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何もかも空隠れ

それから黙々と各人が料理を食べ続け、一通り腹を満たしきった頃、再び薫さんがぷかぷかとたばこを吸い始めた。

自分は先ほどの発言が気になっていたので思い切って尋ねた。

「どうして桜が見たくなったんです?」

「んー、そりゃ、惚れた腫れたが絡むもんよ。」

そういって薫さんは、遠くの、長年会わなくて久しい友を思い出すかのような目でぽつりぽつりと語り始めた。

「長い話になるけどいいか?

――もうかれこれ20年近く前になるかな。

俺は自分で言うのもなんだけどな、結構高校時代頭が良くて。

でも素行が悪い、いわゆるヤンキー崩れってやつで、親からは見捨てられて寄る辺がなかったんだ。

それでも、将来食うに困らない程度の学歴が欲しかったんだよな。一応根がまじめだったからさ。

それで大学に行くために、下宿みたいな形である家に世話になってたんだよ。

学費稼ぐためにそこの稼業を手伝わせてくれたり、

ほんとあそこがなけりゃ今の俺はないっていうぐらい恩のあるところだった。

で、結局おれの場合は院まで進んで6年間そこに住まわせてもらったんだが、

とうとう卒業を控えて出てくことになったんだよ。

地方の大学行ってたからさ、東京で内定貰って、その土地から離れなきゃなんねえから、

全部荷物まとめてあとは出てけばいいっていう段になったとき、そこん家のお嬢さんがなあ、

『私も一緒に連れてってください。』

って言ってくれてたんだよ。」

そういって薫さんは茶の入った紙コップを手にして一口飲んだ。

話の展開から言うと、本当なら酒のほうが欲しいところだっただろうが、

生憎大家さんに今買いに行ってもらってるところだった。

それでも茶で喉の滑りが良くなったのか、薫さんはまた話し始めた。

「彼女はそのとき高校生で、しかも管理人さんの目に入れても痛くないを体現するように溺愛する一人娘でな。

俺は下宿してたとはいっても、彼女が住んでる母屋には管理人さんに呼ばれない限り近づかせてもらえなくて、

6年間下宿していても、食事のときだけ、それもたまに顔を合わせるだけの間柄だったんだよ。

おまけに彼女は、俺より5つ6つも年が下で、若くて、ものすごくきれいな子だったから、

本当にいろんな男にモテまくってて、色んな奴からラブレター貰ってるぐらいだった。

そんな子が、6年間、たまの食事時に顔を合わせるだけで殆ど会話もしたことがない男に対して

連れてってくれ、だなんて、普通言わないよな?

俺も妙にそういうとこ冷静で、

『俺なんかの何に君が惹かれたのか正直俺にはわからないし、

ずっといいやつ世の中にごまんといるんだ。

そういうやつに連れてってもらった方が将来だってきっともっといいものになるに違いない。

だから、今いったことは全部忘れるんだ、すぐに。』

つったんだが、彼女はえらく頑固でね。

結局、彼女は何不自由ない生活も、他のもっといい男との将来の生活も、何もかも捨ててついてきたんだよ。

いわゆる駆け落ちってやつだな。」

何かを思い出したのか薫さんは意味深な笑みを浮かべた。思い出し笑いのようだったが、少し傷ついた色を持つものだった。

「そうやって二人でこっちまで出てきたんだけどな。

やっぱり男女の仲には色々起こるもんで、今、彼女が何してんのかわかんねーんだ。

俺もここ最近仕事にかまけすぎてたせいもあるんだが・・・

彼女とはもう十何年も付き合いがあるから今さらって部分もあったんだ。

多分慢心ってやつだったんだろうな。お陰で今じゃ音信不通ってわけだ。

だから探しに来たんだよ。いい加減彼女がいないと、って思ってね。

んでその途中にここを見つけたんだ。彼女とこっちに逃げてきたのは、桜満開の今頃のことだったもんだから。」

ほろりとする思い出と苦い今の状況に、一同がしんみりしかけた時。

大家さんが帰って来たようでガラッと大家さんの家の縁側の窓が開いた。

「飯塚君仁村君おまたせー。ビールと寿司こうてきたえー・・・」

突如、言葉尻が間延びしてからぴたりと止まった。

大家さんは縁側からこちらを見て、茫然として一切の動きを止めていた。

そして大家さんの視線の行きつく先は、他の誰でもなく、薫さんその人だった。

「か、おる・・・さん?薫さん!?」

ようやく声を出すことを思い出したように言い放った大家さんは、

とんでもなく慌てた様子で縁側を降り、つっかけを履くのもいたくもどかしそうにしながら

薫さんのもとに駆け寄って行った。

「薫さん・・・今まで、何してたん!?」

一人立って見下ろす形で大家さんは立ち止った。

この短距離を走ってきただけなのに、はぁはぁという音が聞こえるほどに、その肩を上下させ息をあがらせていた。

「何してたんって・・・花見してただけなんだけど。」

ぶっきらぼうな物言いとは反対に、大家さんを見つめる薫さんの目は眩しそうに眇められている。

ああ、とようやく合点が言った。

薫さんに連れて行ってくれと頼んだ、とんでもなく美人の女子高生だったのは

大家さんだったのだ、と。

「ちがう・・・その前。なんで、帰ってくるって一言も言ってくれへんだん!?」

「だって、君を驚かせたかったんだよ。こういうのも、たまにはいいもんだろ?」

「そんなんいらん・・・」

そういって大家さんはついに両手で顔を覆った。

指の合間からすすり泣く声が指の間から洩れていた。初めて見る大家さんの泣き顔だった。

対照的に、薫さんの表情は困惑気だが、そのま逆の幸福に満ち溢れていた。

「立ったまま泣かないで。座りなさい。」

「うっさい・・・命令せんといて。この音信不通の浮浪者が。」

「相変わらずの毒舌だな。何年たっても変わらないのはさすがだよ。」

薫さんに手を引かれてブルーシートの上にへたりこむように座った。

大家さんの、手で覆っても隠しきれない、ちらりと覗く表情は、真っ赤で泣き腫らしたものだったけれど、

心底ほっとしていた。


「東京で就いた仕事が商社だったもんで、もう、あっちこっち飛び回り。

結婚してから一緒に同居してたのってったら多分2、3年あるかないかってぐらいだ。

今回はアメリカのシリコンバレーに3年単身赴任でなあ。

正直、もうぼちぼち身体がアメリカンな食事に合わなくなってきて、久々に帰国したら、この料理でさ。

ほんと由香里はいい店子を持ったな。」

「・・・だからって飯塚くんの料理を食べさせてもらわんでもええやないの。いくらでも作ってあげるゆうのに。」

「おー、妬いてる?」

「・・・うっさい。」

ビール缶片手の夫婦二人の見た目にも恥ずかしいような痴話げんかの応酬がさきほどから続いている。

少々、居心地が悪くなってきた頃に、仁村がジュースの缶片手につんつんとこちらを突いてきた。

「なんか、初めて見る大内さんって感じだよね。」

「まあ3年も旦那さんが家に寄りつかなかったんだから、こんな態度でも仕方ない気がするな。」

多分、二人ともわかっているのだろうと感じる。

久々に会えてお互いが嬉しくて仕方ないことを。

でも、何年も連れ添った間柄ゆえの気恥かしさが邪魔しているんだろう。素直になれないのが見て取れた。

「それに・・・なんなん、そのだっさいホスト崩れみたいなスーツ。

行くとき、普通のスーツ何着も持ってったくせに、それがこれになるなんて・・・

いくら仁村くんじゃなくたって、その恰好を見て商社のサラリーマンだなんて信じてくれる人おらんで?」

「これは俺の趣味じゃないって。んな格好してたら日本じゃ確かにあーだこーだ言われるけど、

アメリカじゃ、まずカッチリスーツなんて、よほどのビジネス街じゃなくちゃ見ねえ風景だ。」

「シリコンバレーだってビジネス街やないの。」

「だからさ、こういうのを着てって顧客との信頼度を上げるってわけでさ・・・」

「その顧客は同性と限らへんもんね~?」

「・・・浮気疑ってんのか?」

「疑って悪いの?あんたのスケコマシっぷりはうちがよ~う知ってるえ?」

「そのスケコマシの嫁に収まってるのが、君じゃないの?」

ぷちん、と何かが切れる音が聞こえた気がした。

次の瞬間仁村と共に目が点になるような光景を目にした。

大家さんが、薫さんのこめかみをピンポイントで狙って拳で殴っていた。

ドサッという音と共にブルーシートの上に薫さんが倒れこむ。気を失ったように見受けられた。

「酔いどれさんは、おねんねしときなはれ。」

「お、大家さん、さすがにこめかみってヤバくないっすか?」

倒れこんでから微動だにしない。明らかに意識を失っているようだ。

だのに、大家さんは特に焦る様子を見せることもなく、ビールの缶に口をつけてぐいっと呑んでいる。

下戸とかいいつつ、大家さんの前には空き缶がコロコロと沢山転がっていた。

「ええの、ええの。こんなんいつものことや。」

「い、いつものこと!?」

「夫婦喧嘩っつったらこういうもんやえ。」

多分違う。明らかにこれは違う、と言いたくなったがなんだか大家さんの気迫に言うのが憚れた。

ものすごくなんともいえない空気に満ちてる中、一人空気が読めない仁村がのほほんとジュースでまるで酔ったように

質問した。

「えっとー、大内さんと、薫さんって、結婚何年目なんですか?」

「ぶふっ、それを言っちゃうちの年ばれるやないの。秘密や秘密。」

「でも結構長い感じですよねー。結婚してから2,3年しか一緒に暮らしたことがないって、

まるで10年以上は長く連れ添ってるって感じですよね。」

「これ以上ゆったらほんまに口塞ぐえ?うちの年は、タブーやの、タブー。」

「でもほんと仲いいですね。これくらいの痴話げんかばかり繰り返してるだけで、

本当の修羅場なんてない感じですよね。」

仁村のその一言は、とても、納得しているといった風な色合いが濃かった。

大家さんも虚を突かれたように一瞬目を丸くしたが、さきほどまでのつんけんとした気を沈めたかのように

柔らかい笑顔を浮かべた。

大家さんの美貌を一番際立たせる表情だった。

「仁村君は、たぶん、こんなうちらやったら修羅場なんてあらへんねんやろなーって思うかもしれへんけど、

男女の仲ってな、やっぱり血のつながりのない赤の他人が、自分の恋だの愛だのっていう感情だけで

結びついただけやから、ほころびっていっぱいあるんやろうね。

一回、ほんまに別れよっか、って二人で言ったことあったんやえ。

そういうときって、疲れ切ってるから喧嘩する気力もなくて、どん底に落ちてるなーって自分らでもようわかったもん。

それでもなんとか乗り越えて今があるけど、

この人は殆ど家寄り付かんし、しょっちゅう女の影匂わせてるし、学習しいひん人や。」

そういいながらも、意識を失ったというよりはただ単に眠りこけているらしい薫さんの顔にかかった前髪を

優しく大家さんは掻きあげてやる。

夫婦というよりも、母親と子のような、関係性なのかもしれないな、と思わせる行動だった。

「何回も他の人んとこ行ったろか、って思ったんやけどね。

うちんとこは子どももおらんし、別れようと思ったら書類出すだけで終わりやし。

それでも離れられへんって、うちも大概なんかもしれへんね。」

そういって大家さんは目を伏せた。

まるで、今までのことを反芻するように、思い出しているように。


「・・・待ちくたびれたんやで。ずっと3年も、一度も会ってくれへんだんやから。」

「うん。ごめん。」

後片付けは全部やるさかい、といって、飯塚と仁村を自室に帰して、二人は未だに満開の桜の下にいた。

ごつごつとした地面の堅さを伝える薄いブルーシートの上だったが、

二人は自分の家のようにゆったりとした時の流れを感じていた。

さきほどまで眠りこけていた薫はのそりと上体を動かして、足を崩して座っている由香里の膝の上に頭を乗せた。

薫は柔い暖かさが後頭部にじわりと広がるのを感じて、ようやく『帰ってきた』ことを実感した。

「かわいこちゃんに目が眩んで、うちみたいなおばさん見るの、嫌やったんやろう?」

「由香里は、どの若い子よりもきれいだし若い。」

「そのくせ、うちんとこになかなか帰ってこーへんのはどういう料簡やいうん?」

「これからはいるよ。由香里がどんなに嫌だっていってもね。」

「・・・てことは日本に異動?」

「そういうこと。」

「薫さんとこの人事はようわからんわ・・・」

はぁと由香里はため息をついた。

しかし、薫には、そのため息が決して負の感情が込められたものではないことはよくわかっていた。

そんな、いい雰囲気を崩したくなかった。

けれども、言うべきことがあった。薫はこれからまた由香里の涙を見るかもしれないことを覚悟して口を開いた。

「あの子に会ってきた。」

「・・・あの子て?」

「とぼけなくてもいい。・・・相変わらず、ものすごく可愛かったよ。」

「へぇ~。思わず抱きしめたくなるくらい?」

「ああ。膝の上に乗せて、この手で撫でまわしたいぐらいに可愛かった。」

「・・・うちよりも可愛かった?」

浮気相手と自身を比べるような由香里の発言であるが、薫にはわかっていた。

目にいっぱいの涙を浮かべて今にも零れ落ちそうなものをせき止めているのは、

色んな感情がいっぱいにせめぎ合っているからだということを。

「いいや、君の若い頃のほうがずっと可愛かったと思うよ。俺としては。

というより、もうそろそろ可愛いって言い続けたらかわいそうだからね。

今に、君を追い越すよ、あの子は。」

最後の一言で、由香里の砦は瓦解したようだった。ぼろぼろと大粒の涙が薫に降り注いできた。

「もうそんなになってんの・・・」

「早いもんだからね・・・目を瞠るよ、手元にいない分、余計に。」

「赦してくれるんかな・・・」

いつものお決まりの由香里のセリフが飛び出た。強気な由香里がただ一つ弱気になるのがこの瞬間だった。

ゆっくりと薫は由香里の頬に手を伸ばして、目を見つめた。

「きっとわかってくれてる。これが、仕方がないことだって言うことぐらい、聡明なあの子なら。」

「それでも・・・一言だけでも謝りたい・・・『亨』・・・」

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