空おぼめむ君を見つめれば
「暴力団の会長…」
「ああ。…由香里はそこの一人娘だった。
年がいってからの娘だったこともあって、それはもう耽溺といって差し支えない愛情を注がれていた。
そんな娘に裏切られたんだから、強硬手段に出るのもやむなしってところだったんだろう。」
「…よく、薫さんは無事でいられましたね。」
「俺も自分でそう思う。」
暴力団のやり口は、暴力と言う名を冠しているがわりと直接的ではなく陰湿である。
自殺に偽装した殺人、逃げてもどこまでも追ってきて親類縁者にまで執拗な嫌がらせを超えた恐喝を繰り返す。
薫さんがそこから逃れられたのだとしても、どれほどの被害があったのか想像にも及ばない。
「けど、俺がすぐ海外転勤になったのもあって…向うもさすがに海外にまで追いかけてくる気にゃならんかったんだろう。
あと、裏切ったとはいえ、由香里は今もずっと父親の溺愛する娘であることには変わりない。
もし俺に何かあれば、由香里がどう思うか考えてるのかもしれない。…まあこれは気休めの考えだけれどな。」
気休めだとしても、そうだったほうが有難い。そう思えた。
「それで、亨君は由香里さんのご実家に引き取られたんですね…」
「ああ。まだ乳離れもしてない生後間もなくの頃にすぐ。
由香里は泣いて、父親に縋りついてたけどな…どうにもならなかった。
それからは由香里の無気力は尋常じゃなかった。
こっちに出てきてから、お嬢様として仕えられる生活ではなくなったから、一生懸命自分で家事を覚えて
毎日それをこなすのが嬉しいっていうまでになってたのに、
少し身体を動かすのも億劫ってなまでに気力がなくなったんだ…
ほんとうに、すぐ横になるんだよ『身体に力が入らない…』って言ってな…
あと、なんでもないのによく泣いた。
俺が仕事から帰ってきて顔を見せるなりボロボロ泣き始めたり、
なかなか寝付けなくて何度も寝返り打ってると思ったら、涙が止まらない様子だったり…
これは本格的におかしいと思って、医者に見せに行ったら、単刀直入に言われたよ
『奥さまはあなたと一緒に生活なさることで大変な苦痛を感じておられます。
お二人の生活環境を変えられることが賢明かと思われます。』とな。」
「どう、して…?」
その頃の生活を思い出したのか、やるせない表情で薫さんは続けた。
「暴力団云々のことは置いといて、あらいざらい医者に事情を話したんだよ。
そしたら医者曰く、由香里の中で、この件の発端は全て俺と結婚して子どもを産んだ自分のせいであって、
俺は被害者であるっていう意識と、
離婚さえしてくれればどんなに虐げられようと亨とだけは生活できるのにそうはさせてくれなかった俺を憎む気持ちが
せめぎ合ってるおかげで不調が出てるような節の言動があると言われたよ。
確かに両方とも事実だから、それじゃあ仕方ないよな。」
「それでも、二人で力を合わせてなんとかできなかったんですか…!?」
「そうしたいのも山々だったけれど、俺の顔を見るのが原因で由香里が精神的に錯乱してしまうんだったら、
なら俺が消えちまった方が早いだろ?
だから、転勤の希望を出して、人員が手薄だった国の出張所に飛ぶことになったんだ。
その間、由香里が一人になって色々考えればいいと、そう思った末だ。」
「そんな…」
長年の薫さんの転勤生活にこんな理由が隠されていたとはつゆも思いつかなかった。
そして、あれほど快活な大家さんにそんな過去があるとは、思いもよらなかった。
「お陰でこっちは女日照りってわけで大変だったが、由香里の方はそれなりにうまくやれてたようなんだ。
俺が海外に出る直前に、父方の祖父が亡くなって、遺産に入ってたアパートが俺に入りこんで、
管理人として住んでみるのはどうかってことになったんだ。
そんなわけで由香里が管理人になって、君と仁村君が店子として出会ったわけだ。」
「そう、なんですか…」
「おかげで変わったよ、由香里は。管理人になってしばらくは、
俺が送った手紙に対してなかなか思うように物がつづれないのか、ぺらっとした紙1枚にちょっとした返事しか書いてこなくなったが
2,3年も経ったら、細かい字でびっしりと便箋何枚も使ってこっちのことを知らしてくれるようになった。
あと、最初の方では全然触れてこなかったのに、便箋の枚数が増えてくるうちに
『次はいつ帰国しますか?』とか『お土産楽しみにしてます。』とか、俺の帰国を待ってくれてるような文言も出てきてな。
海外に出て本当によかったと思ったもんだ…
だけど、今度また由香里を苦しめるようなことが起こった。」
「…亨君のこと、ですか。」
先回りして当ててみせると、薫さんはすこし微笑んで答えてくれた。
「飯塚君は察しがいいな。…その通り、亨のことがまた起きたんだ…
一応由香里の父親は、実の親との縁を完全に切るほど冷酷ではないだの理由をつけて、
亨と面会を許すことで耽溺する由香里と会う機会を設けたがった。
でも、自分の娘の子を奪うような真似をする親とは二度と顔も合わせたくないと由香里は思っていたからな、
当然だがそれを突っぱね続けていた。
それで、毎年1度だけ許される亨との面会には俺が行かされていた。
俺には何もしないという条件と引き換えに、由香里は別の条件を呑まされた。それはまた追々話すが…
そんなわけで、俺は毎年一時帰国しては亨に会いに行ってたわけだが…完全に俺は蚊帳の外だった。
父親だということも小さい物ごころの付いていない亨には一切話されず、
面会するにしても、他の誰かが常に付きまとっていた。
亨と一緒に外出することはできなかったから、由香里の実家の中だけで、つまりは監視つきの面会だ。
それでも、俺は毎年我が子の成長を目にするのは嬉しかったし、由香里に託さたプレゼントをあげたり、
逆に俺が由香里のために亨の写真を撮ったりすることは重要な役目だったから、我慢できた。
しかし、由香里の父親は残酷だった。
一緒に夕食を取ろうというから、断ることなんて俺にはできないのもあって、渋々夕食の席を囲むことになった。
本宅のだだっ広い食卓でだ、由香里の父親と母親、そして俺と亨が座る4人だけの席だ。
しかも、俺だけ独り客人だからと3人から引き離されてな。
なんやかんやで見せびらかすように談笑する3人の輪には加われる距離じゃなかった。
そして俺に聞かせたんだ…
亨に自分たち夫婦のことを父母と呼ばせている光景を。」
「そんな…」
「素手で殴られるよりよっぽど効果的だったさ…こんな精神的な暴力も得意なんだ、ああいう連中は…
加えて亨に、もし他に本当のお父さんとお母さんがいたら、そっちへ行くか?と聞かせて
亨に行かないと言わせたんだ…無理やり言葉に出させるようにして。
そしてそれを録音させたものを、後日由香里に届けさせた。『亨の肉声テープ』だと言ってな。
それを聞いた由香里は…亨が奪われた直後にもまして、酷い精神障害に陥った。
まだ救いだったのは、俺が傍にいることで調子を狂わせることはなかったぐらいかな。
なるべく海外からこっちに帰る頻度を増やしていたんだが、この年になると役職持たされたりして動けないことも多くて…
そのとき由香里が救いになったのは君たちだ、って聞いたものだから、本当に、感謝してもしきれないんだ。」
青天の霹靂である。まったく、大家さんの不調には今まで気付いたこともなかったのに。
「それって…俺と仁村ってことですか?」
「ああ、そうだ。確か、今から7年くらい前のことだから、飯塚君が独り暮らしを始めたぐらいの頃だったって聞いてる。
飯塚君が独り暮らしを始めて、仁村君もあんまり迷惑かけられないからって一人で頑張ってるのに空回りしてるから
ついつい由香里が世話を焼きに行ってしまったり、
飯塚君が料理とかを由香里に聞きに来たりするから、それもまた世話を焼いて自分のことにかまってる暇がなかったと。」
「そ、それってむしろ俺らが迷惑をかけてたんじゃ…」
「いやいや、そんなわけないさ。」
今までの鬱屈とした表情から翻った薫さんの顔は、本当に嬉しそうなものだった。
「由香里も好きでやってたんだからな。
本当に、君たち二人は俺ら夫婦のどうすることもできない溝を埋めてくれたんだ。
あの頃…何度も自分が不調に陥るからって由香里はずっと自分のことを責めてたんだ。
まあ、医者は精神的に不調…つまり鬱気味だったりすると自分のことを責めがちになるから仕方ないと言ってくれてたんだが…
とうとう、離婚してほしいと言われてな。
お互いいい年だし、このまま亨のことに囚われて前に進めなかったら、あともう半分ある人生が勿体ないっていって
役所から離婚届まで貰ってきて、あとは判をつくだけの状態で渡されたんだ。
俺は、勿論これからもう半分の人生も由香里と一緒に生きるつもりでいたから、猛反対したんだが…
ああいうときの女性って逞しいもんなんだよな、一度決めたらてこでも翻さない構えだった。
でも、君たちがいたんだ。
由香里は、君たちを放っていけないからここからは出ていけないっていって留まってくれた。」
「でもなんだかそれって、俺や仁村を出汁にして結局留まりたかっただけなんじゃないんですか?」
「そうだとしても、どっちにしろ、留まってくれたことに意味があるから、俺は構いやしないよ。」
薫さんのそれは惚気た言葉だったが、そこにのしかかった思いは想像もできない重みがあるのだと感じられた。
「それで、今年ようやく日本に異動になってようやく由香里とまともに生活が送れるようになったんだ。
俺ももう40越えてるから子どもを持つのにはギリギリの年齢だけど、
由香里があんなに苦しい目に遭ったんだから諦めようと思っていたんだ。
けど、由香里がもう大丈夫だからって言ってくれて。
…やっと、15年前の、今より何もなかった結婚した当初に戻れた気がしてたんだ。
だけど、亨が来てしまった。昔のぶり返しのように、由香里は倒れた。…本当にどうすればいいんだろう、な。」
そういって薫さんはもうどうしようもないというように顔を仰のかせた。
ただ生まれてきただけの子どもに罪はない。薫さんも大家さんも十分わかっているのだろう。
けれど、亨君は二人を混乱の渦に叩き落す切っ掛けのように現れる。
ようやく悪の連鎖から逃れられると思った末なのに、無理やりに連れ戻されたのだ。
そもそもは、大家さんが薫さんを焚きつけて駆け落ちしたことが発端だ。
しかし、二人が見つけられた時には既に二人は夫婦で、しかも子どもまでいたのだ。
普通の感覚なら、そこで仕方がないと言って認めるしかないだろう。
けれど、大家さんの親は断固として代償を求めた。
そこから色んな歯車は狂って行った。もう、当事者達ですら止められない残酷なシナリオだ。
「亨は、養育権も親権も由香里の両親が持っているんだ。もう、俺らの前に現れても、意味がないんだ…
なのになんで今さら…!」
「何か、あったんでしょうか?」
「…何かって?」
絞り出すような声で薫さんは問う。何でもいいから縋りたいと、切実な思いがそこには現れていた。
「すぐ思いつくことなら、大家さんに会いたかったとかじゃないんでしょうか?
今、妊娠しているって知っていたから、余計思慕が募って会いたかったとか。」
「それはない。俺が由香里と接触することだけはしないように、キツく言っておいたから。
由香里が亨のことで何度か精神障害を来してることは亨は重々承知しているはずんだ。
俺が口酸っぱく説明したのもある。
あと、直接目にしたことはないんだが、由香里は精神が不調でも年に一回の面会のときにに手紙は書いていたから
その異様な文章は何度か目にしているはずなんだ…
聡いあの子が気付かないわけがない。」
「そうですか…なら、何か確かめたいことが他にあった、とか。」
「確かめたい、こと?」
「直接会えなくても、影から見ることはできる。だから潜んで二人を観察しようと思っていたとか。」
しかし、薫さんは首を振った。
「それも、確率は低いと思う。俺は毎年必ず会いに行ってるし、由香里を見に行くなとはいってるが、
面会の時に彼女の写真を持っていってる。毎年新しいのを撮り下ろしてるぐらいだ。
だから俺達二人じゃないはずなんだ…亨の目的はもっと、別のところに…」
唸るように原因を思案していた薫さんは、ふと何かを思いついたのか、顔をあげてぽつりとつぶやいた。
「…仁村、君だ。そうだ…亨は、彼に、会いに行ったんだ。」
「仁村…?どういう意味ですか…?」
問いかけたそのとき、キィイと音がしてタクシーが止まった。どうやらアパートの目の前に来ていたようだ。
割り勘でもいいと思っていたのだが、断固として薫さんは運賃を払わせたくなかったようなので、甘えて奢ってもらう。
そうして二人で降りた時、どうもアパートが異様な雰囲気に包まれているのを感じていた。
「どうしたんだろう…?いつもとなにか、違う感じがしませんか?…見た目ではなんともいえないんですが。」
「そういえば、仁村君と亨はもう帰って来たのか?」
不安に駆られて、二人で駆けだした。まず、一目散に1階の大家さんの部屋に向かうが、変わらず鍵は閉められたままだ。
「2階に、行こう。」
どちらからともなく走り出して階段を駆け上る。靴底で踏みしめた鉄の音が、無情に大きく響く。
「仁村!!帰ってるか!?」
仁村の部屋のドアを叩く。自分でも、どこかおかしくなったのかと思うほど切羽詰まっていた。
「開けてくれ!!仁村!!!」
拳が痛くなるほど叩いたそのとき、内側から扉は開けられた。
「仁村……っ!」
しかし中から出てきたのは仁村ではなかった。
黒いスーツを見に纏った、長身の男が一人、ぬっと身を乗り出すようにこちらを眺めていたのだった。




