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いつもあなたは空寝ばかり

いましがた開いた部屋は、当たり前だが、あの汚部屋だ。家主は勿論、仁村。

たまにやってくる編集者以外にここを出入りするのは、このアパート関係者ぐらいのものだ。

そこからぬっと顔を出した黒のスーツを来た厳つい男は、あまりにも不自然極まりなかった。

今までにない事態に、薫さんともども面食らう。

が、先に正気を取り戻したらしい薫さんが食ってかかって行った。

「…なぜ、ここにいる。何の用があって、ここへ来たんだ!」

「久しぶりやのに、つれないですね、大内さん。いきなり恫喝することないでしょう?」

見た目のごつごつとした巨漢っぷりと、怜悧な雰囲気とはうらはらに、こてこての関西弁だ。

もしかしてもしかしなくても、これが大家さんの実家の関係者だと言うことは容易に想像させられた。

相手の柔和な態度に対して、相変わらず威嚇したままの薫さんは続けた。

「いきなりの訪問はそっちのほうだろうが!…ここは仁村君の部屋だ。来るところを間違えてる。

亨を迎えに来たのなら、ここへは寄らないだろ!?」

怒気を強めた薫さんが、今にも巨漢の首に掴みかからんとしたまさにそのとき、奥から

男の声がした。

「何を玄関で騒いでるんや。辰巳、御近所迷惑になったらいかんと、何度口酸っぱく言うてきた?」

「へえ!申し訳ありません!」

急に巨漢がかしこまる。典雅な空気すら醸す伸びやかな関西弁の男の声に、さしたる緊迫した感は覚えないが、

薫さんも覿面に黙りこくる。どうしたんだろうと思っていた時、巨漢がすっと玄関先から中へと身体をひいた。

そして、代わりに現れた男は、ロマンスグレーの髪色が鮮やかな、浅黄色の着流しを気付けた風流な50歳前後の伊達男だった。

「大内君、久しゅうしてるな。亨がこっちへ行った言うから、様子を見にこっちへ邪魔したんや。

久々に見れた顔もあるしな…ああ、その後ろの御仁は初顔やな。失礼やけれども、どちらさんで?」

「…彼は、ただのこのアパートの住人で、俺達とは何の関係もありません。

ただ、今日は由香里のことで彼には世話になったのでたまたま、一緒になっただけで…」

「大内君、そういうのを聞いてるわけやないんや。その御仁は、どなたさんやて、聞いてるだけや。」

薫さんの言質を遮ったその男は、確かに迫力があった。

見た感じには細っこく、和風の似合う紳士といった具合なのに、一般人には叶わない気迫を兼ね備えている。

見た目の明るさとは反対に、どことなく流れてくる匂いは、明らかに、地下社会の薄暗いものだった。

「私は、このアパートに住んでいる、飯塚と申します。薫さんと由香里さんには、いつも御世話になってます。」

「…その口ぶりやと、私の素性も存じてらっしゃるようやな。

察しの通り、由香里の父親の、澄川征彦いう者です。今後ともどうぞおみしりおきを。」

そういって手を差し出される。握っていいものかどうか悩んだが、本物の極道相手に隙を見せるのは危ないと思って握手に応じた。

「さて、と。立ち話もなんやし、中はいって話さんか?おーい、圭一君、大内君と飯塚君が来たんやけれど、入れてもよろしいか?」

「…いいです。」

小さな声だったが仁村の声が聞こえる。なんとか、無事だと言うことが分かって安堵のため息が出た。

しかし、そのままずんずんと人の部屋中に我が物顔で入って行く澄川は、やはり並の人間にはない力を感じさせられる。

一見すると、人の上に立つと言うよりは、厭世的で俗世からかけ離れたところで暮らすような世間離れした人なのに、

本質的には、統率し、取り仕切ることができる希有な人間のようらしい。

やがて汚部屋の中心で縮こまるようにして座っている亨君と、正座で下を俯いたままの仁村が目に入った。

二人とも、何が起こったのかまではわからないが、ほんとうに心底落ち込んでいるとしか思えない格好だ。

そんな二人と対照的ににこにこと上機嫌の澄川は、悠々と胡坐を掻いて、

自ら縁の欠けた湯呑に茶を注いで飲んでいる。

ますますもって、何があったか把握しようにもできない状況だった。

同じく何が起こったかわからないといった風な薫さんが、緊張した面持ちで問いかけた。

「…澄川さん、二人と何を話されたんですか?」

「ん?取りとめのないことだけや。亨には、なんで黙ってこっちへ一人で来たんやいうこととか、

由香里の様子はどないやったか、とか。

圭一君には、最近の仕事の調子はどうやとか、ここでの暮らしに不自由ないかとか、

もうそろそろ由貴子の17回忌やってこととか。他愛ないことだけや。そんなたいそなことは言うてへん。」

「あなたにとって大層じゃなくても、二人が心の重荷に思えば大変なことじゃないのですか?」

「日常会話で重荷?そら、二人のメンタル面が弱いとしかいいようないんちゃうか?

ほんまの世間話にチョロっと髭生やした程度のもんやろう?

亨がしょげるのは、勝手に家出したのを咎められたからや。しょげてもそれは自業自得。

圭一君にいたったら、久しぶりに会うたら誰もが口に出す話題なだけで、

なんもキツいことは一言も言うてへん。」

澄川は、ほんとうに心当たりがないと言った風に、大仰に首を振っている。

しかし、仁村のウィークポイントは、まさに自身の家族についてのことだ。

どんなに宥めすかして存在を聞いても、かたくなに話さないほどだ。

どう考えても、仁村が苦手としている話題をわざと仕向けているとしか言いようがない。

そして、呟かれた『由貴子』という名前。

10年以上、仁村とは隣同士で生活し、そんじょそこらの家政婦よりも有能に働いてるこの自分ですら

一度も聞いたことがない仁村に関係するその女性の名前を

なぜ、縁のない大家さんの父親が知っているのか。

第一、圭一君と親しげに名前で呼んでいる関係性も解せない。

わからないことだらけだった。

ますます顔の陰影が濃くなっていく薫さんをよそに、いたって気分を害していない澄川はくるりとこちらに向いて言った。

「それよか、そこの飯塚君のことが聞きたいわ。

初めてお会いする人やけれど、圭一君と由香里がよう世話になってるいうから、他人には思えへん。

こんな機会やさかい、色々話してもろていいか?」

「話、ですか?たとえば」

「いやな、自分のこと話すの嫌やったら言わんでも構いしません。

むしろ、私に聞きたいことでもありましたらどんどん聞いてほしい、思てね。

何しろ、こんな爺さんが突然現れたからに、わからんことがようさんあらはるやろ。」

「わからない、こと、ですか。

…どうして、仁村のことを下の名前で呼ぶんですか?お知り合いだったりするんですか?」

「ええ質問やね、それは。」

うんうん、と頷きながら澄川は湯呑の茶をすすって一拍置いた。

「…圭一君は、私の初孫やね。

さっき言うてた由貴子はいうんは、まだ私が若かった頃に素人さんに手出してしもた時出来た娘でね…

そのあとに結婚した妻とのあいだに由香里が出来たから、圭一君と由香里は甥と叔母の関係や。」

「え…?」

予想だにしていなかった事実だ。まさか、仁村と大家さんが血のつながった関係だったとは思いもよらなかった。

思わずとうの本人である仁村のほうを見たら、一瞬だけこちらを向いたが、すぐに目線を逸らされた。

どうも、今まで隠したことが図星だったのかもしれない。

澄川は更に続けた。

「由貴子の母親は、ほんまにええ子やって、こんなヤクザ者と結婚なんて論外やった。

だから、私が女房をもたなあかん時期が来るより前に円満に別れましょいうて別れたんやけども、

そんときに由貴子はもうお腹におってな…

それから私は今の女房と結婚して、のうのうと由貴子の母親が片親いうことで相当に苦しい生活を強いられてるとも知らずに過ごしとった。

結局初めて由貴子の存在を知ったのは、由貴子が死んだいう一報やった。

由貴子も若くして圭一君を生んで、金銭的に苦しい生活を送っとったらしいてな、圭一君は施設に入れられそうになっとったんや。

それを私が引きとろか思うたんやけども…もうその時分には亨もおったし、やれんこともなかったけど、

何かと喧しいヤクザの世界に大分その時大きいなってた圭一君を連れ込むのもどうや、いうことなって由香里に預けることにしたんや。」

二度目に知らされた事実は更なる驚きに値するものだった。

てっきり自分と同じように、遠方に保護者がいて単身アパートに住んでいるものと思っていた仁村が、

実は大家さんが保護者だったとは思いもよらなかった。

仁村と初めて出会った時、お互いに中学生で、それから段階的に高校、大学と進学したが、そのどこでも金銭的困窮に瀕した場面は見たことがなかった。

だから、余計に誰かが金銭的援助をしている=保護者が存命であると勝手に履き違えていたのかもしれない。

「でも、こうして立派に自活できてる圭一君見てたら、これで正解やったんやな思うわ。

由香里も少しは子どもを自分の手元で育てる意味がわかったやろうしな、薫君や。」

澄川はそういってギロリと鋭い眼光を薫さんに向けた。

ヤクザ者の眼光を直接受けとめる羽目になった薫さんは、しかし慣れているのか、濃い憔悴の色は見せながらも屈することはなかった。

「由香里は、仁村君の面倒はちょくちょく見てはいましたが、育ててはいません。

あくまで、仁村君は由香里にとって飯塚君と同じ『店子』の一人であって、子どもじゃありません。」

「…薫君は、さっきからちょっと人をおちょくった口利いとるなあ…ええんか、そんなこと言っとっても。」

「本当のことです。むしろ、由香里は仁村君と飯塚君のお陰でなんとか立ち直れたと言っているほどでした。

一方的に恩を売った関係じゃなく、持ちつ持たれつの丁度良い大家と店子だった。

3人ともきっとそう思っているはずです。」

「そうです、澄川さん。仁村はずっと独りで頑張ってきました。

確かに仁村はどっちかというと人に面倒をかける性の人間だと思いますが…

絶対に、独り暮らしの部屋から出ようとは思わなかった。

夜寝るときには、必ず自分の部屋に帰るんです。

少なくとも、仁村は自分が独り暮らしをして自立をしているという想いをもっていたのは間違いないんです。」

「…さよか」

堅気の部外者にまで念を押されたことに反論できなかったのか澄川は黙った。

そして、湯呑に残った茶を一息にすすると、それを机に置いて亨の腕を引っ張った。

「亨、そろそろ帰るえ。圭一君、長居して申し訳なかったな。」

「…いえ」

口数少ない仁村は、ちらと澄川を眺めただけですぐに視線を下にうつむけた。

ずんずんと、消沈した亨を引き連れる澄川の様子は決して無理矢理で強引すぎるようには見えなかったが、

しかし、有無を言わせない堅い空気がそこに流れていた。

玄関まで思わず見送りに出た薫さんと自分を前にして、こわもての辰巳と呼ばれた男がドアを開けてるのを待たせながら、

振り向いて澄川は告げた。

「長居して勘忍な、二人とも。由香里にもよろしゅう言っといて。

薫君、また由香里に子どもが生まれたらよさせてもらうわ。

飯塚君は、圭一君が世話になると思うけど、よろしゅうしてやってくれや。

…あと、圭一君、黒川のモンが難癖つけてくるかもしれへんけども、絶対に相容れたあかんで。

それと、由貴子の墓参りには行っといてな。ほな。」

堅気には有り得ない鋭い空気を纏った澄川はそういって出て行った。

あとに残されたのは、嵐で引っ掻きまわされた爪痕の残る男3人だった。


「ほんとにろくでもないだろ、ヤクザってやつは…由香里が逃げ出すのは自然なことだったとしか思えない。

特にあの人は神戸に総本部を持つ暴力団の会長だっていう自分の立場を熟知してる。

そしてそれをどう効果的に見せるかもわかってる。これ以上にない厄介な相手だ…」

そういって、溜め気をついた薫さんは仁村の家の縁が欠けた湯のみで茶をすすった。

なんと返せばいいのか分からず、手に持て余していた茶を同じくすする。

苦みがぱっと舌の上で広がる。心の中も苦み走るようなしぶとさだった。

「完全に亨を自分の子供とみなして、まったく俺に介入させる気なんてなかったろ?

ああいう振る舞いからなにから、つくづく剛腕ってやつだ…

仁村君が今まで人に知られたくなくてずっと隠してたことも、あっさりと飯塚君に喋ったのもそれだ。

人の弱みを、まるで薄皮被った古傷を、皮膚が裂けても、血が流れ出して骨が見えても延々と突きまくる。

それこそ加減てものを知らないんだ。

飯塚君のことは、多分、仁村君と仲がいい同じアパートの住人と言う事前知識はあの人も知っていたはずなんだ。

だから、敢えて知らないことどころか知らない方が良かったことまで知らせて、俺らのしがらみの中に貶めた。

つくづくやることがえげつない…」

「…でも、薫さん、遅かれ早かれ、飯塚にはきっと知るべきことだったと思うんです。

たぶん、これがちょうどよいタイミングだったんです…」

今まで部屋の隅で黙りこくっていた仁村が口を開いた。やるせないと言った風な口調が、痛ましかった。

「ここに来た時、丁度亨君のことで体調が悪かった大内さんに面倒を見てもらったとき、飯塚のお母さんにも御世話になったし…

何かと隠してる俺や大内さんに対して、飯塚と飯塚のお母さんは何も聞かないでくれた。

そのときの結果が今起こってるんだと思うんです。」

「仁村君、でも由貴子さんのことまであの人は軽々しく言い放ったんだ。

自分が見捨てた娘なのに、さぞ供養してやっているとでもいうようなそぶりだった。

…あんなことは言うべきじゃなかったんだ。それに、黒川のことでも予防線を張って行く…つくづくあの人は性根がねじ曲がってる。」

「あの…黒川って、どなたなんですか?」

わからない人名が出てきて、軽い気持ちで聞いたつもりだったが、薫さんは言うんじゃなかったという顔をして、

「仁村君、申し訳ないこと極まりないが、教えてしまってもいいか?」

「構わないです、この際なら。飯塚になら知ってもらっていてくれた方がいいですし…」

という会話をした後、少し細い息を吐いてから教えてくれた。

「飯塚君、由貴子さんは一人で仁村君を産んだということになるが、勿論相手はいるんだ。

その相手が…由貴子さんと由香里の父親である澄川征彦率いる暴力団と敵対する暴力団の組長の血筋なんだ。

それが黒川知樹。俺が知ってる限りじゃ、本部の若頭補佐あたりの役職を持ってて、ゆくゆくは会長レースに名を挙げてくるんじゃないかと言われてる。

今50近いくらいの年だったはずだが…彼は仁村君の存在を重要視している。

何しろ、澄川征彦の血も引く息子だからな。」

「でも、仁村は全然そんな社会と関わりなんてないのに…」

最後まで言おうとしたが、毅然とした薫さんの言葉はそれを遮った。

「だから、言ったろ?この世の中には…『奇跡』を信じて、血筋を強固に守る人間がいる。

その思惑の只中に、たかが血筋の仁村君は、巻き込まれてしまうんだ。」


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