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あなたの頬の空涙

仁村はグリグリと頬を胸に押し付けて高熱が出たときのうわ言のように

「いやだ・・・いやだよ・・・俺は何も悪い事してないのに・・・

離れていっちゃダメだ・・・置いていかないでくれよ・・・グスッ・・・」

と繰り返しぼそぼそと泣きごとを呟いている。

この、自分の身体の上で、だ。

「お、おい、仁村、そろそろ離してくれないか?」

突如、覆いかぶさってきた仁村を受け止めきれずにこたつから出た上半身を倒されている姿勢だ、結構辛いものがある。

しかし、その言葉に反応した仁村はギュッと更に首に回している両腕に力を込めた。

これではますます動きが取れない。

にっちもさっちもいかない状態というのはこういうことを言うのか、とまだ頭の中の冷静な部分が呟いた。

仕方なく、仁村の頭に手をやる。ポンと、柔らかい猫っ毛に触れた。

「仁村、落ち着いたらでいいからどけてくれないか?結構お前重いんだ。」

俯いた顔からグスッと鼻を啜る音が聞こえてくる。

しかし、先ほどのようにおいおい止め処なく泣いている印象はない。

そういうわけでとりあえず自体は収束しかかっているのだと、期待を持つ事にした。

猫っ毛を撫でながら、天井に顔を向むけて尋ねた。

「仁村・・・お前らしくないな。」

「グスッ・・・知らない・・・知らないよ・・・」

会話が成り立っていないような気がするが構わず続けることにする。

「最近何かあったんだろう?

こうやってお前一人が背負い込みきれないことなんだったら、一人で背負い込まなくていい。俺も一緒に背負ってやる。

それが我侭になるからお前はしたくないと思ってるのかもしれないが・・・

俺に置いていって欲しくないんなら、置いていって欲しくないだけの我侭を言うのが普通だろう?」

「・・・でも、僕は飯塚に迷惑をかけたくない・・・」

頑なな返答だった。仁村の、時折見せる頑迷さは自分ですらなんともしようがないほどである。

けれど今回ばかりは折れるわけにはいかなかった。

「迷惑かけたくないんだったら、自分ひとりでどうにかなることだったらこうやって俺に泣きつかなくたっていいじゃないか。

それか・・・本当に、俺に放ってかれると思うようなことがあるのか?」

それは思いかけず核心を突いたようだった。

急に仁村のぐずり続けていた音が止み、部屋にはテレビの音声だけが響く静寂がもたらされた。

相変わらず仁村は胸に顔を押し付けたままで動かない。

しかし、暫くしてもぞりと動き出した。仁村は肘を床につけて上半身を浮かせるように顔を持ち上げた。

上に圧し掛かった人間に顔を覗き込まれるときに人がまず初めに思うことは

おそらく焦りとか戸惑いだろう。

それが例え、凶悪犯にナイフを首に差し込まれながら圧し掛かってきた時でも、

極上の美女がその艶やかな身体を押し付けるようにして乗ってきたときでも、だ。

前者だとそのあと恐怖が、後者だとえもいわれぬ欲情が勝るのだろうが

どちらの場合にせよ、己の身が、相手に屈服させられ支配され得る状況下に置かれるような格好なのである。

そこには本能的な恐怖が潜んでいるのだろう。自分もまた、仁村の予期せぬ行動に惑いを感じた。

ゆっくりと、ストップモーションをかけられたかのような長い、

けれど実際はほんの数秒の間に、仁村はその顔を持ち上げてこちらに向けた。

一気に感情が爆発したせいか、今は落ち着いている。それでも名残は色濃く残っていた。

頬は涙で濡れていた。這った跡がキラキラしているから一目でわかった。

その出どころである目は泣き腫らしたせいか真っ赤に充血していた。

そして眉間が悲愴に歪められていて、一層不安を掻き立てられる。

「に、仁村・・・?」

自分でも声が掠れて裏返っているなと思った。

そんなふうに気が動転するほど、いつにない表情の仁村には驚いていた。

いつも能天気で、気ままに過ごしていて、一見自由奔放そうに見えるのだが

その実仁村が爆発的におのれの感情を曝け出す機会はあまりない。

おそらく、酒の力によってめったにないことが起こったのだろう。

それはあまりにも唐突なことだったので、自分は、身じろぎすることすらできなかった。


いつまで続くのだろうと、じりじりし初めて来た頃。ようやく仁村が馬乗りになっていた膝を立てた。

「・・・・・・」

ひどく緩慢な動作だったが無言ながらも仁村は身体をどけた。

重く圧し掛かっていた人一人分の体重が消えた事によって身体がいっきに弛緩する。

おかげで、動きたくても動けなかった。どこか穴が開いたような虚無感がじわりと襲ってくる。

多分、身じろぎせずに横でじっとしている仁村の存在感がそれを生み出しているのだろう。

じわじわとその存在に冒されるような感覚を持った。

―――長い時がその状態のまま過ぎたようだった。しかし実際はほんの十数秒後のことで、

仁村の頬の色が尋常じゃなく赤みをもっているのに気づいたことから沈黙が解けた。

初めは、泣いたことによって体温があがってしまったんだろうと決めつけていたが

次第に微かながらも常とは違うはあはあというあがった息が口元から漏れ聞こえてきた。

発熱しているという結論に達するのにそう時間はかからなかった。

「仁村・・・お前熱があるだろう・・・?」

ちゃんと声に出して言えた自信はなかった。

何しろ長い沈黙の後で、言葉が喉に絡むような違和感を感じていたからだった。

しかし声に出すだけでなく、既に上半身を起こして手を仁村の首筋にも伸ばしていたので

こちらの意図することは伝わっていただろうと思う。

仁村はこちらが突然動きだしたことに驚いた素振りを見せることもなくされるがままでじっとしていた。

その様子に安堵してそのままピタリと首筋と顎のラインに手を這わせる。

案の定、温かい室内で温められたにしては高すぎる熱を感じ取った。

「仁村・・・最初からしんどかっただろう?酒呑んだから今もっと具合悪いだろう?言ってくれればよかったのに・・・」

思わず質問攻めにしてしまってから気づいたが、仁村は先ほどの興奮からまだ冷めやらぬ状態なのだ。

下手に刺激すればまたしても激情をむき出しにしてくる可能性もある。

その恐れに気づいて、自分は図らずも急に居心地悪げに口をつぐんでしまったが、

仁村は幸いにもとりたてて意に介したわけではないようで

「・・・うん。」

とポツリと呟いた。たった一言だけだったけれども、そこからは、自分を撥ね付けるつもりはないように感じられた。

「じゃあ今から暖かくして寝た方がいい。向こうの自分の部屋に戻るか?」

これも何の気なしに軽く尋ねただけだったのだが、

仁村はとんでもないといわんばかりにブンブンと首を思いっきり横に振って

「いやだ。戻りたくない。」

と強情さを見せた。もしやプッツンの再来かと身構えたが、

「・・・あの部屋には何にも用意がないから・・・もし、飯塚が迷惑じゃなかったら、寝かせて欲しい。」

と、いつにない殊勝さで伺いを立ててきた。熱のせいなのか、珍しいことだった。

このまま何事もなければ明日の昼までは休める予定だったので、

面倒をみるぐらいはいいかとすんなりと自分の中で算段をつける。

・・・こういうことがあるにつけ、やっぱり自分は大概仁村に甘すぎると思う。

生活能力がないというだけの大人の男に対して世話を焼くなんて。

たとえ生活能力がなくてもこのご時世金さえあれば一人身でもやっていけるものである。

それでも、お節介を焼かずにはいられない。

そんな自分に苦笑が禁じえない中、立ち上がって押入れのふすまを開ける。

仁村の家の場合はふすまを開けたとたんズサッという音ともにあらゆるものが雪崩のように崩れ落ちてくるのだが

うちの家の場合は整理整頓をきちんとしているのでそんなことはない。

それに、仁村の万年床は既に遠い昔に物で埋められて全貌解明は困難を極める。

そのため冬場の仁村の寝床はこたつである。

深夜には氷点下に達することさえままあるこの地域で、風邪をひいている人間が寝るには

最悪と言ってもいい寝床といえるだろう。

たぶん、そんなことも見越した上でこっちで寝かせてほしいと言ってきたのだろう。

ある意味で頭が切れている。熱が出ているくせに。

押入れから客用の布団一式を取り出して、畳の上に敷く。仁村はいそいそと上に羽織っていたパーカーを脱いで布団の中に入った。

顔が真っ赤になっている。多分明日の朝イチで近所の医者にかかって

解熱剤を貰うなりしないと下がらないぐらいの高熱が出てるんだろうなと感じられた。

一応食欲はあるようなので、胃の具合が極端に悪いということはなさそうだが

明日の朝になったら食が進まなくなっているかもしれない。

更にこの家には氷嚢だとか冷却シートだとかいうものはないのでコンビニでそれらを調達してくるかなさそうだった。

また寒空の下に出なければならないのかと思うと億劫だったが仕方がない。

仕事帰りで未だ部屋着にも着替えていなかったのでカッターシャツの上から羊毛の分厚いセーターを被る。

その上にはダウンジャケットを羽織った。

「今からコンビニに行ってくるから大人しく寝てろよ。」

玄関を出る振り向きざまにそう言い残す。

部屋で寝ている仁村の顔は掛け布団に隠れて見えない。けれどドアが閉まる直前に

「うん・・・わかった。気をつけて・・・」

いつになく弱弱しい声が聞こえてきた。

いってきますとは、言えなかった。


短時間でさっさと目的のものを買い終えて、帰宅してみると仁村の規則正しい寝息が部屋に響いていた。

そんな中で自分が右手に持つレジ袋の擦れる音が、やけにうるさく聞こえる。

さっさと台所に引っ込んでなるべく音をたてないように買ってきたものを冷蔵庫だのを備え付けの収納棚だのに仕舞い込んでいく。

そんな風に行動していても、常に仁村のほうにばかり意識がいってしまう。

仕舞い終えてジャケットを脱ぐ間も惜しんで仁村の傍らに座る。

ふうふうと息をはいていた出かける前とは違って今は落ち着いている。

それでも熱は高いようで、顔が先ほどりも赤くなっているように見えた。

むしろ酒の影響が今更出始めたのか本格的に上がってきたのかもしれない。

思わず、仁村の額に手を伸ばしていた。手の甲が、平熱の体温とは異質な熱と汗による皮膚の湿り気を感じ取る。

それでも、何かが足りなくて、手がするすると頬を伝い始める。

意図した行動ではなかった。

それでも止められなくて、出かける前に手を這わせた首筋あたりまで来たとき、ピクリと仁村の身体が小さく震えた。

一瞬で『早く手をどかさなければ』と判断したのに、動かせなかった。

仁村が手を掴んでいた。

「・・・あ、おかえり・・・飯塚の手、すごく冷たいね・・・気持ちいい・・・」

冷えピタ代わりだとでも思っているのか、仁村は自らの手のひらで包み込むようにこの手を首筋にくっつけている。

素面じゃありえない行動だ。

そう、頭の中ではわかっていた。わかっていたが・・・

バッと勢いづけて仁村の手を振り切った。仁村が熱でとろんとした目をしながらも驚いているのが見て取れた。

その目を見て後味が悪いと感じながらも

「・・・すまん、ちょっと出てくる。」

適当な言い訳が見つからなかったので足早に部屋を出た。

夜半をとっくに過ぎた外の空気は底冷えで霜が早くもおりている。

アパート2階の廊下の錆びついた手すりに両腕をひっかけて空を見上げた。月は鈍色の雲に隠れてしまって見当たらなかった。

おそらく、喫煙者だったらちょっと一服に、とでもいって誤魔化せたのかもしれない。

でもあいにく嫌煙者ではそんな洒落た言い訳は使えそうにもなかった。

「くそっ・・・」

思わず頭を抱えて掻き毟る。自己嫌悪とはまた違う、罪悪感のようなものが身を苛んでいた。

――多分、今、顔が真っ赤になっている。

大家さんあたりに見られたら、なんと言い訳すればいいのだろう、という類の。

仁村が頼ってくるのは、自分が、便利屋のように甲斐甲斐しく世話を焼くからだ。

そこからこの関係は決して逸脱することなんてなかった。

けれども、一歩足を踏み出してしまったのは――自分だ。

そんな懊悩しながら仰いだ自分の顔に雪がちらちらと降り注いできた。

もしかしたら、積もるかもしれないと天気予報で告げていたことを思いだす。

できることなら――聖夜の終わりとともに、積もった雪がこの一瞬の迷いも一緒に溶かしてくれればと、

思わずにはいられなかった。


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