空酔う日に咲き誇る
「きれーだね、桜。そうだ、花見しない?」
仁村はときどき突拍子もないことを言う。今回もご多分にもれずそうだった。
桜満開の4月初旬。
新社会人や新入生たちがこぞって新生活という異世界へと突入するこの時期。
相も変わらずこのアパートには変わらぬ時間が流れていた。
いつものように仁村はアパートの一階にある空室の庭でプチ園芸に励んでいる。
今のシーズンは葉物の野菜を中心に育てているらしい。ネギがまんまるい花を葉先につけて風に揺れている。
それを大家さんと二人で縁側に座って茶をすすりながら眺めているときのことだった。
「ええねえ、お花見。飯塚君のお母さんがいらっしゃる時分は何回かちょろっとやったことあったけど
もう5,6年はとんとしてへんだからなあ。」
ここ関東にあってもバリバリの関西弁を貫き通しているアパートの大家である大内由香里さんが、
即座に仁村の提案に賛成する。
この二人の、ほんのときたまある、妙な連携プレーには時々頭を抱えたくなる。
「えっと・・・そのお花見の料理はもしかしてもしかしなくても・・・」
言い終える前に、別々の場所にいる二人がまるで打ち合わせたように同時にこっちを見て
「飯塚くんが作るんよ」
「飯塚が作るんだよ」
と同じことを言った。こんなところで意見を同調してもらっても困るのだが。
「はぁ・・・」
普段、殆どこのアパートから離れることのない自営業である二人に、
わざわざ料理を作れと言われるしがない勤め人の自分の身も少しは考えてくれ、と言いたくなった。
そんな事情があってその週の休日は花見に充てられることになった。
朝から早起きして、鶏のから揚げに、ポテトサラダ、卵焼きに、たこさんウインナーなどの定番メニューに加え
かぼちゃの甘煮に、若竹煮、スナック豆のおつまみなど旬の野菜を使ったお惣菜も少々手抜きではあるが作って置いた。
雰囲気が出るようにとの大家さんの厳命で、いちいちそれらを重箱に詰めている最中である。
因みに当の大家さんは酒屋に行ってお酒を買い出しに行っている。
とはいっても、仁村も自分もそんなにお酒が飲みたかったわけではないので、おそらく大家さんが一人で消費するのだろう。
細身の大家さんの尋常じゃない強さが一瞬怖くなった。
そんな風にどうでもいいことを考えているとき、脇から熱心に仁村が覗きこんできた。
夜が主な活動時間帯である物書きな仁村には珍しい早起きである。
「・・・つまみ食いはするなよ。あとでいくらでも食べられるんだから。」
「わかってるよ。でも、ほんとおいしそうだな・・・これ。
遠足でこんなふうにお弁当詰めてもらったら一日中気分舞い上がれるよ。」
もう遠足なんて経験することもないというのに、夢見心地なことを仁村は言った。
年相応ではまるでありえないその発言に、思わず苦笑してしまった。
「それじゃあこれからもそうしてもらえるように、こんな突然なことを言うのは自重してほしいよ。
たまたま今日は休みだったから良かったものの、
もしかしたら桜の花が咲いてる頃に休みがとれなかったかもしれなかったんだ。」
「それに関してはほんとごめん。でも飯塚の料理って美味しいんだもん・・・」
見るからに、申し訳なさそうにしゅんとして仁村が言った。
こんな表情をされると、いくら迷惑かけられまくっていると言えども、手放しに誉めてもらえるとまんざらではなくなる。
「・・・そ、そうか。」
そうやってあっさりと威勢を削がれる自分がちょっと情けなかった。
仁村はきっと無意識に甘えてきて、そして褒めてくれただけであって、何かの意図があったわけじゃない。
そうだとはっきりわかっていても、心がほわりと陽だまりの只中のように暖かくなる。
・・・この感情に名前をつけるわけにはいかないと思っていても、否応なく自覚させられる瞬間は日ごとに増える。
冬以来、加速度的に進行している『病』に、思わずため息をついてしまっていた。
「はぁー・・・」
「ん?飯塚、ため息ついたら幸せって逃げるんだよ?」
「むしろ今のところ逃げてほしい気分だよ・・・」
「??どういう意味?」
それには返事をしないまま、ラップで一つずつ握ったおにぎりを重箱の一番下の段に入れて行楽弁当は完成した。
あとはお茶の入った水筒とブルーシートに、おかずを各人がとれるように紙皿とお箸をかばんにつめて下に持って行くだけだ。
エプロンを脱ぎながら
「仁村、できたからそろそろ支度して。」
「ん、わかった。」
そういって仁村はバタバタと慌てた様子で上着をとりに自宅に帰って行った
上着以外にも気を利かせてカメラとかなんやらを持ってきてほしいものだが、
多分仁村の頭の中にそんな想像これっぽっちもないだろう。
相変わらずの生活能力のなさは、何度春を重ねても改善の兆しはなさそうである。
そしてそんな仁村がいることが、何よりも自分にとって欠かせないという思いも止まる気配を知らない。
むしろ、春を経るごとに強まっているような感さえある。がらんどうとした自室にひとりになって、無性に寂しさを感じるのも、多分、そうだから、だろう。
そのあと上着だけを着て現れた仁村とともに、重箱とブルーシートその他諸々の花見に必要な荷物を持って
アパートの1階に降りる。
そして、大家さんの角部屋の横をぐるりと回ると、このアパートの庭に出る。
他の部屋はそれぞれに仕切りがしてあるのだが、大家さんの庭だけはその仕切りがなかった。
それはこの樹齢5,60年といわれる、桜の巨木がそびえているからだった。
大家さん曰く、戦後間もなくに植えられたソメイヨシノで、
本当はこのアパートができる前は他の何本かと一緒に植えられていたという。
しかし、宅地造成が活発になってきた高度成長期、このアパートが立てられると同時にいくらかの桜は
近所の堤防の並木へと植樹されていった。
しかし何故かこの1本だけは取り残されたまま現在に至っている。
お陰で花見客の寄り付かない絶好の穴場スポットと言えた。
二人でそこに向かう最中、強烈な横殴りの風が吹いた。春の気まぐれの暴風である。
その風に煽られてた花弁が吹雪となって舞う中、ぽつりと木の根もとに座る人物が見えた。
腕で顔の前を防ぎながらその状況に不審さを覚える。
「あれ誰?」
仁村が尋ねてくるが、同じく今ここに来たばかりの自分にそんなのわかるわけがない。
「わざわざ所有者のある敷地内の庭にまでやってくるから、不審者の可能性もあるな。」
冷静に理論立てたことを言いつつも、二人でその人物のもとに無防備にも一歩一歩近づいていった。
――根元に腰を下ろしているのはどうやら男性で、ぷかぷかと美味そうでも不味そうでもなく、
無表情にタバコの煙をくゆらせていた。
容貌に目を向けてみると、やや明るめの茶髪で、それを襟足まで長くのばしている髪型が目についた。
そして切れ長の目が涼しく、鼻立ちもすっと筋が通っていて、
30代前半くらいに見える彼は、世間一般で言えばイケメンと騒がれるような面立ちをしている。
しかし、普通の生地ではありえないような光沢を放つ鼠色のややくたびれた上下のスーツを着て、
真っ赤なシルクのネクタイを締め、指にはゴテゴテとしたシルバーリングを嵌めているのでは、
どう見ても・・・
「身持ち崩したホストっぽいよね。」
と、今まさに心の中で考えていたことを、あろうことか仁村が声に出して言ってしまった。
「ちょ、ちょっ、仁村・・・!」
慌てて口を押さえようとした時、どこか呆けたようにあらぬほうを向いていたはずのその男がくるっとこちらに向き直った。
まともに視線が合う。
鋭く射るような視線というわけでも、その逆の柔和な視線でもない。
ただ、なんともいえない緊張感を強いられる、底の見えない怪しさの混じったものだった。
仁村ともども立ちすくんでいると、その男は緩慢な動作で、くいくいっと手招きをした。
「怪しい人間じゃないから大丈夫大丈夫。
第一、君たちがその気になったら一瞬でのせるぐらい俺よわっちーから。
特にそこのお兄さん・・・ちがうちがう、色白のほうじゃないお兄さんのほうね。
武道の心得あるでしょ?
筋肉の付き方が一般人と違うんだよね、結構着るもの困るタイプじゃない?」
そういってまたぷかぷかとタバコを吸い始めた。
一目見ただけで、武道の心得があると言われるのは初めてのことだった。
口の中が渇いたように言葉が喉でもつれこんでいたが、なんとかひねりだす。
「どうして、わかったんですか・・・?」
「一応人間観察が趣味だから、かな?」
あ、これ面接のときとか使える使える、と一人で何やら笑い始めた。さっぱり行動が読めない。
「あ、それと色白のお兄さん、俺はホストじゃないから。
歌舞伎町なんて多分一回か二回行ったことあるぐらいで、今じゃもうさっぱり行き方もわかんないぐらいだからさ。」
「じゃあ、なんでそんな恰好でここにいるんですか?」
仁村が突然正気に戻ったかのように、ズバリ核心を突く質問をした。
あまりに危機感のない仁村の能天気加減にドキドキハラハラしながら答えを期待して待つ自分がいた。
すると、男はやる気のない笑みを浮かべて仁村に向かってではなく誰ともなしに呟いた。
「久しぶりに桜が見たかったんだよ・・・ただ、それだけさ。」
「じゃあいっしょに花見しません?」
またしても仁村は爆弾発言した。いましがた初めて出会った、不法侵入容疑もありうる見も知らぬ男を
よくも誘えるな!と言いたくなったが、
なんでだか、それが言葉になって出てくることはなかった。
多分、男はさっきとはまるで違うさわやかな笑顔を突如として見せたからだったかもしれない。
「サンキュー。丁度腹が減ってたところなんだ。」
めまぐるしい男の顔の表情の変化は、彼をあるときには老練な4,50代の貫録を見せつけたり、
あるときには、友達ができて喜んでいる10代の少年のような初々しさを出したりと、
年齢の読みとれない不思議さをもたらした。
そうして早速ブルーシートを桜の下に敷いて、そのうえに3人乗って料理を詰めた重箱をパカッと開けた。
「おおー!すげー豪勢だな!」
男は思わずうなった。その反応にはまんざらではない。
「これって、兄ちゃんが作ったのか?男なのにここまでできるって本職か?」
「いや、違います。ただの趣味というか・・・」
「趣味にしちゃあえらく所帯じみてるぜ。独身みたいだけど、これじゃあ女房いなくても生きてけるな。」
笑って新たにつけたタバコを楽しそうに吸っている。
仁村も何が面白いのか、つられたように笑って言った。
「飯塚は一人暮らしが長いせいで家事がものすごくできるんですよ。料理だけじゃなくて。」
「そういう君は何もできなさそうな印象を受けるよ、俺は。」
そう見事なまでに言い返されて仁村は何も言えなくなったように紅く頬を染めた。
その反応を見てまた男は楽しそうに膝を揺らして笑っている。
自分は、そんな二人の会話を聞きながら重箱から料理をとって二人に配る。
「おおう、サンキュー、久々の家庭料理ってやつだ。いただきます~。」
「久々って今まで何食べてたんですか?」
「ん?そりゃ外食に決まってんだろ。普通独り身だと、なかなか自炊する気にゃなれんぞ?」
まるで自分が常識にかなってないとでもいうような口ぶりである。
事実ではあるが。
すると熱心に骨付きから揚げを攻略していた仁村が、口元を油でべたべたにしながら顔をあげた。
「そういえばお名前なんて言うんですか?」
またしても、突然にもほどがあるという質問である。
もしこの男が犯罪者なら身元に関わる質問はNG中のNGだ。そんなことにも頭が回らないのか!と
内申かなりひやひやしたが、男は特に気にすることなくさらりと答えた。
「薫。薫ちゃん、って呼んでくれ。」
「・・・薫ちゃん?」
「そうそう薫ちゃん。女の子っぽい名前でかわいーだろ?」
「全然可愛くないです。」
そう返すと
「ちぇっ、、冗談だよ冗談。」
といって心底悔しそうな表情を見せた。
本当に『薫ちゃん』という呼称にふさわしい顔からは、程遠いことを踏まえて
正論を言ったのにも関わらず、なのにだ。




