空嘯く者たち
「おい、仁村!生きてるか!?」
隣の家のドアの前で声を掛ける。
ドア横にあるチャイムは既にとうの昔に壊れていて、薄いドア越しにほんの少し声を張り上げるだけで
十分中には声が伝わっているはずである。だが、ここの家主が一向に出てくる気配はない。
「仁村!俺だ!倒れてるのか!?」
口に出してから気付いたのだが、実際倒れている人間に倒れているのかと質問した所で
返事が返ってくるはずがない。自分は窮地に陥ると相当にアホになるのか?と
心の中で一人つっこみをしたところでようやく
「ごめんごめん、ちょっとそこで伸びてたんだ」
と、サラリと自らの窮地を言ってのけるこの部屋の主・仁村が出てきた。
ドアから出て来た仁村の頭は蜂の巣のように寝癖がついており、それをさかんにぼりぼりと掻きながら
紺っぽいジャージがよれっよれでなんだか哀れにすら思える。
しかし本人は能天気で今にも『えへへ~』といいそうに笑っている。
あまりバツが悪そうには見受けられない。思わず溜息を吐いてしまった。
「はぁ・・・そんなこったと思ったよ、案の定そうだったけど」
「いっつもごめんな。で、飯塚は仕事上がり?」
「ああ、とはいってもこんな時間だけど」
そういってお互い狭いアパートの廊下から空を見上げた。
月は若干の綿雲で光が遮られてしまっているが雲間から覗くそれは中天を過ぎ去っている。
時刻は午前2時。もう誰もが寝ているような夜中である。だがこの目の前にいる男にとってはその夜中が活動時間である。
名前は仁村圭一。職業は想像の通り自由業、物書きらしい。
ひょろひょろっとして生っちょろく日の光を浴びていない肌は白を通り越して、最早青白い外見から見てもわかるように、
長い間家での執筆作業がたたって外界との接触は極めて少ない。
その代わり大学時代に文芸誌のちょっとした新人賞を取ってからそれなりに名は知れているらしく、
こうやって家にこもって締め切りに追われる毎日を送っている。
「んーと、飯塚、そこにぶらさがってるのって、何?」
そういって仁村が指差したのは、自分が提げているレジ袋。思わずそれを持ち上げた。
「ああこれ、多分仁村何も食ってないだろうと思って、コンビニで鍋焼きうどん買ったけど・・・食う?」
「勿論!あ、そうそう、編集さんがお土産で漬物くれたしうちで食ってってよ」
「・・・じゃあお邪魔する」
そういって、仁村の部屋の中に入った。
仁村の部屋は、まさに荒廃しているという言葉に相応しい。
ところどころに積みあがった紙束は一種の塔を形成していてちょっとしたバランスでも崩れ落ちそうである。
1Kのど真ん中に置かれた、この麗らかな春には無用な布団の掛かったこたつは
ダイニングテーブル兼テーブル兼文机になっているらしく、
みかんの皮やら無数の飲料の入っていたと思しき缶やら大量の資料と思しき紙や本、そしてノートパソコンが無造作に置かれている。
ただしこれに対する本人の弁は『これが一番使いやすい配置なんだよ!』だが。
トレンチコートを脱ぎながら下の畳が見えない部屋の、ドコに座ろうかと思案していると
仁村が、殆ど物置と貸している台所で湯を沸かしながら、
ちんまりと置かれている冷蔵庫から漬物と、賞味期限の怪しい生卵を取り出して
「その鍋焼きうどんにこの卵落そうか?これ一応地鶏の卵だから美味いと思うよ。」
と結構恐ろしい事を言ってのけた。
でもここでいらないと言えば多分機嫌を損ねるという事がわかっていたので
「ああ、乗せてくれ」
と返答してしまう自分も甘いといえば、甘いんだろう。
上機嫌な仁村は、物がパンパンに詰まっていて開閉ままならない押入れから
器用にカセットコンロを取り出してきて今回はダイニングテーブル使用のこたつの上にデンと置いた。
「えへへ、なんかほんとに夜食っぽい」
「というより、夜食だろ?」
ずるずるーという、うどんをすする独特の擬音が部屋の中に響く。
合間にゴキュゴキュっとお茶をコップ酒のように一気飲みする音も混じっている。
仁村はまさに一心不乱という具合にうどんをすすっていた。
「・・・もしかして、夜抜きだったとか?」
「半分当りー。実は昼も朝も食ってないから結構腹減るもんだねー」
と言ってのけた。まあ予想に違わない答えであるといえばそうであるが。
そんな仁村圭一と自分は安普請のボロアパートの隣同士である。
自分は小学生ぐらいの頃に引っ越してきてからずっとここに住み続けているが仁村の場合は高校時代からここで一人で住んでいる。
自分の場合、数年前母親が再婚して出て行ってから一人住まいなのだが
この仁村の場合は、まだ親の助けのいる年齢からずっとこんな調子で暮らしている。
その昔、お節介焼きだった母親が仁村を見るに見かねて夕飯をおすそ分けしたりするうちに
ずるずるとこの年になるまで面倒を見ているという不吉なループにはまっている。
仁村の家庭の事情は知らない。
この自活能力の極端に乏しい男が、少年期で放置された原因を聞く機会は、越してきてから一度も、なかった。
仁村のほうを一瞬ちらりと見てから、先ほど落した卵をじっと見つめる。
賞味期限切れという予想は見事に的中していたのか、黄身の弾力はなきに等しく卵を割った衝撃だけでべとりと破裂した。
・・・普通、人はこれを見れば食べるのは危ないと思うものだが、
気にせず仁村が食べているのでとりあえず自分も食べる事にした。
「でもこんだけ働いてるってのに仕事って片付かないもんなんだねえ」
はあと、珍しく仁村が溜息を吐いた。
「煮詰まってるのか?」
「んー、まあそういうもんかなあ。でもほんっと珍しく仕事が被って結構にっちもさっちもいかなくって。
今やってる月刊誌の連載の締め切りと今度出る文庫の校正の締め切りが殆ど一緒で
あと、大手の季刊誌の代原の依頼がいきなり来ちゃってさ。
でも、大丈夫。うんうん。」
自分で無理矢理納得させるように頷いている時点で怪しい。指摘しようと思ったが面倒くさいのでやめておく。
「でもそれだけ仕事してるのに、ちゃんと稼げてるのか?」
「うーん、どうかねえー。一応単行本とかちょっとだけ出させてもらってるから印税もポロポロ貰ってるけどねえー」
他人事のような怪しさであるが、仁村の場合本当に本人ですら怪しいらしい。
仁村のジャンルは所謂猟奇モノで、一度読んだ作品は
B級映画でも今時こんなのあるかというスプラッタ満載だった。
本人曰く、デビュー作から読んでるというコアなファンがいるそうだが一般受けしているとは全く思えないのは同感だった。
「あ、そうそう、今度秋葉行くんだよねえ、取材で。」
「へえ、どういうところ回るんだ?」
「んーと、色々武器売ってる店。あ、勿論ホンモノじゃないよ?モデルモデル」
「・・・そうか。」
相変わらず一般受けできなさそうなジャンルを邁進する予定らしい。
すると仁村はうーん、と唸った。
「でも、さっき言った代原頼まれてる編集さんから注文があって、
猟奇モノじゃなくて、今まで書いたことないジャンルとかやってみて欲しいって。
その雑誌、結構部数出してるからマニアックなのは避けて欲しいらしいんだよなあ。
なら僕に頼むっつーなよーって思うんだけどなあ、」
「へえ、でもそれって仁村の名前が知れるいい機会じゃないか。」
「でもさあ、今まで書いてきたジャンル以外のって言われても
その昔書いた習作以外は大体スプラッタ有なのばっかなんだよなあ・・・」
呟いて仁村は手元にあった薬缶に手を伸ばし茶を時折零しながらも湯飲みに注いだ。
そしてまたしてもまるで銭湯によくいる腰に手を当てるような飲み方の角度で、ゴキュッとお茶を飲み干した。
多分、目がどうしてもいってしまったのだろう、
細く日に焼けていない喉が嚥下する様子をまざまざと見てしまっていた。
何となくバツが悪くて目を逸らした。
仁村はそれに気付いていない様子で拗ねるように口元をすぼめながらいった。
「でーもー何書けばいいっつーんだよなー」
「お前が興味あるやつって、他にないのか?」
「んー・・・あ、ハードボイルド!!!ハードボイルドがいいよ!なあいいと思わない飯塚!?」
いきなり叫んだ仁村は飛びつくようにこちらに向かってきた。
期せずして思いついた名案に興奮したからか上気した頬がほのかに染まっている。
「え、あ、ああ。い、いいかもな」
「ほんっとにいいの思いついた。早速明日ネタ考えよっ」
明日かよ、と思いながらも、仁村の嬉しそうな表情からやはり目を逸らしていた。
なんとなく、それらが身のうちに染み込む毒のように思えていたからだった。
仁村がどういう人間かは、なんとなく接しているうちにわかっているはずだった。
けれど、本当に知っているかと言われると・・・わからない。
一度親はいないのか、とうちの母親が聞いた時、確かに
『いない。』
と言ったのを覚えている。
でも、仁村の部屋の、指の腹でなぞればごっそり埃のつくTVの上に置かれている
古ぼけた写真立ての中で笑っている女性は、仁村によく似ていて、
その横には、いつも欠かす事無く一輪の花が生けられている湯飲みも共に置かれている。
ある時はいきなり編集者とは全く思えぬスーツを着こなした強面の男が二人、仁村の部屋を訪れ、
その応対に出た仁村が
『僕には父親なんて、今までいたことないんだ!血の繋がりだけで勝手に父親と主張してくれるな!!!』
と叫んだ声が薄いアパート壁越しに聞こえたこともあった。
いつもへらへらしていて子どもっぽい仁村に珍しい憎悪までもを含んだ激怒と、毅然とした拒絶の声だった。
その時、普段の仁村に長年感化されていたのかもしれないが
あいつも結構苦労してんのな、と能天気な事を考えていた己がいた。
けれど、
そうもいってられない事態に仁村が陥る事になるのはそう間もないことだった。