5章 大切な約束 4-14
さらさら、と優しげに木立が揺れる。
人工的に整えられた正八角形の水鏡には、ほんわりと上空を雲が流れるさまが映っており、風が渡ると微かに揺らめき乱れ、陽光に煌めいた。
庭園の入り口正面に建てられた白い建物は、訪れる者たちに憩いの空間を提供している。その見晴らしのよいテラスの手すりには恋人たちが集まって、あたたかい陽差しを楽しんでいるのだった。
平和そのものの光景だ。
「まさか『千年王宮』の北の庭園が、こんなに古くからあったなんてなぁ……」
トルテとふたり、きれいに整えられた芝生のなかの小道を歩きながら、リューナは頭の後ろで手を組んだ。
つぶやいてから、古くからというのは正しくないかもしれないな、と思いなおす。こちらのほうが新しい。長い年月を経る前なのだから。
手入れの行き届いた庭園には光が溢れ、敷石のどれひとつとして欠けたところはない。よく磨かれて玉虫色に輝く道は、緑に揺れる庭園の静寂を流れる音楽のように、曲がり、続き、また曲がっている。
トルテが弾むような足どりで少し先を進み、周囲を見渡しながらくるくると体の向きを変えていた。
「あいつ、なんだか踊っているみたいだな」
幼なじみの無邪気な様子を眺めながら、リューナはまぶしそうに目を細めた。気持ちのいい天気だ――寝不足の目にはあまり優しくないか、とリューナは苦笑した。
トルテと一緒に子どものころから駆け回っていた庭園の過去の姿。人の手でかいがいしく手入れされた庭は堂々としてよそよそしく、あまりにも印象が異なっていた。
そんな中を歩くふたりは『現代』にも残るテラスや池などを見つけては、ここが自分たちの知る庭園であることに安堵してホッと嘆息し、笑い合いながら進んだ。
この時代の庭園に新たな発見もあった。まず驚いたのは、庭園が左右対称になっていることだ。リューナたちの知る『現代』には、右奥の部分がカクストア大森林の周辺部分に没し、すでに森の一部となっている。
「懐かしい、と逆の印象というか……なんだか不思議ですね。子どもの頃、リューナとたくさん冒険した場所なのに、まるで違うところみたい」
トルテが言いながら、自分たちが歩いてきた背後の荘厳な建物を振り返る。
彼女の生まれ育った『千年王宮』はまだ影も形もなく、この時代にその場所にあるのはメロニア王宮だった。
その客間で、きっとディアンはまだ眠っているのだろう。
リューナは明け方になって少し眠ったが、太陽とともに起きる習慣がついているので目が覚めてしまい、それならばとダルバトリエに勧められ午前の散歩に出たのだった。
池にかかる石造りの橋を渡り、きれいに並んだ木立を抜けると、トルテが「あっ」と声をあげた。
「この先には、石碑がありましたよね、確か」
笑顔で駆け出すトルテにつられるように足を速めたリューナは、記憶の通りの広場に出た。様々な色の石が敷き詰められ、陽光が虹色の光となってその石碑を下から照らしていた。そこは庭園の中心になっている場所だった。
「うわぁ、綺麗!」
トルテが石碑に駆け寄った。現代で彫られている文字は見当たらなく、何かの魔法陣のような紋様が刻まれている。表面はつやつやとエメラルド色に輝いていた。
「石碑は、記憶にあるものとは少し違うような気がするな」
「そうですね」
トルテは不思議そうに美しい石碑を見上げていたが、リューナが歩み寄るのを感じると、くるりと振り返って微笑んだ。高い位置に結んでもなお長い金色の髪がさらりと流れる。気のせいか、少し淋しげな表情だ。
「なんだか、あたしたちの庭園が恋しいですね。自然に呑み込まれそうで、それでいて調和しているというか……あたし、あの大樹たちの間から差し込んでくる光が好きなんです……」
「言いたいことはわかる気がするよ。ここはあまりに人の手が入り過ぎていて、綺麗だけどちょっと息苦しい感じだよな」
「うん……」
トルテは目を伏せ、何か考えこんでいるようだった。瞳が小刻みに揺れ、唇を少し開いて――どちらか決めかねているときの表情だ、とリューナは気づいた。
「どうした、トルテ」
「ねぇ、リューナ……これから、どうなっちゃうんでしょうか」
目を伏せたままトルテはそっと言葉を発し、瞳を上げた。
「……戻れるかどうか、不安なのか?」
「それもあるけど、たくさん……不安なの。あたしたちがここへ来たことに意味があるのかとか、未来に繋がっているものを壊していないかとか、ここで知り合った人たちがどうなるのかとか……、あのひとを……るべきなのか……とか」
言葉は弱々しく、後半はかすれて聞き取れなかった。だが、トルテの不安が、彼女を押し潰してしまいそうなくらいに大きいことは理解できた。
「戻れるさ。俺たちはこの時代の人間じゃない。戻らなきゃいけないんだ。何があっても、俺が絶対トルテをもとの時代に帰してやるから心配すんなって」
「リューナ」
トルテがリューナの言葉を遮った。唇がわななき、必死で次の言葉を紡ごうとしている。
「――違います。一緒に帰るんです。約束してください」
あぁ、とリューナは頭を掻いた。
「言い方が変だったかな。一緒に帰るさ、もちろん約束するよ。だからそんな顔すんなよ、トルテ」
リューナは肩をひょいと上げ、事も無げにそう言った。当たり前だろ、というように。一瞬、トルテの顔に悲痛な表情がかすめた。
「リューナ――」
トルテの頬に大きな涙がひとしずく、転がり落ちる。吃驚したように動きを止めたリューナまで一歩の距離を詰め、トルテは踵を上げ、つま先立ちになった。
ためらうことなく、トルテはリューナにくちづけをした。やわらかい衝撃がリューナの全身を駆け抜ける。
トルテの唇はとてもやわらかく、そして甘かった。ぼぅっとした頭がふわふわとどこかへ飛んでいってしまいそうで、リューナは動きを止めた。
そっと唇が離れた。
「と、トルテ……?」
目を開いたリューナは、戸惑ったように彼女の名前を呼んだ。
頬にキスは、幼い頃から今までに何度も受けたことがあった。ずいぶん昔には、彼のほうから少女の頬に気どってキスをしたこともある。だが、今回は……。
トルテはリューナの胸の衣服を掴み、倒れ込むように顔を押し付けていた。泣き顔を隠したいのか、照れた顔を見られたくないのか。
その細い肩が震えていることに気づいたリューナは、その肩にそっと自分の腕を回した。
だが、少女は微かに身をよじってその腕を振りほどき、顔を上げた。その瞳から涙は流れていない。けれど、今にも泣き出してしまいそうなほど危うい表情だ。
「リューナ、もし……もしも、ね。自分の気持ちと正しいと思うことと、どちらかを選ばなきゃならなくなったら。あなたならどちらを……取りますか?」
突然の問いに、リューナはぼぅっとしていた頭で考えを巡らせ、つっかえながらも答えた。
「あ、ああ、そうだなぁ……。うん、そんなときには、自分の気持ちに忠実になると思う。後悔はしたくないからな。俺なら――そうする」
リューナはトルテの顔を覗き込んだ。
「でも、何でだ? どうかしたのか、トルテ」
「ううん。何でもないの……ありがとう、リューナ」
トルテは体を寄せ、もう一度リューナと唇を重ねた。今度は、触れるようなキスだった。
「さっきの、約束だからね」
小さな声で囁きながら体を離し、トルテは火照ってしまった自分の頬と目の端にちらりと光った涙の雫を手でこすった。
リューナは驚きの連続で、考えがまとまらない。ただ、トルテの様子がいつもと違うことはわかる。
再び顔を上げたトルテはにっこりと微笑んだ。
「……さ、帰りましょっか、リューナ。もうお昼だから、みんな起きちゃってるかもですね」
リューナは胸に何かがつっかえでもしたかのようなもどかしさを感じていたが、いつもの明るい笑顔に戻ったトルテを見てようやく安心したのだった。
「あ、リューナ、トルテ。おかえり」
王宮の真っ直ぐな廊下で、まだ眠そうな目をしているディアンに会った。
「ディアン。なんだかまだ眠そうだな」
「寝過ぎたんだよ。久しぶりにたっぷり休んだ気がする。こんな時間に起きたのはいつ以来かな。なんだかもう、おなかぺこぺこ」
「いろいろあったんだし、仕方ないさ」
「そうだね。ハイラプラス殿が、君たちが戻ったら一緒に食堂においでって言っていたよ。……トルテ、どうしたの? なんだか元気ないみたいだ」
リューナはトルテを振り返った。そういえば、王宮に入ってからずっと押し黙っていたような気がする。
「どうした?」
「え、ううん。あたしは元気です、大丈夫。食堂にはあたし、後から行きますね。リューナ、ディアン、先に行っててもらってもいい?」
問われてしまっては、駄目だとはいえない。少年ふたりは顔を見合わせた。
「着替えてくるのかい? じゃあ僕たちは先に行って待ってるね」
ディアンの気遣わしげな言葉に、トルテはにっこり微笑んでみせた。
「うん、ありがとう」
リューナはディアンと食堂に向かいながら、背後を振り返った。トルテが小さく手を振り、ふたりを廊下の先に見送っていた。
廊下には、他にも使用人や文官らしい者などが歩いている。人間とほぼ変わらない外見の竜人族たちだが、背は全体的に少し高めだ。その中でトルテはやけに小さく儚く見える。と、もうひとり人間族の姿が視野に入った。ルエインらしい姿が歩いてくるのが見えたのだ。
トルテも同じく彼女に気づいたようで、頭を少し下げて挨拶をしている。近づいたふたりは、何か話を始めたようだ。
まあいい、あとからふたりで来るのだろう――リューナはそう思いながら視線を前に戻し、ディアンと廊下を曲がった。
「おかえりなさい、リューナ。散歩は楽しかったですか?」
食堂――賓客用のダイニングルームに入ったふたりを、ハイラプラスが迎えた。
「ああ。俺たちに馴染みの庭園がこの時代にもあったなんて驚いたよ。トルテも嬉しかったみたいだ」
「そうでしたか。……ああ、ダルバトリエなら公務がありますからね、ちょっと席を外しましたよ。どうせまた抜け出してくるでしょうが」
「そうなのか。仮にもここの王様なんだろ? 抜け出す、とかそんなんで大丈夫なのか?」
ハイラプラスはくすくすと笑った。
「ここにも老院がありますからね。実質、王は人民をまとめ、その声に耳を傾け、ともに動く、いわば象徴のようなものです。資質としては、信頼され人々を引っ張れる魅力のある人物が求められます。実務はほとんど老院と呼ばれる五省庁の代表者たちが受け持っているので心配なしですよ」
「飛翔族には老院がないんだよ。僕たちのところでは、歴代の王達が実務もこなしている。その為に優秀な秘書官や側近がたくさん傍にいる」
ディアンはそこまで語って、目を伏せた。
「その側近の中から謀反を企てた者が出たんだけどね」
たぶん、それがザルバスとかいうやつと、ドゥルガーというやつなのだろうな。リューナは苦々しげな表情になったディアンの横顔を見つめた。
ふむ、とひとつ唸ったハイラプラスは、リューナに視線を向けた。
「そういえば、トルテちゃんはどうしました? ダルバトリエの代わりに例の魔晶石についての話を伝えなくては、と思っていたのですが……。それに、そろそろスマイリーくんも到着する頃だと思いますので」
「ああ、トルテならすぐに来ると思う」
「そうですか。では、話はトルテちゃんが来るまで待ちましょう」
ハイラプラスは頷き、座っていたテーブルをトントンと叩いた。扉が開かれ、食事が運ばれてきた。
「ふたりとも育ち盛りさんなんですから、食事は待っていられないでしょう? 先に食べながら待っていましょうね」
だが、いくら待ってもトルテが来る気配はなかった。リューナはフォークを置き、席から立ち上がった。
「おかしい。遅すぎる」
「僕もそう思う。様子を見に行ったほうがいいんじゃないかな」
「ふたりとも心配性ですね」
想いを寄せる相手は余計に気になるのでしょうね、若いですねぇ、と青年がつぶやくのが聞こえたような気がして、リューナは顔が熱くなった。
そこへ、甲冑こそ着てはいないが立ち振る舞いが兵士らしい人物が部屋に駆け込んできた。ハイラプラスの傍に駆け寄って耳打ちしようとするのを、ハイラプラス本人が制した。
「どんな報告であれ、ここにいる者たちが聞いても問題ありませんよ。何事ですか?」
「は、はい。実は巨大な狼のような幻獣が一体、この都に侵入しました。隣のプロミテアナ庭園に居るとのことなので外出なさらず。ご注意くださいませ」
「巨大な狼……?」
「それって――まさか!」
「『月狼王』は幻精界の最上位種、彼は人語を解します。そして今トルテちゃんと意識の一部が繋がっている状態――むやみに街中へ入らず郊外で待っているはずなのですが」
リューナの中を嫌な予感がぞわりと背筋を駆け抜けた。言葉を終わりまで聞かず、慌てて部屋を飛び出した。背後で椅子が倒れ、勢いよく全開された扉が派手な音を立てる。
――尋常ではない事が起こったのだ。トルテの身に!
リューナは全力で走った。王宮の通路や、角を曲がった先でぶつかりかけた人々を素早くかわしながら、疾風のごとく走り抜けて外に飛び出す。
王宮から庭園へ続く広場と道に、多くの兵士たちの姿があった。庭園の中心へと向かっている。その位置には赤みがかった闇色の胴と、盛んに動く狼の耳と尾が見えていた。
「間違いない、スマイリーだ。トルテがあそこに!」
確信に近い予感に急かされるように、リューナは庭園の広場に走り込んだ。
そこにあったものは見紛うはずもない、堂々とした『月狼王』の巨躯。スマイリーは石碑の傍で何か大切なものを護るように身を丸め、しきりに地面へ鼻を向けている。
その鼻の先、幻獣の足もとにあるもの――金色が広がり地面に渦巻く模様を成した、まるで散り落ちた花びらのように鮮やかな色彩。虹色に敷き詰められたはずの敷石は、ただ一色の赤に染まっている。
地面に横たわっているのが誰なのか――リューナにはすぐにわかった。
「トルテ! しっかりしろ、トルテッ!!」
つんのめるようにして全力で駆け寄ったリューナは、少女の細い体を膝の上に抱き上げた。その手がぬるりと滑りかける。自分の手を腕を膝を染め、なおも流れる大量の血にリューナは目を見開いた。
震える手で金色の髪を掻き分け、白くすべらかな頬に指で触れてみるが、相手のまぶたはぐったりと伏せられたまま。さきほどキスを交わした唇も、なかば開いたまま動かなかった。
「……トルテ、嘘だろ!?」
リューナはトルテの胸に開いた穴を見た。薄く鋭利なもので一突きにされたように縦に開いた穴は、背中にまで到達していた。そこから、じわりじわりと赤い色が流れ、広がっていく。――止まらない。
リューナはトルテの胸に手を当て、その命を繋ぎ留めようと魔法を使った。ありったけの魔力を、想いを込めて、何度も何度も、祈るように、何度も。
遠くから自分たちの名前を呼ぶ複数の声が近づいてくるのにすら、気づかなかった……。




