空夢にたゆたえば
「抜けたっ!飯塚、抜けた!!!」
仁村に、それより主語が抜けているぞ、と指摘したくなったものだが、一応
「おー、すごいすごい。」
と生返事をするに留めた。
しかし、そんな棒読みの台詞でさえ仁村は満面の笑みを湛えている。
―――今日はたまたま休みで、そして丁度仁村が猫の額ほどの庭で育てている野菜を
収穫するということで、空き部屋の縁側から仁村の収穫作業を眺めていた。
大家さんはこの空き部屋を積極的に貸し出すつもりがないらしく、
庭が肥料臭く、ボコボコと穴だらけになっているにも関わらず特に注文もつけてこない。
更に、収穫物を仁村がお裾分けするたびに、きっと仁村が手間をかけた何倍もの豪勢さの
美味そうな料理にしてお裾分けしてくれるのだから、逆に気が引けるというものだが、
仁村は特にそれを気にした素振りもなく、嬉しそうにプチ園芸に励んでいる。
まったく、なんとも気楽な人たちに囲まれた環境にいるものだ、と思うのだが
それにまた感化されている自分がいることを否定するつもりはない。
「仁村ー、この蔓って食べれるっけー?」
「それってサツマイモか?ああ、食べれるよ。アクをしっかり抜いて揚げとかと一緒に甘辛く煮たらかなり美味しかったぞ。」
「ほんとか?じゃあ飯塚これ取っておくから今度作ってよ。」
そういって蔓を畝の脇にかためている。
仁村が今一生懸命引っこ抜いているのはサツマイモだ。
あまり栄養に富まない痩せた土地でもすくすくと育ち、手間がかからないという点からも
かなりお手軽に作れる立派な炭水化物である。
仁村は自由業で、更に夜型人間なので、こうして日の下で作業をすることをあまりしないため
(そのくせプチ園芸が趣味というのもなんと矛盾したものかとも言えるが)
手抜きOKなサツマイモを植えまくった結果、今、うず高く詰まれたサツマイモは
おそらく50個近いだろう。それも大振りなものも結構ある。
蔓だって油揚げと一緒に煮るにしたって全部それで処理できるとは思えない量だ。
仁村の計画性の甘さに溜息をついた。
『サツマイモふかしておいたから、おやつの時間になったら食べなさい』
ふと、今はもう、再婚して出て行ってからは久しい母の声が蘇った。
小学校に入る直前に、駆け落ちして実家と勘当されてまで結婚した夫に捨てられた母は
一人息子を連れて、転々と町から町へ移ろった最後にやってきたのがこのアパートだった。
当時母は、昼は工場のパートとして働き、夜に一旦夕飯を作りに帰ってきたら
すぐに今度は隣町にあるスナックに出て行った。
自分を産んだとき、母はまだ20歳だったので、十分その頃も若かったのだが、
一人息子を養い育てる為にそんな単一な仕事を地道に重ねるしかなかった。
そんなとき、よく手抜きでおやつを作ってくれる事があったのだが、
サツマイモをふかしただけ、ということがこの季節になると多かった。
きっと、ひと手間かけられる家庭ならば、スイートポテトなどにしてくれるだろうが
いかんせん母は忙しかったので、ただふかすだけだった。
けれどそれでもよかった。
あまり甘いものが好きだったわけでもなかったし、
中学生でおやつなんて恥かしいかぎりだったけれど、それでも素直に美味しいと思えた。
きっと、それはおやつが出たからというわけだけだったのではない。
・・・そう、過去の感傷に浸っていると、いつのまにか仁村が縁側に座っている自分の隣に
どっこいしょ、と若者らしくない言葉を言いつつ共に座った。
足元に蔓と、多量のサツマイモが積み重なっている。
汚れてもいいようにと、擦り切れたデニムのオーバーオールを着た仁村は軍手を外しながら
横に用意しておいたお茶を手に取りずずずと音を立てて啜った
「サツマイモを見ると、飯塚のお母さんの事思い出すよ。
もう何年も前だけど、僕の顔を見るたびにこの季節はふかしたサツマイモを分けてくれたもん。」
「・・・母さんは仁村にまでサツマイモをやってたのか・・・」
「美味しかったよ。あんまり食欲がなくても無理矢理握らされたんだけどほんのりとカイロみたいにあったかくって。
それだけでこの季節は乗り切れそうな気がした・・・」
そう呟かれた声の寂しさに、もっと深く問いただしたくなったが、
俯き加減でそっと手で握っている湯のみを眺めている仁村を見ると、そのちっぽけさに、何ともいえなかった。
まだ少し、夏の暑さの余韻を思わせる陽の光が、仁村を照らす。
その光で、明るい茶に映る仁村の髪に、無意識に手が伸びていた。
「・・・飯塚・・・」
「うち母さんは、再婚する時、俺の心配よりも仁村の心配をしてたんだ。
自炊できない、掃除できない、そもそも人と馴れ合えない仁村が、どうやって一人で暮らしていけるんだ、って。
でも、そうやってサツマイモを掘れる様になったっていったら、きっと母さんも安心するかもしれないな。」
頭を撫でながら言うと、仁村は自分のほうを見上げて、はにかむように微笑んだ。
「飯塚のお母さんに認められるようになったら嬉しいな。
次にこっちに来るときがあったらいいのになあ・・・」
母は丁度自分と仁村が高3の受験期真っ只中に再婚した。
相手は10歳以上も年下の男で、母の働いていたスナックに熱心に通い口説き落としたのがきっかけだったそうだ。
自分というもう成年も近い息子がいる女を、
まだ20代でいくらでも若い人が相手にいるだろう男が追いかけてはいけないと、
そう何度もことある毎に母は諭したらしいのだが、恋は盲目というベタな文句もあるように、その男は諦めなかった。
そんな中、母は再婚の二文字がちらついたことは一度もなかったという。
けれども、結局はそうなってしまった理由は、二人の間に思いがけなくして子どもができたからである。
当初、母は長年母子家庭でやってきた経験があるので、今更子どもがもう一人増えても
別段構わないと、相手のことを思って再婚だけは避けようとしていたが、
様々な状況を鑑みて、一緒になったほうが子どものためにも一緒になったほうがいいと
相手の男や他の周りの人たちにも言われて、ようやく母は身重も身重の臨月間近で再婚を決意した。
そこで荷物になったのは、自分という実の息子の存在ではなくて、
本当のところなら縁もゆかりもないはずの隣人の高校生・仁村圭一その人だった。
そして家事できないどころか人間としての生活水準すら満たしていないかもしれない仁村の破綻ぷりを
瀬戸際で食い止めていたのが、母だった。
『あの子見てると行動遅いし普通の人が出来る事ができないしでイライラするのよね。
でも憎めないし簡単に怒れないの。
そのうえ代わりに、何故か他人の家の掃除とかやっちゃってるのよね。』
といっていた。そしてそれは今現在の己にそのまま当てはまっている。
親子二代に渡って仁村を放っておけないのだ。
本人が助けてくれとSOSを発信する事はその実殆どあることではないのだが、
どうやらおせっかいかきの人間にとっては見ているだけで何かしてあげたくなる
危うい何かが仁村から発せられているとしか考えられない。
じいっと、仁村を眺め回していたのか、仁村が不思議そうにこちらを見ていた。
「時々、飯塚って、考え事する時あるけどさ、そのときは決まって、じっと何かを眺めてるんだ。すごく熱心にね。
それ、癖になってるんだよ。もしかして、気付いてなかった?」
「・・・気付いてなかった、と思う。今だって、仁村を見ていたくて見てたわけじゃないし。」
「ふうん、そっか。」
この受け答えのどこに満足したのか皆目分からなかったが、とりあえず仁村はそれで納得したらしい。
そのまま二人、縁側でぼおっとしていると、突然背後の空き部屋のドアが開いた。
「あいっかわらずあんたら仲ええんやねえ。・・・もしかしてお邪魔やった?」
そういってズカズカ入ってきたのは妙齢の美女で下町のボロアパートの大家・大内由香里さんである。
振り返ってみてみると、相変わらず殆ど化粧をしていないらしいのに
信じられないくらいに瑞々しい上に、若い女の子にはどうやったって手に入れられない
大人の女性の艶っぽさが容貌に表れている。
しかし、この大家さんの性格はそれを一瞬で瓦解させる破壊力を持つものなのであるが。
「・・・お邪魔も何も、ここは大家さんの管理しているところなんですから勝手に入ってきてくださっても構いませんよ。」
「あらー、そういう模範解答はいらんねんえ飯塚君。じゃあ仁村君からしたら、お邪魔やった?」
大家さんは矛先を仁村に変えた。仁村は、全く上の空のような素振りを見せていたのにちゃんと返事をした。
「お邪魔じゃないですよー。丁度大内さんに今日採れたサツマイモを差し上げようかって二人で話してたところだし。」
「まあ!ほんまに?いややわー嬉しいやんかー。」
そういって大家さんは早速縁側から下りて軍手を装着して山盛りになっているサツマイモの品定めをしている。
「うわ、このサツマイモえらいごっついけど、隣についてるのんは細っこいなあー。
結構栄養偏って育ってもうたみたいやなあ。」
ぶつぶついいながらもものすごいスピードで裁いていく姿はさすが主婦の鑑か、見ているだけでも手際よいとわかる。
その様子を黙って縁側から二人で見ていたのだが、ふと大家さんは手を止めて、
あるときたまに浮かべる、慈母とも見紛う表情でこちらに顔を向けた。
「ありがとうな、お二人さん。お陰で家計が助かったわ。
ほんま、こういう生活って、結構あるようでないもんや。大事にせなあかんね。」
「そうですね。・・・いつまでも、続けばいいと思うんですけど・・・」
仁村は、突然そう言った。
その横顔はいつの間にか茜色に染まり始めた夕日を浴びて、持て余すぐらいの熱を孕んでいるかのようだった。
―――あまりにも、二人のその言葉は寂しくて、そしてどうしようもない不安がちらりと顔を覗かせていた