空なる恋の果て
「たかが血筋の仁村君は、巻き込まれてしまうんだ。本人がどれほどその血を忌み嫌っていても。」
今までそういった事態に翻弄され続けて来た薫さんの言葉は重かった。
どこまでも執着して追い回し続ける闇の存在が、必死に表の光のあたるところへ出ようとしている彼らを
水中に引き摺りこむようにもがき苦しませている。
一見、へらへらと生きてきている仁村が、その真っ只中にいるとは思いもよらなかった。
そして思いもよらなかった自分に、心底辟易した。
「薫さん…俺は、でも、そんなに血がどうたらって意識したことはないです。
飯塚親子や大内さんに出会うまでずっと一人だったし、出会ってからは彼らに囲まれた生活だったから、
幸いなことにそんなに苦しめられたことはなかった。
それはほんとうに、俺にとっては僥倖だったと思います。」
仁村がぽつりとつぶやいた。普段を知っている人間からすると、驚くほど感情が見えない声音だった。
らしからぬ態度に、薫さんが反論した。
「でも、由香里は何度かこのアパートで黒服の人間を見た、って言ってるし、
さっきの澄川征彦も君のことを観察させているような口ぶりをしていた…
俺は正直言って、これ以上君が苦しめられるのを見たくない。君の幸いは、もっと別なところにあると思ってる。だから…」
「でも、俺の居場所はここしかないです。今も昔もこれからも。」
「そんな…」
薫さんはそれきり黙りこくった。何も言えない風だった。
そのとき、突然ぴろりろりん、と薫さんの携帯が鳴った。
「もしもし!……はい、はい。えっ……わかりました、今すぐ向かいます。」
何やら緊迫した様子だった。それからぱちんと携帯を折りたたむと
よりいっそう険しい表情を浮かべながら薫さんは口を開いた。
「どうも、由香里の不正出血が止まらないらしいんだ…
もしかしたら母体を守るために子どもを…っていうこともあるかもしれないらしい。」
「そんな、急に…!」
「俺と仁村はどうすればいいですか?!」
「時間も時間だし、御家族だけいらっしゃってくださいってことだから、君らは休んでてくれ。
何かあったらすぐに連絡する。すまないが、アパートの管理よろしく頼む。」
言うだけ言って薫さんは足早に仁村の部屋を出て行った。一刻も早く、大内さんの元へ向かうための焦燥を色濃く残して。
「大内さんが、危ないなんて…嘘だろ。」
茫然とただならぬ事態の成り行きを見ていた仁村がぽつりと呟いた。信じたくない気持ちは一緒だった。
あまりにもいろんなことが起こりすぎた一日だった。
……そうして取り残されたのは、いつもと様子が違う仁村と、それを掴みあぐねている自分二人だった。
しん、と静まり返った部屋で二人で、しばらく何も言葉を交わすこと無くじっと座ったままだった。
雑然と物がひっくりかえっている仁村の汚部屋だったが、行き場のない視線を彷徨わせるには丁度良かった。
そうでもしないと、取りとめもない考えが奔流のように頭の中でうねるのに耐えられそうにもなかったからだ。
…昨日までは何もかもが平凡の只中だった。
それが、薫さんにそっくりの亨君という男の子が訪ねてきたことで一変する。
結局亨君が何を目的に薫さんと大家さんの元にやってきたかを語ることはなかったが、
たぶん、一目でも二人の何かを確かめたかったんだろうと言う想いがあったのは間違いない気がした。
その何かはなんなのかはわからない。目に見える血を分けた繋がりかもしれないし、目に見えない繋がりかもしれない。
ただ、どうしても来てはいけないと言われていてもそれに抗ってしまえるほど惹かれたのだろう。
でなければ、既に養子に引き取られていて、既に『澄川』姓であるはずの亨君が
『大内』姓を名乗って二人との関係性を匂わせるリスクを背負ってまで探しに来る必要はなかったはずだ。
そうしてやってきた亨君を一目見て、大家さんは文字通り倒れてしまった。思いもかけないことだったからだ。
その間にも、亨君の居場所を嗅ぎつけた澄川は亨君を連れ戻しにわざわざ自ら直参している。
そして、仁村との関係性を暴露していったのだ。
色んな爪痕を残して、大地を根こそぎこそげとるかのようにして。
一方的に被害だけを受けた上で、このぽつりとした空間にじっとしたまま残っている仁村と自分がとても弱弱しい生き物でしかないような気さえする中、
ようやくぽつりと仁村が言葉を漏らした。
「…大内さん、大丈夫だったかな…まだ、あと2ヶ月以上予定日まであったよね?」
「ああ…高齢出産だからかなりリスクが高いっていう話も聞いてたし、大変かもしれないな。」
「今度こそは大内さんたちは幸せを掴んでくれるといいのにな…
あの二人は絶対に子どもを大事に育ててくれる人たちなのに、なんで、今まで運に見放されてきたのか不思議だよ…」
仁村の意見にはにべもなく同意できるものだ。
途方もなく長い間、二人が今まで築き上げてきてようやく一つの実を結ぼうとしている中、余計なことで引っ掻き回されるようなことはあってはならない。
なのに、なおも二人は運命に翻弄されているかのようだった。
それは、大内夫妻だけのことではなく、仁村にも勿論当てはまることだった。
「…なあ、飯塚。俺はずっと色んなものに見放されてきたんだ。
俺の母親は、澄川征彦が昔囲っていた愛人とのあいだにできた娘だった。
その頃丁度澄川は大内さんの母親である本妻と結婚した時期で、おいそれと認知を申し出ることもできず、
それ以後ずっと長年見放されていたんだ。
澄川の援助はまったくなく、母子家庭でそれはそれは貧乏な生活だったらしいんだ。
…そんな経済状態だと、どうにかしてお金を稼ぐために、学の無い若い娘がどういう職業を選ぶか、わかるだろう?」
冷ややかな声音だった。唐突に自分の生い立ちを語っているにしては、仁村はあまりに客観的すぎた。
感情豊かな今までの仁村とは違う姿に、違和感ばかりが募っていく。
「…水商売、か?」
「そう。その通り。てっとり早くお金を稼ぐために水商売の世界に身を落としたんだ。
まだ20歳になるかならないか、って頃だったらしいけど、そこに上客として黒川が目を付けたんだ。
さすがに、俺の母親が澄川の娘だと知って近づいたわけではないらしかったそうだけどね…」
「それで、仁村が生まれた、と。」
「うん。だけどやっぱり澄川がそうだったように、黒川も本妻を迎えたばっかりの頃で俺と俺の母親を受け入れることはできなかったんだ。
さすがに認知ぐらいは、と申し出てくれたとは聞いてるけれど、
何故か俺の母親はそれを断ったんだ。
たぶん、自分の父親である澄川と黒川の対立の火種を生まないようにしてくれたんだと思う。
それから俺の母親はなんとか食いぶちを稼ぐためにホステスの仕事をしてたらしいけど、
夜の世界はなにかと厳しい上に、産後すぐに無理を通して働いたからか、体調を徐々に壊していった。
お陰で、俺が4つの頃には寝たきりになって、1年で亡くなった。
それからしばらく、俺は母方の祖母に面倒を見てもらっていたけど、その祖母も身体の調子があんまりよくなくて、
手のかかる子どもを育てることは難しいから施設に入れられることになったんだ。」
「…それで、澄川が目をつけてきた、のか。」
暗がりの中、ほんとうにやるせなさそうな瞳だけが浮かび上がる中、こくりと仁村は頷いた。
「うん。どこで聞きつけて来たのか知らないけれど、ちょうど俺が明日施設に行くっていうときに、今と変わらない相貌の澄川はやってきたんだ。
『圭一君か?私は澄川征彦いうもんや。君の、じいさんに当たる人間や。』
今でも覚えてるよ、あのひとの言ったこと…」
「でも、さっきも言ってたように、仁村はそのまま澄川のもとには行かなかったんだろ?」
「…当時すでに赤ん坊の亨君を澄川は引き取ってたから、俺まで引き取ることはできなかったんだろうと思う。
正妻との間の娘の子、つまり直系の孫である亨君は、跡目相続に一番しっくりくる人選だからね…
そこに、長年の隠し子の子、つまり傍系の孫である俺が出てったら、むしろ誰かがそれを利用して澄川家を混乱の渦に巻き込むかもしれない。
だから、唾だけ付けて、俺のことは引き取らなかったんだろうと思う。
その結果、施設にも預けずに、自分の目の届く範囲に俺を引き留めておくために利用したのが…
大内さんだった。」
「利用…?」
想像以上に剣呑な発言だ。大家さんを利用することなど、何になるのだろうか…
「赤ん坊だった亨君をとられた大内さんは、俺を押し付けられたんだ。
絶対に代わりになりっこないのにね…」
「…仁村がここに来たのはそういう理由だったのか…」
積年の謎がようやく氷解したかのようだった。
実際、仁村の保護者の影がまったくわからなかった。
よもや、大家さんがその保護者に当たり、さらには血縁でもあるとは夢にも思わなかったのだったが。
「金銭的な援助は、さすがに大内さんに求めることはなかったけど…
でも、俺にはそれすら嫌だった。澄川からの援助で生かされてる自分がみじめで仕方なかった。
このしがらみから脱したかった。
でも経済力の無い俺にはそれが叶わぬ夢だってことは重々わかってた。
だから俺には澄川に対抗できない。少しずつ自分の足で動き始めたと思ったけれど、
自分が受けて来た恩恵に比べると、思っているよりもずっと、遠いものなんだ…」
そういって天を仰いで顔を手で覆った。苦しそうな声音が胸に響く。
滅多に弱音と泣きごとを言わない仁村が、ここまで打ちのめされていたとは思ってもみなかった。
とはいえ、今までにいくつかその片鱗が見えてたはずなのに察する糸口すら自分がつかめていなかった。
自分が、愚かしくてたまらなかった。
そして、仁村の弱弱しさを見ていると、今にも消えそうな、手を伸ばしても届かないどこかに行ってしまいそうな気配がした。
無心に、どうしても引き留めたかった。
虫のいい話で、自分の独りよがりかもしれなかったけれどただひたすら自分の前から仁村の気配がなくなることが怖くなった。
「仁村……自分を責めないでくれ。何が全部悪いなんて、そんなこと、ない。」
ぐいっと肩を掴んでこちらを振り向かせる。
一瞬驚いた風な仁村は、顔に張り付かせていた手をはずしてこちらを見た。
目から頬にかけて涙の這ったあとが見て取れた。
「…!」
その瞬間、カッと頭に血が上った。
思考回路はめちゃくちゃで、何が何と言えるようなものじゃなかった。
けどはっきりと一つだけ形になったものはあった。
それは、仁村が泣くような状態に対して、何もできない自分に猛烈な怒りだった。
ぐいっと、仁村の肩から手を滑らして二の腕を掴む。
そのまま勢いに任せて、仁村を引き寄せた。
「い、飯塚…?!」
胸の中に仁村をどこへも行かせないために閉じ込めるようにして抱きしめる。
自分よりも少し細身な仁村は思っていた以上にしっくりとそこに収まったことに、
得も言われぬ充足感に包みこまれる。
「く、苦しいよ、飯塚…一体、どうかしたの…?」
「なんで、ずっと溜めこんでたんだ?一人で、何もなかったようにふるまってたんだ?
話したら巻き込んでしまうとでも思ってたのか?迷惑掛けるとでも思ってたのか?
どうして置いていかないでほしいと泣いたくせに、傍に留まり続けてもらう努力をしないんだ?
どうして…どうして、頼ってくれないんだ…?」
我ながら泣言めいた女々しい発言だなと心の中で自覚していた。
でも、そこまで切羽詰まってなりふり構っていられない自分自身に対して嘲笑うほどの余裕は持ち合わせていなかった。
その様子を暫く見ていた仁村は、はぁ、と小さくため息をついた。
「頼るって…飯塚はまっとうな人生歩んでほしいんだ。堅気がこっちの世界に関わったらダメなんだ…
大内さんと薫さんだって、こっちの世界にいたくないから二人で逃げ出したはずなのに、
結局は無理だったんだ。一回絡め取られたらどこまでも引きずりおろしてくる蟻地獄みたいなもんだよ。
だから…関わって欲しくなかった。」
「でも、仁村も早く抜け出したいと思ってるんだろう?置いて行かれたくないんだろう?
建前はこの際どうでもいいんだ。…本音が聞きたいんだ。本当のことを言って欲しいんだ…!」
腕の中で小さく仁村が身じろぐ。そして、ぐるぐると視線を彷徨わせてから、ようやく観念したように、細く長い息をついてから口を開けた。
「…飯塚はもう知ってるだろ?俺が思ってることなんて、全部わかりきってるくせに聞いてくるんだ…
ずるいよ…だから、嫌になるんだ、甘えた自分が…」
そういってまたぽろぽろと仁村のまなじりからぽろぽろと涙が零れ落ちて来た。
今日は本当によく泣くな、と思って、そっと指の腹でぬぐってやる。
すると、へへへ、といつものような、それでいて今はどこか遠いところに行ってしまったような人をみるような気持を抱かせる仁村の笑顔が見て取れた。
「やっぱり飯塚は優しすぎるよ…だから、居心地が良すぎてずるずると俺は逃げられなくなっちゃうんだ。」
「じゃあ逃げなけりゃいいんだ。自分の思うままにすればいい。
…仁村の望みは、俺の望みだってことぐらい、知ってるんだろう…?」
「うん、なんとなく、だけどね…」
「それでも、仁村にしては上出来だ。」
そういって、胸に抱いた仁村と真正面から向き合ってごつん、と額と額を合わせた。
子供のように無邪気な仁村の瞳を覗く。
極道の血を引いていて、なおかつその張り巡らされたしがらみに雁字搦めの人間とは到底思えない純粋さで、
ああ、変わらない、俺の知ってる仁村だ、と思った。
「逃げるなよ。絶対。だから、辛くなったら誰でもいいから頼れ。な?」
「…うん、ありがとう…」
確かにこのとき、仁村の言葉は強い口調ではなかったけれど、きっぱりとした決意を感じさせるものではあった。
そのあと、色んな出来事が一日に起きたせいか、疲れているらしい仁村がウトウトし始めたので
万年床のシーツを本人いわく半年振りくらいに取り換えた上で寝かしてやる。
その間中、ずっと握りしめたままだった手に引かれて、自分も一緒に横になって寝る。
初夏の空気にさらされて少し暑かったけれど、仁村が横にいると言う安心感の方がずっと大きくて
そのまま仁村の安らかな呼気に誘われて眠ってしまっていた。
次の日の朝、忽然と仁村の姿が消えていることに気づくまで。




