あな、空恐ろし
寒々とした冬空の下、コートを羽織ってマフラーを首にグルグル巻いて
遠目から見ても、十分もこもことした仁村が手を振って歩いてきた。
「いーいーづーかー、おーかーえーりー。今日は早かったねー!」
どんどん近付いてくる仁村の頬はほんのり朱が差したように赤みがかっている。
ただでさえ普段から年齢よりも若く見えるのに、今日に至っては中高生ぐらいに見えても言い訳できないぐらい幼く見える。
それを本人に言ってしまうとこういうところはちゃんと気にしているのか
えらくむくれるので心のうちにしまっておく事にした。
「ああ。上司が
『今日はクリスマスイブなのに若いもんが残業するのは色気がなさすぎるだろう?』
とかいって帰してくれたんだ。・・・どうせ年末年始はその分働かされるんだからそんな気遣いいらないっていうのに・・・」
「仕方ないもんね、飯塚の仕事は大変だし。」
普通の会社の勤め人ならもうあと数日で仕事納めとなるのだが、
自分ははっきりいって特殊職業であり、世間一般の休日の概念が当てはまらない。
だから、こうして突発的に休みになったり、はたまた突発的に出勤という羽目に陥るのである。
すると目の前の仁村は手にぶらさげているレジ袋を軽く持ち上げた。
「一人で今日は食べる事になると思ってたんだけど丁度良かったよ。飯塚も食べるよね?」
「・・・中身は、何?」
えへへ、と相手の反応を楽しみにして
自分も喜んでいるというような子どもっぽい笑顔を浮かべながら仁村は言った。
「クリスマスケーキだよ。ずっと前に予約してたんだ。
1ホールはさすがに自分だけで食べきれないと思ってたから、本当に良かったよ。」
仁村の汚部屋でクリスマスを祝うのもなんとなく興が冷めるので
きれいだが物がなさすぎて殺風景な自分の部屋に二人で入った。
仁村はケーキのほかにも、クリスマス特売で買ったから揚げとかフライドポテトとかの
オードブルセットや、若い子に人気だというスパークリングワインを持参していた。
それだけでは足りない感じがするので台所に立って他に付け合せるものを作ることにした。
冷蔵庫の中に卵のパックがあったのでその卵とじゃがいもをゆでてポテトサラダにする。
きゅうりをリズムよく切っているとなにやら後ろに気配を感じた。
「・・・仁村、お前はこっちに来たって手伝えないんだから、こたつにでも入ってテレビを見とけ。」
「でも、暇なんだよー。テレビつまんないし、こたつぬくいから寝そうだし。」
「寝ててもいい。後で起こしてやるから。」
「・・・飯塚ってデリカシーないよな・・・」
ボソッと何事かを仁村が言ったようだが、小さすぎて何を言ったか聞き取れなかった。
「ごめん、聞こえなかった、何て言った今?」
「いいよもう。こたつに大人しく入ってがーがーイビキかいて寝てますよーだ。」
いつの間にか不貞腐れたらしく、そのまま名残惜しそうに居間のこたつに戻っていった。
仁村の感情の起伏はやたらと激しい方ではない。
むしろ、おっとりしていて、どうしてそこで怒らないんだ!?と周りの者が思うほどに感情的になることが殆どない。
けれど時々、こちらの意図が及ばないところで拗ねたりする。
多分、生来素直で優しい性格をしているのだが、未だに子どもっぽさが残ったままなところがあるのが起因しているのだと思う。
こうやって、甘やかしている自分に対して、子どもっぽい仕草で甘えてくる。
親がいない仁村にとって、本来親に向けられるべき感情を受け止めてくれる相手が、この自分なのだろう。
同い年なのに父親扱いされているのだろうか?と思うとなんとも複雑な気持ちになるのだが。
そうこう考え事をしているうちに、ポテトサラダが出来上がったので、
ついでにサラダに使って余ったたまねぎでオニオンスープを作る。
あんまり甘めな味付けは好きではないのだが、仁村は甘党なので、
たまねぎの甘さが引き立つようにする。これであともう数分煮れば出来上がるだろう。
ふと気になって居間のほうを振り返る。
すると、案の定こたつに入って天板に頬をくっつけたままで仁村は眠っていた。
生臭い手を水道で洗ってから仁村の下に近付く。
屈みこんで仁村の滑らかな頬に冷たい手をピタッとくっつけてみるも、起きる気配はない。
触り足りないとかそういうのではなかったのが、目の前にあったのでなんとなく柔らかくて癖の入っている仁村の猫毛を撫でてみた。
仁村はそれに気付いているのか無意識なのかわからないが、グルグルと喉を鳴らすように微笑んだ。
本当に、猫が撫でられて気持ちよくなっているみたいである。
ふっ、とつい笑ってしまった。
そんな反応を仁村に引き起こさせてしまう自分の行動に苦笑を禁じえなかったからだった。
「飯塚っ、メリークリスマスッ!」
「・・・メリークリスマス。」
カチンと音が鳴るようにワインの入ったグラスで乾杯をする。そしてそのままお互い一気に飲み干した。
「ぷはー。炭酸結構キツいね。普段炭酸って飲まないから変な感じがするよ。」
「仁村は酒自体弱いから変な感じがするんじゃないのか?」
「そっかー。そういうことかもね。」
生返事をしつつ仁村は早速自分の買ってきたオードブルをつっついている。
うまいこと箸でから揚げの骨付きが掴めないのか苦労している。見るに見かねて溜息をついた。
「無理して箸で掴まなくてもいいから、そこのティッシュで脂を後で拭くか何かするとして素手で掴んで食べろ。
それのほうが確実に落さない。」
「あ、うん、そうするよ。」
そういって遠慮なく手でかぶりつき始めた。
見る気はなかったのだけれど、思わず自分の作ったポテトサラダを口元に運びつつ、仁村のほうを注視してしまった。
仁村はこの上なく嬉しそうな顔で食べていた。
こんな、男二人して小さなこたつを囲ってただ食べるだけのクリスマスを
どうしてこうまで喜べるのだろうか不思議でならないとこちらは思っているというのに。
「ん?飯塚どうしたの?こっちばっか見てないで食べろって。
しっかしこのオードブルなかなか脂がしぶといから、胃にもたれそうー。うー。」
「仁村はさっぱりしたものが好きだもんな。でもまだ若いのに胃もたれとか言ってたら
年食ったときどれだけ薄味なものばかりにしなくちゃならないんだよ。」
ただ、何の気なしに言ったつもりだった。
言葉のやりとりの中のワンフレーズに過ぎなかったのだ。
でも、仁村は急に真剣な顔になって、今までとは違う声音で言った。
「じゃあ・・・飯塚が僕のために作ってよ。」
「え・・・?」
「年を食って、薄味なものを好むようになった僕に作ってよ。」
「急にどうしたんだ?」
「飯塚が言ったじゃないか、
『年食ったときどれだけ薄味なものばかりにしなくちゃならないんだよ。』って。
それって、作ってくれる気があるんだろう?だから、作って欲しいんだ。」
「そんな・・・先のことわからないだろう?さすがにお前も俺も、ここから出て行ってて、お互い家庭を持ってて、
別の人に作ってもらえるように・・・」
「いやだ!そんなの考えたくない!」
飯塚はまるでいやいやをするように頭を振る。眦からはポロリポロリと涙が溢れていた。
それは癇癪が始まって駄々をこねる子どものように見えた。思ってもみなかった展開で溜息をついた。
「仁村。酔ってるだろ?もうちょっと気を落ち着けて・・・」
「落ち着いてられるもんか!」
こちらの意図とはまるで逆効果に益々仁村はヒートアップした。
「僕は、ずっと、ずっと、ここにいたいんだ!知らないところには行きたくない!うんざりだ、そんなの・・・!
それでも飯塚は僕を追い出すの?やっぱり邪魔なんだよね?
飯塚は僕をお荷物だと思ってる。わかってるよ、それくらいずっと。
飯塚のお母さんが再婚したとき、一緒にこのアパートを出て行けばよかったって今でもずっと思ってるはずなんだ。
それでもずるずるこうやって面倒見てきたけどさすがにいやだろ!?
こうやって子どもっぽいやつにこれからも面倒見てくれって言われるなんて・・・!」
一息に言ってしまってから仁村はこたつの天板につっぷして静かに泣き始めた。
確かに昔っからよく泣く男だった。けれど今日のはヒステリーといっても過言ではない癇癪っぷりだった。
酒の効果もあるのだろうけれど、切羽詰っている『何か』がそうさせたに違いない。
そうでなければ、仁村がこんなにも我を失うとは考えにくかった。
「仁村、落ち着け。どうしたんだ?らしくないぞ?
何かあったんならちゃんと言ってくれ。誰も、今すぐここを出てくなんて言ってないだろう?」
なるべく刺激しないように言葉を選んだつもりだったのだが、どこかが仁村に引っ掛かってしまったらしい。
仁村のうちに潜んでいた衝動に火をつけてしまっていた。
「今すぐってことは、いつか、出て行くつもりなんだな――――!」
一瞬何が起こったのかわからなかった。
今まで仁村を甘えさせてきた自覚は十分にあるのだけれど、
『隣人の幼馴染』という立場からのもので、決してそれから逸脱することはなかった。
だから、そのとき、自分が心のうちに時折それとなく感じていたチリチリとした痛みが
思ってもみないほどの大きさに膨れ上がっていたのに気付くのが遅れていた。
「もう誰も置いていかないでくれ・・・一人は、寂しすぎるんだ・・・」
仁村の体重が身の上にかかっている。
首周りには両腕が回されて、胸の上では涙で湿った頬をグリグリと押し付けられている。
自分はこたつに半分身体を突っ込んでいるので、仁村が斜めの方角から抱きついてきたということになる。
・・・いくら酒によっているからといって、悪い冗談すぎるのではないだろうか・・・?