して、完全に下手に出て謝る営業社員のような潔さだった。

「申し訳ない。

君の選択肢の範囲外のところで、たまたま君のお母さんと知り合ったせいで、迷惑をかけることになってしまった。

それでも、君のお母さんを一人にはしておけない。君との生活のままだけにはしておけない。

とても我儘で、君にとってはとても一方的な強引な方法だろう。

それを承知で僕は君に許してほしいと思ってる。…本当に、すまない。」

普通に

『僕はこれから君の父親になる●●だ。これから仲良くやろうな。』

とでもいえばいいのに、まるで罪を犯した相手に懺悔をするかのような、仰々しさだ。

どうしてこんなにまどろっこしい言い方をするんだろう。

そのときは、強くそう感じていた。

「いえ、気にしないでください。俺のことなんか。」


――どろどろに疲れ切った身体を鞭打つように宥めつつ、ようやく家にたどりついた。

既に陽は高く昇り、薄暗い中をかけずり回っていた目には眩しい。

さびついた手すりに、いつもならめったにしないことだが、このときばかりは体重を支えるために手をかけた。

最近、錆止めが新しく塗られてザラザラとした感触が殆どない。

ついこの間、日本に帰国しそのままここに定住することになった大家さんの夫である薫さんが

丁寧に塗っていたのを見た。

大方、大家さんにどやされてやらされたんだろう。

薫さんの勤めている会社は、多くの人が知っている有名商社で、何か国語も操れるような人じゃないと

採用されないなどの評判もあるくらいのところである。

したがって薫さんはかなりのエリートだということになる。

しかし、このあいだ作りすぎた煮っ転がしをお裾分けに大家さんの部屋に行った時、

居間で無精ひげを生やしてTシャツとトランクス一丁で寝っ転がりながらぼりぼりとお尻をかいている薫さんに出くわした。

髪の毛はボサボサで、自堕落にもほどがあるという風情で、

出勤時の超有能サラリーマン風の薫さんとは180度も違っていた。

『…あの、大家さんは今どこに?』

『由香里かー?今、近所のスーパーがタイムサービスだからって行ったところだ。何か用か?』

『えっと、煮っ転がし作りすぎたんでお裾分けに来たんです。

大家さんにこの間教えてもらった関西風の白だしを使ってみたんですけど。』

『相変わらず、飯塚君は主婦スキル高すぎだなあ…』

今の今まで水際のセイウチよろしくてこでも動かなさそうだったのに、差し入れの匂いを嗅いだ瞬間に

入口まで近寄って来た。

男はたいがい手料理に弱い。そんな言葉が脳裏をちらついた。

『そんなふうにごろごろしてますけど…薫さんは仕事ないんですか?』

『ああ、俺か?』

薫さんは煮っ転がしを受け取り、早速ちゃぶ台にまで移動してラップを外している。早業すぎる。

『フレックスタイム制だよ。

取引相手が外国相手っていう場合がよくあるから、向うの業務に合わせたりする必要性もあって

各人が業務を円滑に行える時間帯に仕事ができるようにってそうなってんだ。

今日は夜から勤務で昼は有意義に過ごさせてもらってんだ。』

有意義と自堕落をはき違えている。確実に。

『由香里さんになんか言われなかったんですか?』

『…ここで由香里の名前なんか出すなよ。』

恨みがましい目で薫さんは見てくる。図星のようだ。

『あいつは基本的に昼動いてっから、どんだけ俺に対する視線が痛いことか、飯塚君わかんないだろ!?

もうあれはほんと息苦しいを通り越して、息もできないってとこよ。』

『じゃあ家事とか手伝ってあげればいいじゃないですか。ごろごろするのがそんなに息苦しいなら。』

『でも、俺は夜にちゃんと仕事してんだって。家でぐらい寛がせてくれよ~』

そんなふうにヤダヤダと駄々をこねる子どものように薫さんが喚いている最中。

すぐ後ろ手にあった玄関ドアがぎいっと開いた音がした。

『あら、飯塚君、どないしたん?何かあったんか?』

『あ、大家さんおかえりなさい。差し入れに煮っ転がし作って持って来たんです。』

『ほんま!?たいそに、ありがとうな~。あがってくれてても構わんかったのになんでここにいるん?』

『…薫さんがそこでごろごろしてるから…』

『えぇ!?』

そこらへんのモデルとは段違いの艶をもった超絶美人の大家さんがそのまなじりを悪鬼がごとく釣りあげた。

なまじ顔が整っている人ほど、その迫力は絶大だ。思わず息を飲む。

大家さんは、両手にぶらさげたスーパーの戦利品をがしっと掴みながら勢いよく玄関をあがり、居間に突撃して

ドサッと勢いよく戦利品を床に置く。

そして、煮っ転がしに手をつけようとしていた薫さんの胸倉を掴んで鼻頭がくっつきそうな距離で睨み上げた。

『薫さん…お客さんがきたらもてなすっていうの、昔習わへんだん…?』

『えっと、えーっと…習ったようなことはないっていうか…』

『習わんでも、それが常識やろ!?』

そういってえいっと頭突きを喰らわせた。あうっ、といって薫さんが床に崩れ落ちる。

ヤバい、これはヤバい。夫婦喧嘩というよりドメスティックバイオレンスの域だ。

思わず手を差し伸べかけたが、大家さんはこちらを向いて、何故か満面の笑みを浮かべた。

『ええのん、ええのん、飯塚くん。全然心配せんでもええから。』

『い、いや、薫さん床で伸びちゃってますよ…?!』

『いつものことやん。』

確かに大家さんと薫さんの暴力を交えた痴話喧嘩は、薫さんの帰国から幾度となく繰り返されている。

そのたびに仁村と二人、あわあわと遠巻きから手を出すこともできずにあたふたしているのに

とうの二人はそれすらもわかりきった上でやっているらしい。

まったく、周りの心配を考えてない夫婦である。

それでも二人がこれでより良い関係を築けているのなら、他人が口出しをすることではないのだけれど。

『…でもいいんですか?こんなんでよくお互い続きますよね。』

『まあ、そうやね。みんなから言われるわ。

でもうちんとこは子どもがおらへんから実際は続くも続かんもないと思てるんやけど。』

『それって?』

前も同じようなことを言われたが、それは書類上の面倒くささではなかっただろうか、と記憶していた。

思わず聞き返すと、ちゃぶ台の傍に座って早速芋の煮っ転がしをもぐもぐと食べながら大家さんは言った。

『子どもってやっぱり、大事なんよ。ボロボロの夫婦関係になってもな、子どもに対する愛情さえあれば

一緒にいてもまだいける、って思わせるほど。

うちんとこはいいひんから、本当のところ、どうなっても関係ないやん?

もしかしたら、本当はこの関係は破綻してるんかもしれへん。

子どもがおらへんから、いくらでも関係は変質しようがあるんよ。

夫婦なんか、恋人なんか、友人なんか、同士なんか、それとも、本当にただの赤の他人、か。

でも、子どもが中にいたら【家族】っていう繋がりだけは、何があっても変わらんから。』

『じゃあ…今のお二人に子どもがいたとしたら?』

…その質問が不意になにをいたずらに刺激したかはわからない。

けれど、瞬間、大家さんの喉がひゅっとなるように大きく息を吸い込んだのが見て取れた。

しかし、聞こえた声は、下の床のほうからだった。

『…俺らに子どもがいたとしたら、か?いたとしたって、夫婦であり、家族であり、恋人だ。

世間様の夫婦、いや、それも熱々夫婦とそう変わらないね。』

呻くような、しかし、嫌に真剣味を帯びた薫さんの声音が聞こえてきた。

いつの間にか意識が回復したらしく、話を聞いていたらしい。

大家さんは、臆面もない口説き文句にサッと顔を赤らめた。

それに気をよくしたのか、薫さんは起き上がって大家さんの方を抱き寄せた。

『でも暫くは子どもなんてできる予定もないし、二人っきりの世界を満喫させてもらうことにするつもりだ。

飯塚君もそんな相手さっさと見つけて身を固めろよ。』

いらん御進言までいただいてしまった。このままここにいるのも野暮だったので

『わ、わかりましたよ。失礼します。』

といって部屋から出て行った。

――その様子を見て、薫は肩に抱き寄せた由香里に向かって口を開いた。

『飯塚君は時々、すっと核心を突くことを言ってくるな。それも無意識だから、厄介ってもんだ。』

『…どっかでわかってんのかもしれへんのかも…

結婚が長いはずのうちらに、子どもがおらんのに、子どもの話題が出てくることが。』

『それか…

仁村君のことを既に知っている、か。』

二人は静まり返った部屋で暫し思案の中寄り添い続けた。


そんなこんなで部屋の前にたどりついて、鍵を玄関ドアのカギ穴に差し込んだ。

しかし、中のシリンダーがくるりと回る手ごたえがない。

職業柄、戸締りと火の元の管理だけは徹底的にやってから外出する。

今朝だって、それは例外ではなかった。となると。

『…もしや仁村が開けたのか?』

スペアキーは隣部屋に住む仁村に手渡してある。

汚部屋在住の仁村の日用品はこちら側にそろっているようなもんで、食事でさえ、うちの冷蔵庫を漁ってくる始末だ。

そんな風にしてしょっちゅうこっちにとりにくるもんだから、

なかなか仕事で家に居つけない自分の不在時にもとりにこれるようにと、

仕方なくたった一つだけのスペアキーを渡すだなんて羽目になったのだ。

「おい、仁村。もうすぐ締切つってたろ?こっちにいつかずに自分のとこに…」

――それが最後まで言葉にならなかったのにはわけがある。

小さな玄関を抜けてすぐ目に飛び込んでくるこれまた小さな居間にいるはずなのは、仁村のはずだった。

が、想像していた人物は、影も形もなかった。

その代わりに―――

「おかえりなさい、おにーちゃん。」

ツインテールの、小学1年生くらいの女の子が、ひらひらとしたワンピースの裾を翻しながら駆け寄ってくる。

どたどたと短い廊下をその小さな体いっぱいを動かしてやってくる。

そしてどん、と軽い勢いをつけて抱きついてきた。

「おつかれさま、おにーちゃん。にむらくん、今自分の家にいるの。わたしが、すきな絵本持ってるから、

持ってきてくれるって言って、取りに行ってるの。すぐ帰ってくるって。」

合間合間が切れ切れとしているが、はっきりとした口調だ。

会話をよくする環境にある証拠だ。おそらく、家族でよくおしゃべりをするのだろう。

清潔な身なりもあって、家庭環境の良さが滲み出ていた。しかし。

「…誰だ?」

その少女に、皆目見当がつかなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ