君の空隠れし月日
くたくたに疲れてアパートに戻ってきたとき、そこに一人の少年が立っていた。
すれ違う一瞬、ちらりと見えた横顔は、ハッと目が覚めるほど印象的だった。
日本人にしては高めでスッとした鼻筋に、上に物がのっけられそうな長い睫毛とその茂みの奥にある切れ長の瞳、
そして少し酷薄そうな唇が、甘めになりそうな他の顔のパーツを引き締めているように見えている。
柔らかな癖が入った明るい髪が襟足まで伸びているが、全然だらしなさは感じない。
身長は仁村より少し低めに見えるので、165センチ前後、といったところか。
酷く整った容貌をした少年は、細身の体によく合うサマーセーターと、ジーパンをはいていて、休日と言ったスタイルだ。
そんな彼は、じいっと、このアパートを眺めている。こちらが2階に向かう階段を上っている今もなお、微動だにしていない。
熱心に、それこそ、不審者にも負けないぐらいの執着っぷりである。
とはいて、そんな彼は今日まで一度も見たことが無い。このアパートの関係者だとしたら、今日が初めてなのかもしれない。
しかし、なんとなく初見の彼には何故か見覚えがあった。
面影がどことなく似ている、いや、そっくりな人物が、このアパートに住んでいるからだ。
その人物の名は、大内薫。
アパートの大家である大内由香里さんの長年の伴侶で、エリート商社マンという肩書を持つ薫さんと、
この少年は瓜二つ・・・とまではいかなくとも細部が似通っている。
まるで・・・薫さんを少年時代に戻したかのような。・・・つまり。
『こ、この子、まさか、薫さんの隠し子か!?』
由香里さんと薫さんの間に子どもがいないのは周知の事実である。
かなり長い間薫さんは海外に勤務していたせいもあって、なかなか子供に恵まれなかったらしい。
そこに、中学生ぐらいの薫さんにそっくりな少年が表れたということは。
どう考えても、薫さんがどっかでこさえてきた隠し子としか言いようがない。
『どどどどどどうしよう!!!普段から軽くDV気味な二人なのに、い、今こんなことになったら・・・!』
しかし、不自然な動作をしてまで少年のほうを向く勇気はない。そのまま何気ないふりをして階段を上り終えて自宅に向かう。
・・・つもりだったが、どうにも心が落ち着かないので、そのまま仁村の部屋のドアを叩く。
「仁村!起きてるか!?」
「なに?飯塚どうかしたー?」
ぎぃぃぃという嫌な金属音を奏でてドアが空いた。隣室の主、仁村圭一がTシャツ半ズボンで
眠たそうに眼をこすっている。いかにも寝起きらしい。
しかしそんなことに頓着してられない。今目にしたことをできるだけ正確に伝えた。
「へ~、薫さんにそっくりな男の子がそこにいるんだー・・・って、隠し子!?え!?とうとう薫さんの隠し子が!?」
「そうなんだよ!!や、ヤバくないか・・・!?今あの子と大家さんが鉢合わせしたら・・・!」
「どうするんだよ、飯塚!こういうとき俺らどうすればいいの・・・!?」
どうすればいいのか自分にはわかりようもない。それはきっと、当事者たちも同じだろう。
けれど、今はデリケートな時期だ。特に大家さんにとっては。だからなんとかしなければという思いがあった。
「い、今からあの子に話聞いてくるよ。で、なるべく穏便に帰ってもらう説得をして、
それがダメだったら俺の家に入れる。それでいいよな、仁村?」
「あ、ああ。飯塚の案は全然問題ないよ。最高だよ!!文句のつけようがない!」
まったくもってそんなことはないが、今は仁村の言葉が唯一の励ましだった。
意を決して二人で仁村の部屋を出て、1階に向かおうとした時。
――恐れていたことが既に階下では起きてしまっていた。
「うわああああああ!!!!お、お、お、大家さんが、大家さんが、帰ってきたー!!」
「う、嘘じゃないの!?い、飯塚が今見てるのは幻想だよ!白昼夢!蜃気楼!脳内麻薬!」
麻薬なんて物騒な!と言い返したかったが、目の前の光景は到底そんなものとは比べようにもならないぐらい状況が悪い。
隠し子と、本妻の遭遇。これほど怖い場面がかつてあっただろうか?
アパートをぐるりと取り囲んでいるブロック塀の向うの通りにゆっさゆっさとスーパーの荷物を両手に提げて帰ってくる
大家さんが見えてしまっていた。
この調子でアパートの門を通り抜けたら、ぼうっと突っ立ったままの少年と完璧に鉢合わせする。
修羅場だ。まさに、地獄絵図。
「どうする仁村・・・?」
「行くしかないと思うよ、俺は・・・い、行こう、飯塚!」
二人で掛声をして、階段を勢いよく降りる。その間にも大家さんが接近している。それでも、肉薄する前になんとかしないと。
その思いで、二人して薫さんそっくりの少年の前に立ちはだかった。
ぜえぜえと息を切らした大人の男二人が目の前にやってきたからか、少年は目をまん丸にしていた。
「き・・・君、このアパートに、な、何の用?」
「・・・あなたは、ここの住人の方ですか?」
「あ、ああ・・・俺が飯塚で、横の彼は仁村だ。ここの2階に住んでる。
誰かここのアパートの住人に用があるなら、俺達が案内するけど、ずっとさっきからここに立ってるよね?どうかした?」
「・・・・・・大したことないんです。」
大したことだよ十分に!!!と心の中で叫びかけた。さっさと用件を言ってもらわないと、大家さんがもうすぐ帰ってきてしまう。
最悪な場面に仁村と二人立ち会わせることは、できれば避けたい。
仁村もそう思っていたからか、じれったそうに言った。
「でも、さっきからずっと、眺めるだけで突っ立ってたよね?一人でこんなとこでずっといたら不審に思われちゃうよ?」
仁村のいい方は極端だが、あながち外れたことをいっているわけでもない。だが、さっさと目的を行ってもらわねば困るのだ。
きゅっと眉根を寄せた少年は、ほんの少しの間思案していたようだが、覚悟がついたのか、口を開いた。
「ここに、大内薫という人間が住んでいると聞いたので来たのですが・・・今、不在みたいでどうしようかと思ってたんです。
また、後で来ますので、お構いなく。」
そういって少年はくるっと踵を返そうとした。仁村と二人、やめてくれ、そっちに行ったら、大家さんが今まさに帰ってくるところなんだから!
と手を伸ばしかけた時、
その張本人が門をくぐってやってくるところだった。最悪の事態の幕開けだった。
「あら、仁村君に飯塚君。こんな真昼間に二人揃うて珍しいやないの。・・・そこにいらっしゃるのは二人の御客さん?
こんにちは、ごゆっく・・・」
いい終わらないまま、大家さんの視線がピタリと縫いつけられたように少年に張り付いた。
少年も少年で、出て行こうとしたところだったのに、動作を止めて大家さんをまっすぐに見つめている。
二人は暫く無言だった。
さすがにこの沈黙状態に仁村と二人耐えかねそうだったので、思い切って大家さんに告げた。
「大家さん・・・この男の子、薫さんに会いに来たんだそうで、さっきからここにずっと立ってたんですよ。」
はっきりと疑惑の人物の名前を出してしまったことが大変に不味かったのだろう。
かおる、さん、とこちらが読み取れるように声なき声を出した大家さんは、少年からすっと目を逸らした。
そして、ぽろぽろと大粒の涙をこぼしながらゆらり、ゆらりと風にはためくように身体がよろめいた。
「大内さん!!!!!!飯塚、救急車呼んで!」
「わかった!」
仁村が駆け出して大家さんを抱きとめる。失神して倒れる寸前だった。手に持っていた買い物袋はドサッと音を立てて地面に落ちる。
コロコロと玉ねぎが転がって行ったが、それに気をとめることなく、俺はポケットに入れていた携帯電話から119番を押す。
ぷー、ぷー、という通話音を聞きながら、ちらりと少年を眺める。いきなりの事態に顔面が蒼白だ。
確かに、こんなことになるだなんて、少年は思いもしなかったはずだ。
彼と薫さんの関係が本当に隠し子だとはわからないが、仁村や自分が一瞬見ただけでもわかるほど、薫さんと彼の血のつながりは近い。
大家さんなら、言うまでもないだろう。
少年は薫さんだけを目的にここに来たのかもしれないが、運悪く大家さんと出くわしてしまった。
もし、通常時の大家さんなら、もう少し事は穏便にいっていたかもしれない。けれど、時期が悪すぎた。
ようやく消防通信センターに回線がつながる。どうされましたか、というオペレーターの声に、努めて冷静に説明をした。
「大伴町2丁目10番地のアパートで、女性が倒れました。おそらく失神か何かだと思うんですが、今、
妊娠8カ月なんです。早く、救急車をお願いします。」
そのあと、大家さんは近くの総合病院に救急搬送された。救急車には仁村を付添いに乗せて、後でタクシーに乗って少年と共に合流した。
ロビーで二人待っていると、救急センターからひょこっと付き添っていた仁村がでてきた。
医師から説明を受けた仁村によると、大家さんはなんらかのショックによる一時的な血圧の低下で起きた失神で気を失ったらしい。
それだけ、この少年との遭遇は心身にもたらした影響が強いということだ。
幸いにも胎内は安定していて早産する可能性は低いとのことだったが、念のためということで一日入院することになった。
ただし母体は正常でも精神が安定しなかったので、今、大家さんは鎮静剤を打って眠っているらしい。
とりあえず、なんとか収まりそうだったので、安堵のため息をついた。
「薫さんに電話したんだけど、すごい怖かったよ・・・今、出張で静岡にいるらしいけど、とんぼ返りするって。」
「だろうな・・・で、彼、どうしようか。」
「あ、薫さんにそのとき言ったんだよ、『薫さんにそっくりな男の子がいて、病院まで飯塚が連れてくるけどいい?』って聞いたら
そうしてくれるとありがたい、って。丁度、そのときに薫さんとこの子を会わせればなんとかなるよね。」
そういって二人で少年を眺める。自分のせいで大家さんが倒れたようなものだから、ショックは相当なものらしい。
ただでさえ色白だった彼の顔は、今は最早青白い。
彼にまで倒れられたら困るので、咄嗟に声をかけた。
「大家さんも、お腹の赤ちゃんもなんともないって。君が気に留めなくても大丈夫だ。」
「でも・・・軽率に、俺が、あの人に会ったせいで・・・」
「君と、大家さんと、薫さんがどんな関係かは、俺は知らないし、隠さなければいけないことだったら俺は知るつもりはないよ。
もし、それでも自分に何か責任があると感じるなら、あとで、薫さんが来るから、そのときに相談すればいい。そのときまでは俺らもいるから。」
そう聞いて、ようやく少しほっとしたのかこくんと少年は頷いた。
仁村は少年の横の椅子に座って彼の方を向いた。
「で、なんて名前なの?なんて呼べばいいかわからないから、教えてよ。」
なんてこんなときでもフランクなんだこいつ、と思いながらも、こういうときの仁村の能天気っぷりは有難い。
少年もそのお陰で気が少し緩んだのか、仁村の方を見て、言った。
「大内亨です・・・今日は、本当に、ご迷惑をおかけして、すいませんでした。」
大内姓だ。仁村とひそかに顔を合わせる。しかし、ここで亨君を不安にさせるわけにはいかないのでそのまま仁村は話を続けた。
「いいよ、謝らなくても。亨君、まだ、学生だよね?いくつ?」
「15、です。中学生で・・・」
「今日平日の真昼間だけど、学校はどうしたの?」
「文化祭で・・・俺は、ああいうの苦手だから、休んだ。」
「そっか。」
それ以上は深く追及することなく、仁村は目線を亨君からズラした。
病院の外来の忙しさの中、なんともいえない、澱をとどめた3人は確かに、周囲から浮いていたように思えた。
それから2時間余り経ってから、昼の3時過ぎに血相を変えてロビーに駆け込んでくる男性が見えた。
濃いグレーのピンストライプスーツの上下を着こんでいるものの、急ぐためか、ネクタイをはぎとり
シャツを胸元近くまで肌蹴させた薫さんだった。
アメリカから帰ってきた直後は、襟足まで髪を伸ばしてだらしなさそうだったが、日本勤務になってからは
すっきりと短めに髪を切り、ノンフレームの薄い眼鏡をかけてかなりのインテリっぽい格好になっている。
近くにいる若い看護師や、受付の女性たちがこぞってそんな色男を好奇の目で見ているが、
全く薫さんは頓着もしていないようだ。
きょろきょろと辺りを見回してようやくこちらを見つけた薫さんは、凄まじい勢いで3人の前に立った。
「由香里は!?今どこだ!?」
「薫さん、落ちついて!大丈夫ですよ、母胎共に安定してます。ただ今鎮静剤打って寝てるから、
そんなにがっついたまま会いに行ったら起しちゃいますよ。」
「あ、・・・ああ、そうか・・・すまない、仁村君、取り乱してしまって。」
「気にしないでください。気持ちはよくわかりますから。」
仁村はそう言って薫さんに先ほど売店で買ってきたジュースを勧めた。
薫さんはそれを受け取って気を落ちつけるために一息に飲んだ。
なんだか今日は仁村が活躍している。こんなに役に立てるなら普段からもそれを発揮してほしいもんだと思う。
ひとしきり呑み終えた後、はぁ・・・と大きなため息をついた薫さんは仁村の横の椅子にだらしなく座り込んだ。
「まさか、由香里が倒れるだなんて・・・ただでさえ高齢出産だから気遣ってたんだけどな・・・」
「俺もまさかだと思ってましたよ。」
「飯塚君と仁村君がいてくれて本当良かった・・・二人には感謝するよ・・・」
神にも感謝しそうな殊勝さで薫さんは言った。本当に珍しい。こんなこともあるのかと思ってしまった。
暫くへたりこんでいた薫さんは、気を取り直したのか、すっと仁村の隣に目線をやった。
未だに俯いている亨君に対して、打って変わって厳しい口調で言った。
「どうして、急に来たんだ。前も言っただろ?俺はいないかもしれないからって。」
「でも・・・日本に帰ってきてるって・・・」
「だからって仕事してるんだこっちは。しかも真昼間だろ?由香里と会うことぐらい、わかんなかったのか。」
「わかってた・・・けど。」
「由香里は今、妊娠中で、不安定なんだ。ただでさえ、高齢出産でハイリスクなんだよ。
俺のことを考えるんだったら、由香里のこともちゃんと考えて行動しろ。」
「・・・はい。」
泣きそうな顔で亨が頷いた。イマイチ、二人の関係がよくわからない。
しかし、修羅場めいた雰囲気でもあるので、なかなか聞きづらい。どうしようかと考えあぐねているとき
空気を読まないことにかけては天下一品の仁村が口をはさんだ。
「あの・・・薫さん、亨君と、一体どんな関係なんですか?」
「んあ?・・・ああ、二人に言って無かったか・・・」
いや、言わなくてもいいことなら今ここで言ってもらっても・・・!と思ったが、薫さんはすらりと言ってしまった。
「亨は、息子だ。今年で15になる。
・・・由香里と結婚した頃に、出来ちまった子だ。」
ええっと、これってどうコメントしたらいいんでしょうか。
そんな言葉がぐるぐる脳内を渦巻いた。




