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空音吐く頃

人が本当に驚く時は、声もひょっとしたら息すらもできないものかもしれない。

「に、むら・・・?」

多分はっきりと声に出して言えていた自信はない。

ただ、自分の内ではそう呼び掛けていた。つもりだったのだ。

暗がりで、目の前にいるのはズボンだけ着付けた上半身裸の男が一人、

仕事で疲れて引き上げてたどり着いた自室でゴロリと転がっていた。

急いで電灯から垂れ下がっている紐をひっぱって明かりをつけてみると、

その生白い裸体に大小さまざまの、無数の傷が走っている。傍には血のついたポロシャツが無造作に放置されていた。

見ている光景が嘘ではないことをようやく思い知るやいなや、すぐさま傍らに膝をつき

傷に手が触れないようにしながらも身体をゆすった。

「仁村!何があったんだ!!仁村!!」

「・・・・・ん・・・・」

一瞬だけ口から言葉ともいえない呻く吐息が漏れてきた。すかさず腰を深く折って口元に耳を寄せた。

「・・・い、いいづか・・・?」

「ああ、俺だ。何があったんだ?!」

「・・・転んだ・・・」

「・・・転んだ?何処で!?」

「そこの・・・階段。」

そういってのろのろと腕を持ち上げて指し示したのは玄関のドアの向こう側。

仁村と自分の部屋は安普請のボロアパートの2階にいるたった二人だけの居住者である。

因みに1階も今空き家がちらほらと目立っていて、仁村は大家の了解を得て

空き部屋の物干し場として利用されていた猫の額ほどの庭で園芸や野菜の栽培を嗜んでいる。

そしてどうやら、仁村は盛大に階段の上から転げ落ちたらしい。

確かに仁村は子どもっぽくて、自活能力の乏しさには呆れを通り越して諦めすら覚えさせるほどではあるものの

こうやって階段からすっ転んで立ち上がれないほどのダメージを受けるほど間が抜けているとは思えなかった。

しかし、なんとなく、そんな呆れた事態を起こさせた原因はわかっていた。

ぷん、と香ってくる酒の匂いが、仁村から漂ってきていたからだった。

「仁村・・・飲めないくせに、酒を呑んで目が回ったか?」

「・・・多分。」

「だから落ちたんだよ・・・それで、どっか痛いところはないか?」

「・・・・・・全部痛い。」

「じゃなくて、特に痛いところだよ。骨がやられてたら即行で救急に行くぞ。

そうじゃなくても、頭でも打ってたら厄介だから明日は病院だ。」

病院、という単語聞いて、仁村は途端正気に戻ったようにぶんぶんと頭を振った。

「いやだ、病院!病院なんか俺は行かない!行かないぞ!」

「何言ってるんだ!!もしお前二度と立ち上がれなくなったらどうするんだ!?」

「いやだ!でも、病院も嫌なんだよ!!!!」

本当に嫌だったらしく、さめざめ泣き始めた。

半裸で無数に細かい傷が全身につきながら臥せっているいい年した男が号泣である。

なんだか押し問答をしている事自体にあほらしさまで浮かんできた。

はぁ、と一つ溜息を吐いて立ち上がって、押入れのふすまを開けて中から救急箱を取り出した。

仁村が己の部屋に戻らず、こっちのほうでぶっ倒れてたかというと

救急箱を持っていないからだ。代わりにこっちだと何でも揃っている、という考えがあったらしい。

1階まで転げ落ちたのなら大家さんを頼れば大して動かずに済んだのに・・・と思ったが

己は、仁村に頼られる、というところにどこかやはり優越感を感じているらしい。

だから、こんな状況が本当のところは、嬉しいのかもしれなかった。

そんなとき、コンコン、とドアがノックされた。

安普請のボロアパートは勿論の事防音設備は不十分極まりなくそれは部屋にこれでもかというぐらいによく響いた。

自分はこんな時に誰だよ・・・と思いながら、声をかけた。

「どなたですか?」

誰何に返信はなく、代わりにドターンという派手な音で扉が開いた。

何者か!?と身構えた所でその思わぬ闖入者は玄関から内に向かってデカい声で叫んだ。

「あー、やっぱし仁村君はそこにおったんか。ほんま仲ええんやね、あんたら。」

ほかほかと湯気の立つ食器を抱えながらやって来たのは、丁度タイミングがいいといえば、いいと思われる女性だった。

「・・・大家さん。仁村がそこの階段から落ちたんですよ。」

大家さんは、奥でぶったおれつつも泣きじゃくっている仁村を初めて発見したらしく

驚いた表情で見つめて、家主の了解も得ずに家の中にあがってきた。

「そら大変やわな。ちょいと、怪我見せてみ?」


大家さんは大内由香里、という名の女性でこのアパートの1階に住んでいる。

この関西とは縁の少ない土地でバリバリの関西弁を操り、

近所の主婦の方々との井戸端会議で常に先陣をゆくマシンガントークを炸裂させるまさに主婦の鑑といえる人物である。

主婦というからに、若い頃に結婚した旦那さんがいるのだが、

旦那さんは大手外資系会社勤務の転勤族サラリーマンで、

単身赴任で全国のみならず海外も股にかけていて、

このアパートに10年も住んでいるが見たこととがない。非常に謎めいた人物である。

そんな大家さんには、何よりも人を驚かせるものを一つ持っていた。

こんな下町のボロアパートのしがない大家であるにもかかわらず、

そこらへんのミセス向けファッション誌のどの専属モデルよりも見栄えする、強烈な美貌を持っていることだった。

「酒を飲んでも呑まれるな、ゆう格言知らんか、仁村君。

そんな風に階段から落ちてもうたら、ひょっとしたら打ち所悪うて死んでたかもしれへんえ?

ほんまこれくらいな怪我でよかったわ。」

年齢不詳・超絶美貌の大家さんは、ひょっとしたら若い関西人なら使わなさそうな

コッテコテの関西弁を繰り出しながらへたりこんでいる仁村に声をかけている。

固く絞られた濡れタオルで、特に血のにじんでいる背中を丁寧に拭われている仁村はうつ伏せになりながら口を閉ざしている。

「今日はまだ飯塚君が仕事から帰ってくんのが早かったしええけれど・・・

もしこの部屋で意識失ってて仕事が遅うなった飯塚君が見つけんの遅れてたらどうすんねや?

うちは1階おったんやからいつでも言うてきてくれたらそれで良かったのに。」

仁村は涙声で答えた。

「でも・・・今日は嫌な事があったんです・・・だから・・・」

仁村は今日は涙腺が崩壊しているらしく、ワナワナと震える口を閉じてもまだポロポロと瞳から涙を零していた。

大家さんは、

『男がそんなにウジウジしとったら気色悪いわ!!』

といつもならいいそうなのだが、今日ばかりはその美貌の効力を最大限に引き出すような

慈母に満ちた笑顔で優しく仁村を見つめている。

絆創膏を少し酷そうな怪我に当てていた大家さんは、そっとタオルで涙で濡れている目元を拭ってやった。

「うちも嫌な事あったら下戸やねんけど大酒飲みたなる時あるわ。

旦那もな、勤め人やさかいようそんなことあるみたいでな、そういう時さりげなくうちに言うてくれるんや。

『飲みたいときは飲んでもいい。

でも、そんな風にお酒で潰れていく自分を見て心配する人がいる事を忘れるな。』

あの人は下戸中の下戸で殆ど酒飲めへんいうのにいっちょ前に言うないうとこやけどな。」

ガハハと大家さんは美貌に似つかわしくない声で笑った。

それよりも、旦那さんのセリフが完璧な標準語で話せているにも拘らず

普段を関西弁で貫き通している大家さんの意図はやはりよくわからない。

しかし、どうでもいいことに頓着しているのは己だけだったようで、仁村はこくんと素直に頷いていた。

それを見て大家さんは満面の笑みを浮かべて、やり取りを眺めていたこちらの方を向いて

「ああ、飯塚君、お箸と受け皿用意してくれへんか?

忘れとったけど差し入れ持ってきたんや。冷めへんうちに食べなな。」

「え、あ、はい。」


大家さんが持ってきたのは生姜のよく利いた蛸飯と、鯛と牛蒡の煮付けだった。

相変わらず味は関西人好みの薄口しょうゆ使用の濃いめではあるが、

それがよく食材に合っていて箸がよく進んだ。大家さんはこちらを見て笑った。

「飯塚君、ほんまようガツガツ食べるなあ。欠食児童やあらへんねんからそないに急いで食べへんでもええやんか。」

「仕事終わりからこのかた何も食べてないですから・・・」

「忙しそうやね、仕事。ちゃんと食べてるか?」

「ええ。自炊はそれなりにしてますし。」

大家さんはその答えを聞いて満足したはずなのだが、溜息を吐いた。

「まああんたは昔から要領ええし器用な子やったからなあ・・・」

そういいながらぐるりと1Kの部屋を見回した。殆ど寝に来るだけの部屋には

テレビとテレビ台と、小さめの文机と今料理を御馳走になっているちゃぶ台に、

デスクトップ型のパソコンに固定電話以外に目ぼしい家具や電化製品は見当たらない。

押入れに布団やそれなりに本やら服やらを入れてはいるものの、それが必要以上に増える事がないから

部屋はいつも殺風景である。

ただし、仁村の面倒を見ているせいか、異様に台所だけは道具や家電が充実しているが。

大家さんは暫く部屋を眺めた後、細々と料理に箸をつけている仁村の方を向いて尋ねた。

「あんたと違て、仁村君はほんまに、自活能力ゆうもんがないし、部屋の崩壊具合も見事なもんやわ。

仁村君、あんたは飯塚君におんぶに抱っこやけれど、飯塚君がもし嫁さんでももろたら、どないする気や?」

いきなりの質問で、むしろこちらが口の中のものを噴きそうになったが

仁村は箸の動きを一瞬止めて、ポソっと呟くだけに止めていた。

「・・・わからない。」

大家さんは頬杖をつきながらその答えに当然の如く満足していなかったらしいので

くどくどといい始めた。

「まあわからんやろな、あんたは。仁村君、あんたは飯塚君に依存しきっとる。意識的にしろ無意識的にしろ。

考えられへんねやろ、あんたの傍から飯塚君がおらへんようになった時。

でもいつかは来んねんえ、そういう時っちゅーのは。

もしかしたら明日かもしれへんえ、この部屋にフリッフリのエプロンつけた

かわいらしい女の子が、旦那のために夕飯つくりながら台所立ってるゆうことが。」

フリッフリのエプロン=新妻という図式の古さに若干大家さんの実年齢を疑うが

やはりそんな細かい事に頓着していないらしい仁村は、

十分に汁気を吸い込んだ柔らかい鯛に箸をつけていた手をとめて言った。

「大内さん・・・これ、明石で獲れたものでしょう?旦那さん、兵庫にでも行かれてたんですか?」

何を言っているのか一瞬わからなかったが、どうやら今日の食材である蛸と鯛が、

兵庫県の明石産だということを指しているらしく、なんともいきなりの話題転換に大家さんともどもフリーズしてしまった。

「え、・・・え、まあ、これ明石のやつやし、旦那は仕事で兵庫まで出かけとったから、その土産やけど・・・」

と、いつもは明快な大家さんがしどろもどろになって答えていた。仁村はポソリと呟くように付け加えた。

「飯塚にそのいつかは来るかもしれないけれど、きっと僕の『いつか』の方が早い。

だから僕はきっと、大内さんの旦那さんみたいな人に、憧れているだけなんです・・・」

仁村の言い分はどういう意味か皆目不明である。

けれど、十分大家さんはそれでわかったらしく、ほんの少し目を見開いて一瞬の後、目を伏せて

「そうか・・・」

と言うだけに留まった。

なんともいえない澱の様な沈黙が部屋に落ちた。


そのとき、自分は何も気付いていなかった。

些細ではあったがどうして、長年、仁村は大家さんの事を『大内さん』と呼び続けていて

そして、わざわざ、蛸と鯛の産地と旦那さんの行き先を聞いていたかということを。



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